第一編 第三章 ⑥

 たぶん、霞さんの言葉が契機になったのだと思う。霞さんに言われて、注意深く彼女の行動を目で追ったから、分かったのだ。

 ニャー先輩は調子が悪そうだった。

 笑顔に陰りは一切見えないけれど、動きには鈍りが見えた。

 それに、しばしば隠れるように溜息を――深呼吸をしているのに気付いた。

 客がいない時間、ぼーっとしていることが増えた。

 明らかに、何かしらの疲れが見て取れる。


 貴方は当然、彼女に指摘したのだけど、これもまた当然、彼女は大丈夫だと否定した。

 遠慮するように、両手を振って。

 いつもの笑顔は、無理しているようにしか感じられなくなった。


 今日、ニャー先輩は仕事で初めてミスらしいミスをした。

 お皿を落として割ってしまったのだ。


 流石にもう、貴方は堪えられなかった。


「あ、先輩、大丈夫です。ニャーが片付けますから」


 貴方が箒とちりとりと持ってくると、ニャー先輩は落ちた皿に目を落として言った。


「俺がやるよ」


 そう言って、箒とちりとりをそれぞれ両手で持ち直し、


「ニャー先輩。今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃないか?」

「いえ、でも……」

「言い方が悪かったな。早く帰って休めって。見てられねえよ、危なっかしくて」


 強く言い過ぎた気もするし、ずるい言い方だった気もする。けれど、たぶん、この子はこうでもしなければ聞いてくれない。


「この時間からはあんま客も来ないし。俺一人で大丈夫だから、な?」

「……はい」


 彼女にだって自覚はあるのだろう。

 ようやく彼女は貴方の薦めに従った。

 ニャー先輩がバックヤードで着替えをすませている間に、貴方は割れた皿を片付ける。

 大きな破片をゴミ箱に入れて、細かい破片が散った床をガムテープで掃除して、掃除道具を片付けに戻る。

 ちょうどその時、白雪さんがいる部屋からニャー先輩が出てくるところに行き合った。


「すみません、先輩。それではお先に失礼します……」

「気をつけて帰れよ。お疲れ」


 ニャー先輩は会釈して、ふらふらとした足取りで店を出て行った。

 貴方はそれをちゃんと見届けてから、行動を再開した。


 更衣室兼倉庫となっている部屋に入った。

 奥にロッカーが壁一面に設置されており、その前にはテーブルが用意されているこぢんまりとしている。

 一番右側のロッカーを開けて、そこに箒とちりとりを仕舞った。

 その時、ふと、貴方は視界の端で何か違和感を覚えた。目を向ければ、ロッカーの一つが若干開いているのが見えた。

 近づいてそのロッカーを開くと、底のところにパスケースが落ちていた。どうやらこれが引っかかってきちんと閉まらなかったらしい。


(ニャー先輩のですわよね? それ)

「多分な」


 貴方はパスケースを拾って、踵を返した。今から向かえば、すぐに追いつくはず。そう思ったのだけれど、目論見は第三者によって破られた。

 店内に戻ったところで新しく客が来てしまった。当然、対応するのは貴方しかおらず、急く気持ちを心に仕舞いながら接客をする。

 水を出して、注文を取ったところで、貴方は白雪さんのところに向かった。

 入ると白雪さんはウサギのような耳をぴくりと動かし、ゲームをしていた手を止めて――またゲームしてたのか――貴方に向き直り、整った顔を不機嫌そうに歪めた。


「何? 注文? この時間に面倒ね」


 店長の言葉ではなかった。


「水出しアイスコーヒー二つ」


 貴方が注文を伝えると、白雪さんはおもむろに立ち上がって、コーヒーメーカーなどが置かれている棚に近づいた。

 その彼女の横顔を見ながら、貴方は付言する。


「あと、ちょっとお願いがあるんだ」

「なあに?」

「ニャー先輩が定期入れ置いてったみたいだから、届けに行きたいんだよ」

「いいんじゃない? 別に」


 白雪さんはボックスから氷を取り出し、グラスに落とした。


「わざわざ聞くことでもないでしょう」

「じゃあ、その間、接客はしてくれるんだな?」

「え?」


 やにわに彼女の手が止まった。

 この私がなんで? みたいな顔をしている。

 店長がする顔ではなかった。


「なんでそんな意外そうなんだよ……」

「失敬。冗談よ」


 白雪さんは言うと、しばし無言になり、やがて口を開いた。


「そうね、貴方も、もういいわよ」

「……どうして?」

「ついでにあの子を家まで送り届けてあげて欲しいのよ。あと、様子も窺ってきて」


 白雪さんはまた一つ氷をグラスに落とした。


「今日だけじゃないのよ。あの子の調子が悪いのはずっと気付いてたわ。何度も、頼来一人にバイトは任せて休んだらって言ったのに聞かなかったのよね、あの子」


 勝手にそんな薦め方をしていたのか。

 びっくりである。

 しかし、ニャー先輩の答えは、想定内だった。


「じゃ、悪いけどもうあがるよ。そのコーヒーも出しておいてくれ」

「えー」


 白雪さんが眉を八の字にして嫌がった。

 子供か、この人は……。


「頼んどいてなんだけど、あんた接客できるんだよな?」

「当然。一通りできる可能性はあるわ」

「可能性? 可能性ってなんだ?」

「貴方、可能性って言葉さえ知らないのね……」

「単語の意味を聞いたんじゃねえよ!?」


 もちろん、理解した上で白雪さんは言ったらしく、


「単なる言い間違えよ。心配せずに任せなさいって」

「いまいち信用できないんだけど……」

「しつこいわね! 客が来たら適当にあしらえばいいんでしょう!?」

「客が来たら丁重に扱ってくれ!!」


 音は似てるじゃない――と白雪さんは手をひらひらさせて貴方を促した。

 意味を気にしてくれ――と貴方は長居する気もなく部屋を出た。


 小走り気味に更衣室に戻って服を着替える。私が見ていることなど思慮の外。実際、だいぶ時間が経ってしまったので急がなければいけないと、それだけを貴方は考えていた。

 着替え終わるとまた、小走りで廊下を渡った。

 そこで白雪さんが顔を出し、言う。


「何かあったら、連絡だけはして」


 頷いてそのまま出入り口まで進む。

 扉を開いて、外に一歩踏み出したところで、貴方は立ち止まった。

 思わず手の平を空に向けて、顔を仰向けてしまう。


 雨が降っていた。

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