第一編 第三章 ⑤

 その日の帰り道で、ニャー先輩のその呟きについては一応、貴方に伝えておいた。


「なんで今頃になって言うんだよ、リズ……」

(仕方ないじゃありませんの。あの後、すぐに忙しくなったんですから)


 仕事中にあまり話しかけるな、と自分で言っていたことを思い出してか、貴方は納得した。 それに、どうせその時に聞いていても、彼女に問い質せなかっただろうと考える。何故聞こえていたのか、それもあるし、聞いたところで正直に答えてくれる――答えられるようなものではないように思えたから。


 ほぼ毎日、彼女と一緒にいて、貴方は思っていたことがある。

 彼女は自分に、いや、全ての人に何かを隠しているのではないか、と。

 それは再会した時、倒れていた理由でもあるし、貴方や永久が邂逅した、あの謎の男性でもある。

 何かしら深い事情があるのなら、それがもし困難であるのなら、助けになれればと思うのだが、それを言っても彼女はやはり、隠そうとするのだろう。

 見ていれば、嫌でも分かってしまう。

 彼女は自分一人でなんとかしようとする性質たちの人だ。

 それは『迷惑をかけたくない』という彼女の言葉に強く表れていた。


 であれば、結局、自分がやれることは変わらないのだろう。

 今まで通り、バイトを続け、勝手に彼女の負担を減らすだけだ。


 貴方は再認識して、次の日もまた、バイトに出た。何事もなく、仕事は淡々と進められていく。

 と、思ったのだけれど――


 夕方になって混み合ってきた店内に、また新しい客がやってきた。


「いらっしゃいませ」


 ちょうどレジにいた貴方は反射で客を出迎える。目を向ければ、そこにはよく見知った人たちが、いた。


「悪いな、頼来。来ちゃった」

「来ちゃいましたか……」


 貴方は脱力して、彼女の言葉をオウム返しした。


 和髪とも言うべき黒く艶やかな髪を背中まで流す少女。

 彼女は撫原なではらかすみさん。

 永久の幼馴染みであり、貴方の友人であり、最近永久と貴方の会話に出てきた人だ。

 彼女は貴方が懇意にしている病院、撫原医院の人間だった。正確に言えば、そこの院長の孫娘である。


 霞さんは悪そうに笑って、長く綺麗な黒髪を揺らし、貴方を眺めるように見た。


「馬子にも衣装だな」

「そりゃどうも」

「なんだか、ぞんざいだな、頼来」


 ひどい奴だよな――と楽しそうに彼女は傍らの連れに言った。そこには永久と蒼猫がいた。どうやら三人で来たらしい。

 貴方はまさかわざわざ遊びに来るとは思っていなかったので、虚をつかれた気分になった。


「誰が言い出しっぺだ?」

「あたしに決まってるだろ?」

「だろうな。お前、病院の手伝いで忙しいんじゃないのかよ」

「たまにはいいじゃないか、たまにはさ」


 霞さんは永久をちらっと見た。それで貴方は察する。永久と最近帰れていなかったから、久しぶりに彼女と一緒にいたいと思ったのだろう。


 彼女を心配して。


「兄さん。ほら、ちゃんと接客して下さい」


 蒼猫が青い尻尾をくねらせながら言った。

 貴方は、はいはいと受け答え、


「ではお客様、席にご案内します」

「……うわ」

「蒼猫! なんだよ、その反応は!?」

「だって、兄さん、敬語――」


 ころころと鈴を鳴らしたかのような笑い声をあげる蒼猫を睨む。


「敬語くらい使うっての……」

「私も蒼猫に同感だな。君が敬語を使っているところを初めて見たぞ」


 永久の追撃を受け流して、店内に彼女たちを導いた。その最中、貴方は苦々しく思う。知り合いが客として来るのは、本当にやりにくいったらない。しかし、接客系のバイトをする限り、これは避けて通れないことなのである。


「はい、どうぞ」


 案内された席についた彼女たちの前に、取ってきた水を置いてぶっきらぼうに言う。


「注文はお決まりですか?」

「別に敬語を続けなくてもいいのだぞ?」

「……じゃあ、注文は?」


 貴方の問い掛けに、彼女たちは三者三様に答える。アメリカンとアイスココアとアールグレイ。霞さんはコーヒーで蒼猫はココアで永久は紅茶だ。こうも綺麗に好みが別れるのは面白い。


「他には?」

「あ! では、私、ケーキ食べてみたいです」


 蒼猫がメニューを指差した。お手製チーズケーキと品目が書かれていた。


「美味しいですか? これ」

「食ったことねえけど……多分、美味いんじゃないか? ここの料理人、腕はいいから」


 料理人である冥沙さんがつくってくれたまかないは何度か食べたことがある。その腕前は確かで、ケーキも同じ出来だと予想はできた。


「では、お願いします。二人はどうしますか?」

「あたしは……食べたい、けど」


 何やら思案を始める霞さん。

 そこで永久が軽く言う。


「別にこれくらいでは太らないぞ?」

「いいや、その油断が大敵なんだよ、永久。お前は太らない体質だからいいけどさ……」


 霞さんが本気で涙声で言った。

 貴方はそれを聞いて、永久と昼食を取った日を思い出し、「ああ、だからあの時、昼飯にいなかったのか」と少しすっきりした。


「でも、霞さん、気にすることないように見えますよ?」

「そんなことない……食べれば食べるだけ、その、でかくなるし……」


 霞さんは言って、自分の大きな胸を隠すように腕を組んだ。だが、残念ながら、隠れきっていないし、むしろ強調するように胸が形を変える。


「……ずるいですね。大きくなるのでしたら、いいじゃないですか」


 蒼猫は羨ましそうに霞さんの胸に注目した。永久はというと、興味なさそうにしているがこっそり自分の胸を触ったところを見ると、気にしているのは分かる。


「蒼猫も大きくなれば分かるって。大変なんだぞ、これ……」

「なれるならなりたいものです。ですよね、永久?」

「私に振るな」


 と、繰り広げられるガールズトーク。

 貴方は無言で聞いていて、非常に物凄くいたたまれない気持ちになった。

 仲がいいのは素晴らしいのだが、男である自分を前にしてそれはやめて欲しかった。


 つーか、こいつら早く決めろよ、と貴方は強く思った。


 しばらく姦しくしていた彼女たちだったが、注文はちゃんと終わらせてくれた。結局、チーズケーキにカスタードプティングにワッフルを頼まれる。ここでも三者三様だが、今回のは理由が違う。少量ずつ食べ回したくて(蒼猫が)そうしたのだ。男の貴方には少々理解しがたい行動である。


「じゃ、ちょっと待っててくれ。あと悪いけど、お前たちのこと構えないからな?」


 貴方は店内を見てそう告げた。喫煙席側のフロアでニャー先輩が忙しく動いているのが見える。ほぼ満席の店内は少しだけ活気に満ちていた。


「すみません、兄さん。なんだか忙しい時に来てしまって」

「別にいいよ、それは」


 むしろ、忙しい時でよかったかもしれない。気にしている余裕がないから気が楽である。

 貴方はそのまま仕事に戻った。

 忙しい店内を駆け回って、何組か客が一気に出て行き、入れ替わりに新しい客が団体でやって来る、なんてことを繰り返す。


 霞さんたちがやって来てから、優に一時間は経っただろうか。団体の客を気持ち追い返すように見送って、ようやく一息つけると思った時だ。


「頼来、ちょっといいか?」


 霞さんに呼び止められた。


「あの人、ニャー先輩のことだけど」

「知ってたのか?」

「さっき、永久に挨拶に来て、あたしたちとも自己紹介したんだよ」


 貴方は頷く。永久を見つけて律儀に挨拶するのは彼女らしかった。


「霞、お前も先輩呼ばわりされたんだろ?」

「あたしだけじゃなくて、蒼猫もされてたぞ?」

「……マジか」


 どういう発想で蒼猫が先輩になったのか、非常に気になった。

 永久についての彼女なりの論理展開はなんとなく理解はできたのだが、蒼猫に対するものはどうだろうか。

 たぶん、異次元の回答が待っていることだろう。


 霞さんは考え事を始めた貴方を見上げて、肩にかかっていた髪を指で摘みながら、


「呼び止めたのはその話が理由じゃないよ」

「ん? じゃあなんだ?」

「あの人、調子が悪そうだな」


 霞さんは尋ねるように言うが、ほぼ確信しているようだった。


「今日だけじゃないんじゃないか?」

「……なんでそう思った?」

「動きを見ていて、なんとなく。上半身を下げるときは楽そうなんだけど、戻すときが辛そうなんだよ。急性的な疲労の動きじゃない」


 言われて、貴方はニャー先輩を目で探した。が、見渡しても見当たらない。おそらくバックヤードの方にいるのだろう。


「……今日一日見てたけど、全然分からなかったな」


 貴方は霞さんにそう返答した。ただ、


「ただ、昨日から少し疲れているようには感じてたんだよな」

「昨日から、か……」


 霞さんは摘んでいた髪を指先にくるくると巻き付けて、小さく唸り、


「悪い! やっぱ気になる!」


 席を立つと、バックヤードに引っ込んでいるだろうニャー先輩のところへ向かった。

 取り残された貴方たちはぽつぽつと会話する。


「霞さんって似てますよね、兄さんに」

「は? どこがだよ」

「お節介なところが、ではないか? 頼来」

「お人好しとも言いますね」


 蒼猫の言に永久は頷く。

 貴方は認めなかった。

 ただ、霞さんがお人好し――もとい、お節介――もとい、優しいのは知っている。

 それが理由で彼女は自ら進んで病院の手伝いをしているのだ。


 そうこうしているうちに霞さんが戻ってきて、席に着いた。話してくれるかと思ったのだが、彼女は何も言わない。

 貴方は不思議に思い、催促する。


「どうだった?」

「あー、いいや。あたしの思い違いだったみたいだ。気にすんな」

「……一応、心配ではあるからさ、はっきり教えてくれないか?」


 ほら、お節介です――という蒼猫の茶々を貴方は無視した。

 霞さんは貴方を見上げて、言葉を選ぶように答えた。


「えっと……頼来、女の子には色々あるんだよ」

「なんだそりゃ」


 貴方は彼女の言葉の意味を探った。

 女の子、と強調する意味。

 それは、


「ああ、そっか、生理――」

「頼来。なんであたしが言葉を濁したのか、分かってるか?」


 霞さんは鋭い目付きで睨んでくる。

 そこはそれほどでもないが、声音が凄く怖かった。


「頼来はもう少しデリカシーというものを学ぶべきだな」


 ひたすらに声が怖かった。

 本当にどうしようもないな(ですね)――というヤジを貴方は無視して、


「悪かったって。でも、聞けて良かったよ」


 そういうことなら彼女に無理はさせない方がいいだろう、と貴方は思ったのだけど、


「あ、頼来。そういうのはやめろよ?」

「……何も言ってないんですけど?」

「頼来のことだから、気を使ってあの人に無理させないようにしようと思ったんじゃないか?」


 的確すぎた。


「人によるけど、男からの気遣いを心苦しく思う子もいるんだよ。言ってしまうとな――そういう気遣いは本当に面倒くさいんだ」


 本当に、という部分が強調されていた。

 実感ある、質量を感じさせる、そんな御言葉。


「男からしたら勝手な言い分かもしれないけど。でも、アレは気遣われてもどうしようもないことだし。この年頃の子だと、恥ずかしいっていうのもあるからな」


 霞さんは女性を代表して教えてくれた。

 それにしても、彼女は恥ずかしそうではない。

 仮ではあるが、医療従事者としてそういったものは当然のことで、恥ずかしいという意識には繋がらないからなのかもしれない。

 むしろ健康そのものなわけだし。


 貴方は彼女の言葉を重く受け止めて、頷いた。

 それからすぐ、彼女たちは席を立った。

 会計レジの前で、霞さんは言う。


「念のため、今後の様子に気をつけろよ」

「でも……あれって長引くものでもないんだろ?」

「可能性の話。もし、あの人が強がって嘘を言ってたらどうだ? あたしはあの人のことを知らないから断言出来ないけど、どこかそういうタイプの人に思えたな」


 彼女は慧眼をもって言い切った。

 それは、ありえる話だった。

 生理だと言えば他人は引き下がるしかない。

 それを分かっていて、彼女は嘘をついた。

 疲れていることを誤魔化して、他人に心配させないように。


 あのいつもの笑顔を見せて。


「サンキュー、霞。気をつけるよ」


 霞さんは真面目な顔で頷いた。

 やはり彼女の心根は優しい。


「あ、そうだ。礼がてら言うんだけど」


 貴方はふと思い出して、霞さんに言った。


「なんだ?」

「昼食抜くと、返って太るからやめておいた方がいいぞ?」

「んな!?」


 ぎょっとして、徐々に顔を赤らめる霞さん。バッと永久たちの方を見ると、永久は視線を逸らして、蒼猫はよく分からないという表情になった。


「病院にいる奴が知らないわけないよな」

「うるさいな! 分かってるよ! 分かってても……うー」


 言葉が出てこなくて代わりに唸り声をあげて、お腹周りを両手で押さえた。貴方がそこをじっと見ていると、彼女は吼える。


「何、じっと見てるんだよ! あっち向け!」

「太ってるようには見えないぞ?」

「余計なお世話だ! この馬鹿!!」


 貴方はそっと考えた。見た目だけなら清楚で純情可憐に見えるのに、何故こうも言葉遣いが荒いのだろうか。それには私も同意せざるを得ない。


「本気で言うけど、過度なダイエットはやめとけよ」

「…………うるさい」


 顔を真っ赤にして睨んでくる霞さんを見て貴方は満足した。


「今日、からかわれたお返しは済んだな」

(やっぱり、最低ですわね、貴方……)

「うっせ」


 会計を済ませて、彼女たちは店を出て行く。


「じゃあな、頼来。また来てやるよ」

「デザート全部美味しかったです。ごちそうさま」

「……頼来、無茶はするなよ」


 それぞれ気になることを言うあたり、気があっているというかなんというか。

 貴方は特に永久の発言が気になっていた。

 彼女が言う『無茶』とはどういったものを指しているのだろうか。

『無理』なら分かるのだけど、『無茶』だと意味合いが少し違う。

 頭を悩ませる貴方には悪いが、私が一番気になったのは別の発言だ。


(頼来。デザート、美味しいらしいですわね)

「ん? そう言ってたな」

(……美味しいらしいですわよ?)

「……分かった。皆まで言わなくても分かったよ」

(ふふっ、そうですの)


 貴方は苦笑いを浮かべて、レジから一歩出た。

 お盆にお皿を何重にも乗せたニャー先輩が側を通りかかる。


 不思議と、鼻腔を雨の匂いが掠めたような、そんな気がした。

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