第一編 第三章 ③
男性を見て貴方がまず抱いた感想はごついだった。
短く切り揃えた黒髪に四角形の頭、彫りの深い顔に鋭い目をしている。来ている黒いスーツの下には隠しきれない筋肉が窺われた。文字通りの逆三角形の体型で、胸板の厚さはもしかしたら貴方の倍はあるかもしれない。持っている傘が可哀相なくらいに小さく見えるほどに、彼の肩幅は広かった。
男性は貴方たちを見やると、一歩一歩と近づいてくる。するとどうだろう、遠近感が狂ったのかと錯覚するくらいに、彼がどんどん大きくなっていく。まさか、そんなわけもなく、彼はもともと上背のある人だった。貴方よりも頭一つ背が高い。
直前まで近づいてきた男性に応じて、貴方は無意識に永久を隠すように前に出た。
「…………」
「…………」
貴方たちは目を合わせて、黙ったまま軽くにらみ合う。
「…………」
「…………」
いや、何か言えよ――と、貴方が先に口を開こうとしたその時、
「……貴方たちは」
男性が言葉を発した。しゃがれたように聞こえるのに、酷く重い声だった。
「貴方たちは、彼女のご友人でしょうか?」
「……」
貴方は答えを保留して、考える。
彼女というのは当然だが、ニャー先輩のことだろう。
明らかに不審な人物の唐突な質問。
正直に答えるべきか否か。
「そうだが」
答えたのは傍にいる永久だった。
彼女に目を配ると、視線で嘘をつくだけ無駄だと言っている、ように感じた。
それもそうかと貴方は思う。
今のは質問ではなくて確認だ。
要するに自分たちがニャー先輩と会話しているのを見ていたのだろう。
貴方はもう一度、男性に視線を送り、
「だとしたら、なんなんだよ」
「……では、彼女が今どこに住んでいるかご存知でしょうか?」
彼は単刀直入に聞いてきた。
ニャー先輩の家がどこにあるかを。
自然と貴方は答えを探して、彼女の家を知らないことに思い至った。
さらに思うのは、もっと重要なこと。
一歩遅れて、微かな寒気を感じる。
彼女の家を聞き出して、この男はどうするというのか。
常識的に考えて、第三者にそれを質すのはおかしいだろう。
後ろ暗い理由があるとしか、思えない。
ここでふと、ニャー先輩との会話を思い出す。
彼女が大量のバイトをしている理由。
物欲的な理由ではなく、もっと、おそらく切実な理由。
それに、彼女の別れ際の不自然な言動。
あれはもしかして、この人から逃げようとして取った行動だったのではないか。
(もしかして、この人、借金取りとかじゃないですわよね?)
「いくらなんでも安直すぎるだろ……なくはないけど」
厳つい容姿に、どこか後ろ暗さを見せる男性。怪しいことこの上ないのに、丁寧な言葉遣いを選んでいるところが、返って怪しさを増大させていた。
男性はにじり寄るように一歩前に足を出し、
「……ご存知であれば、教えて頂け」
「待った。その前に、あんたは誰なんだよ」
貴方はぴしゃりと男性の言葉を遮った。臆する様子は見えないが、内心はかなり緊張していた。はっきり言って、殴り合ったら勝てそうにはない。しかも、傍には永久がいるのだ。逃げるのもおそらく難しいだろう。
「それを聞けなきゃ、俺は何も答える気はないな」
「…………」
素性を明かせと言われ、彼はただ黙った。
身につけていた金色の無骨な腕時計を触りながら、何かを考えるように一瞬目を閉じて、黙り続ける。
「教える気はないのか?」
「…………」
男性は一歩後ろに下がった。
そして、
「……申し訳ございません」
頭を下げて、踵を返した。
貴方は拍子抜けして、反応するのが遅れてしまった。
突然現れて質問攻めして、今度は謝って、唐突に立ち去る。
どう判断すればいいのか、分からない。
「ちょっと待てよ! まだ話は……」
「一つだけ」
男性は足を止めて、振り返る。
貴方の制止を聞いたからというよりも、何かを思い出したからのような急な動作で。
「一つだけ。今日、私と話したことは彼女には内密にお願い致します」
「は? 秘密にしろって……」
そんなことをお願いされても、聞き入れる
「なんで秘密にしなくちゃいけないんだ」
「それは……」
男性はまた身につけていた腕時計を触り、今度はすぐに答えを出した。
「彼女のためです」
「え……」
貴方は呆けたように口を半開きにして声を出した。
男性は無言で頭を下げ、最後の最後まで慇懃な態度を通して、その場を去っていった。
貴方はどうすべきか分からず、とにかく追いかけた方がいいのではと思い、足を踏み出そうとするが、しかし、
「頼来」
永久が静かに貴方を制止させた。
「彼は一方的だという自覚があった上で何も言わずに立ち去ったのだ。追いかけても無駄だぞ」
「……わけ分かんねえよ」
率直な感想である。
残ったものは、彼がニャー先輩を捜すかしていて、彼からニャー先輩が逃げたのだろうという予測だけ。
どんな事情があるのか、詳しいところはまったく分からない。
特に最後の、ニャー先輩のために秘密にしろという話が、判然としなかった。
貴方はふと、永久はどうかと思い、彼女に視線を移した。
貴方の横で、彼女は考え事をしているのか目を伏せて唇を親指で撫でていた。
何を考えているのだろうか?
「永久?」
「……」
「永久さーん」
反応がない。
抱きしめてやれば気付くだろうか、と貴方は馬鹿な企みを頭に浮かべた。
(ちょっと、貴方、さっきのは冗談だったんじゃありませんの?)
「さっきのはな。今度は本気で……」
貴方は心の中で答えているのに語尾を失うという器用な真似をする。
何故かといえば、貴方の視線の先、永久の手に――口もとに当てている手とは反対側の手に、防犯ブザーが握られていたからである。
たぶん、先程の男性に対する備えなのだろうが、ちょっと間が良すぎた。
(……抱きしめてみたらどうですの?)
貴方は首を振って、傘を握る手に力を込めた。すると意識の外にあった雨の存在を強く感じるようになる。強い存在感は触感だけでなく聴覚にも及んだ。
しとしとと降る雨の音を楽しみながら、永久が戻ってくることを貴方は待った。
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