第一編 第三章 ④

 結局あれから。

 貴方は考え事を終えた永久と帰路に着いた。何を考えていたのか当然問うたのだが、永久は一言だけ口にして、答えてくれなかった。


「気にしすぎだ」


 それは自分自身に言った言葉なのか、貴方に言った言葉なのか、分からなかった。永久が何を考えていたのかは、結局聞けずじまいである。


 貴方がそう昨日を回想しながら、倉庫の整理を終わらせて店内に戻ると、


「ありがとうございました! またお越しください!」


 ちょうどニャー先輩が子供連れの親御さんを見送るところだった。


「お姉ちゃん、バイバイ」

「バイバーイ」


 ニャー先輩は笑顔で手を振り返して、子供を見送る。

 扉が閉まり、世界が断絶されると、ニャー先輩は手を止めて、ふうっと息をついた。

 笑顔が寂しげな顔になり、尻尾が悲しげに垂れる。


「ニャー先輩、お疲れ」

「あ、先輩」


 彼女は振り返って言った。すぐにいつものように笑顔になるが、それはどことなく疲れが見えるもので、覇気は感じられなかった。


「……大丈夫か? ニャー先輩」

「えっ!? だ、大丈夫ですよ! ニャーは平気です! グラスさげちゃいますね?」


 言うなり、今の客が使っていた席に向かおうと身を翻えした。

 その瞬間。


「あ」


 と言葉を漏らし、彼女は足をもつれさせて転倒しそうになる。

 貴方は間一髪で彼女を支えて、


「ほら、言わんこっちゃない」

「す、すみません……ですがニャーは」

「今、客いないし、混んでくるまで時間あるから、それまで白雪さんの相手でも……」


 それはそれで疲れるか。


「……適当に休んでていいから」


 そう言われても、まだ何か言いたそうだったニャー先輩だが、自分の状態をかえりみて無理だと悟ったのか、「では、お言葉に甘えさせていただきます」と丁寧に言って、ふらふらした足取りでバックヤードへ歩いていった。


(大丈夫かしら? ニャー先輩)

「そこまで疲れてるとは、思ってなかったな」


 彼女の様子は今日一日の疲れではなく、蓄積された疲れを感じさせた。

 グラスをさげにバックヤードに入ると、ニャー先輩が廊下に丸椅子を置いて座っていた。ちゃんと休んでいるようだ。

 貴方は仕切り前の水場でグラスを洗いながら、傍らに座るニャー先輩に声をかけた。


「ニャー先輩、子供好きそうだな」

「はい、みんな可愛くて、大好きです。先輩はどうです?」

「俺も好きだけど、小学生くらいの子がいいな。一緒に遊べるし」

「小さな子でも一緒に遊べますよ?」

「なんつーか、小さい子って難しいだろ? 無理させられないって感じで」


 小学生くらいになれば、多少は無茶してもなんとかなるものだと、自らの過去を振り返れば分かる。だが、それよりも前となると記憶になく、さらに軸となる考え方が不安定だったはずなので、ようするに予測ができずに扱いが難しくなるのだ。


「そんなことないと思いますけど」

「ニャー先輩にとってはな。さっきも、凄い楽しそうに手振ってたし」


 へへへ、とはにかむニャー先輩を見て、貴方は先程の情景を思い出した。

 ニャー先輩は子供が好きで、もしかしたら子供も愛嬌ある彼女が好きになるのかもしれない。


「話、変わるけどさ」


 貴方はできてしまった間を機に話題を変えた。溜まっていた洗い物を続けながら、


「ニャー先輩ってどこに住んでるんだっけ」

「ふえっ?」


 物凄い間の抜けた反応が返ってきた。

 手を止めずに顔を向けると、ニャー先輩が手を落ち着かなく動かしてあたふたする。


「そ、そんな、先輩をご招待するには少々散らかっていますし、それに」

「話が噛み合ってないぞー? 別に行きたいとかそういう話じゃないからな」

「あ、そうでしたか。……えっと、では、何故そのようなことを?」


 ニャー先輩は不審そうに――どちらかといえば、不安そうに聞いてきた。


「何故って、そりゃあ……」


 貴方は語尾を掠れさせて考える。

 当然、呼び水となったのは昨日の出来事だ。

 昨日、出会った謎の男性との会話。彼はニャー先輩の家がどこにあるのかを聞いてきた。何故、そのようなことを知りたかったのか、事情はまったく分からないが不審には違いない。だから、何かあったら対応できるように彼女の家くらいは知っておきたかっただけだ。

 ただ、それを率直に話すべきなのかどうか。


「……ニャー先輩、一人暮らししてるって言ってただろ? だから、この前みたいに倒れたりしたら危ないな、ってそう思ったんだよ」


 半分本気で、もう半分は嘘で答える。

 結局、貴方はあの男性の話はしなかった。

 彼を信用する気はさらさらないけれど、彼の最後の言葉がどうにも引っかかって。


 ニャー先輩のために秘密にして欲しい、か。


「気になったから聞いてみただけ。他意はなし。オッケー?」

「は、はい。心配していただき、ありがとうございます、先輩」


 ニャー先輩の言葉が胸に刺さる。なんだか、純粋な子を騙しているような気がして、少々辛い。だが、めげる気はなかった。


「それで? どこに住んでるんだ?」

「えっと……向こうの方の住宅街にあるアパートで」

「向こうってどっちよ?」


 方角で言われても……方角でさえない示し方をされても困る。

 ニャー先輩は説明が苦手なようなので、直截的に住所を尋ねた。貴方は番地まで聞いて「永久の実家に近いな」と思い、続いて「そこら辺にアパートの類はあったっけ」と私に問い掛けてくる。が、残念ながら私は地理には明るくないので答えを持たなかった。


「アパートの名前は『睡蓮』と言いまして、二○一号室に住んでいます」

「二階か…………ん?」

「はい?」


 貴方が首を傾げると、ニャー先輩もつられて首を傾げた。


(どうしましたの?)

「リズ。今、ニャー先輩なんて言ってた?」

(何って、『睡蓮』ってアパートに住んでるって……あら?)


 どこかで聞いたことのある名前だった。

 まず、あの名画が頭に浮かび、続いて数日前に見たプリントが思い出される。

 そう、そのアパートは確か、


「もしかして、階段が壊れたっていうあのアパートか?」

「! 知ってるんですか?」

「そうか。ニャー先輩、そこに住んでるのか……」


 偶然にしては出来すぎているように思えた。こうやって話が繋がっていくことには、誰かしらの意思を感じてしまう。

 誰かと言えば、当然、心裡さんだ。

 彼はもしかして、ニャー先輩のことを知っていて、それであのプリントを残したのか?


「先輩……?」

「あ、悪い。なんでもない」


 誤魔化すように貴方は蛇口から出続けているお湯を止めた。たぶん、考えすぎだろうと貴方は思い直す。偶然でもなんでも、こうして現状が知れたことはいいことではないか。

 本当に、これ以上ない有益な情報だ。


「ってことはニャー先輩、大丈夫なのか?」

「階段のことでしょうか? 一応、梯子はしごを用意してもらったので……」

「じゃなくて、もうすぐ取り壊すんだろ? そこ」

「あ……」


 一旦、言葉を失ってから、


「そうですね。だから今、次の家を探しているところなんです」


 ニャー先輩は苦笑いで言った。

 貴方は笑わなかった。

 笑えなかった、という表現が正しいか。


「ニャー先輩、だったらさ」


 貴方はえへへとまだ苦笑いを浮かべる彼女に、


「もし行くところないなら、ウチに来たらどうだ?」

「先輩のお家、ですか……――つまり同棲ですか!?」

「うん、違う」

「違うんですか?」


 ニャー先輩は乗り出した身体を戻して椅子にすとんと座り直した。

 どこか残念そうにしているのは気のせいだろうか?

 それはさておき、今のは貴方の話し方が悪かった。貴方はニャー先輩にあえか荘のことをちゃんと話してはいなかったからである。


 貴方は一息ついて、一度通したあの日本屋敷が集合住宅として機能しており、そこの大家をやっていることを彼女に説明した。


「家賃も他よりはたぶん安いし、まあそれは建物古かったり色々不便があるからだけど――とにかく、ニャー先輩が住んでくれるなら俺としてもありがたいんだよ」

「? どうしてです?」

「生々しい話だけど、金は入るし、それに……ニャー先輩なら信用できるからさ」


 大家をやっていれば誰でも願うことがあった。

 店子が信用できる人間であることだ。

 貴方もご多分に漏れず、それは強く願っていた。まだ数年間しか実働していないけれど、店子とのトラブルというのは何度か経験があった。

 家賃を払わず、突然夜逃げする人間。

 酒癖が悪く備品を壊したり浴場を汚してしまう人間。

 そんな店子は確かにいたのだ。


 とはいえだ、まだこんなものは可愛い方だ。一番問題となるのは、店子同士で問題を起こすような輩である。隣人トラブルを頻発させる人間は、実際かなり存在するものだ。

 自分だけが住んでいるのなら、それもなんとか我慢できるし解決だってできよう。だが、貴方は一人で住んでいるわけではない。あそこには、蒼猫のように護られないと生きていけない人間がいる。だから、本当に信用できるような人でなければ、入居させたくなかった。

 そんなのはわがままだけど、それこそ贅沢だけど、お金のためだけに大家をやっているつもりはないのだから、それくらいは許してもらいたい。

 誰に、と言えばあえか荘を残してくれた祖父にだ。祖父も自分顔負けに私物化して利用していたのだから、恐らく大丈夫だろうけど。


無理強むりじいするつもりはないけど、どうだ?」

「…………」


 ニャー先輩は黙考する。

 大きな手を膝の上でにぎにぎと動かして。

 しばらく待つと、答え。


「ありがとうございます、先輩。ですが、すみません。先輩にご迷惑かけるわけにはいきませんので」

「さっきも言ったように迷惑どころか助かるんだって」


 貴方は言うが、彼女はそれでも首を振った。


「たぶん、ニャーはまた、迷惑かけちゃいますので……」

「……?」


 また、とはどういう意味だろうか。そんな風に言えそうな何かはないはずだけれど。ただの言葉の綾、いつもお世話になっていると謙遜を表しただけなのか。

 貴方が頭を捻らせていると、彼女は顔をあげて笑顔で言った。


「大丈夫です、先輩! ニャーのことはご心配なさらずに!」

「……本当に大丈夫なのか?」

「はい!」


 彼女の力強い答えに、貴方は食い下がる気にもなれず、


「分かったよ。でも、本当に遠慮することはないんだぞ? ニャー先輩なら信用できるし、いつでもウチに来ていいんだからな」


 そう強く確認したところで、お店の扉が開かれる音が聞こえてきた。

 貴方は洗い物をしていた手を止めて、客を出迎えようと足を動かし始める。

 その時、後ろで彼女が何か言ったような気がしたが、貴方は仕事を優先した。


 貴方には聞こえなかったけれど、私には聞こえていた。

 彼女は言ったのだ。


「ですが、ニャーが一番、信用できないんですよ……?」


 悲しそうな声だった。

 誰かに確認するような小さな呟きは、応えを持たず、宙に霧散して消えた。

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