第一編 第三章 ②

 ニャー先輩は猫のような手で器用に自転車を操り、貴方たちの目の前で停まった。


「先輩! 奇遇ですね!!」


 わざわざ自転車を降りてから、物凄く元気いっぱいに挨拶を返してきた。

 風もないのにニャー先輩の雨合羽がひらひらと揺れている。

 理由は単純明快、彼女の尻尾が雨合羽の下で猛烈に振られているからだ。

 失礼ながら、見ていて笑えてしまう。


「あれ? 先輩、その子……」


 ニャー先輩は覗き込むようにして、貴方の傘に入る永久を見入り、手を挙げた。


「はい、先輩! ニャー、分かりました!」

「はい、どうぞ、ニャー先輩」

「迷子ちゃんですね!? ニャーも何かお手伝いします!!」

「迷子になるほど私は小さくないぞ!」


 永久が貴方に代わって応えた。

 貴方はこれくらいは予想していたので何も言わず、首を振ってニャー先輩に不正解を知らせた。

 すると彼女は、


「迷子ではないとなると――そんな! ダメですよ、先輩!!」

「もう絶対間違ってるけど聞いてやるよ!!」

「先輩! 可愛い子を見つけたからって誘拐しちゃダメですよ!!」

「なんで知人ですらないんだよ!?」

「つまり知り合いの子を誘拐したんですか!?」

「どうしても誘拐させたいらしいな!?」


 やっぱり駄目だった。予想外だ。


 貴方はやはり分かっていなさそうなニャー先輩に永久を紹介した。

 ニャー先輩は今度は自己紹介して、永久に向かってお辞儀した。


「以後お見知りおきを、です! 永久先輩!!」

「……君は人の話を聞いていたのか? 私は君の年下だ」

「はい! ですが、先輩のご同輩ということは、ニャーの先輩に当たりますから!!」

「成る程な…………うむ?」


 永久が首を傾げて、貴方を見上げた。何やら呼んでいるらしい。密談だと気付き、耳を寄せると彼女は小さく囁いた。


「頼来……彼女は大丈夫か?」

「……気持ちは分かるけど、察してやってくれ」

「だがな、少し発想がとんでもないぞ?」

「なんか、日本語が変だぞ? 永久……」


 ちょっと奇抜な発想の持ち主だけど、根はいい娘なのだ。

 それだけは、間違いない。


「……ふむ。まあいい。では、私は君のことを仁愛と呼べばいいのだな?」

「はい、よろしくお願いします!」


 もう一度、ニャー先輩はお辞儀をする。今度は勢い余って手を自転車にぶつけてしまった。「はう」と変な声を出して、倒れそうになった自転車を立て直す。

 ガチャンと音を立てる自転車のかごの中身を見て、貴方は遅まきながら気付いた。


「ニャー先輩、もしかして新聞配達中?」

「はい! 今し方、実は先輩のところに配達してきたんですよ」


 ニャー先輩はえへへとはにかんだ。

 それを聞いて、貴方はパズルの一ピースがはまる思いがした。

 ニャー先輩と再会したあの日、彼女はあえか荘を見て驚いたような反応を見せた。それに帰宅の際、自分が何処にいるか確信している様子だった。あれは新聞配達で何度もあえか荘に来ていたからこその話だったのだ。

 それにしても、と貴方が思った時、永久がニャー先輩に、


「仁愛は喫茶店だけでなく、新聞配達のバイトも掛け持っているのか?」


 貴方と同じことを思ったらしく、そんな質問を投げかけた。


「はい! 今日はメルヴェイユはお休みですので、夕刊もやらせてもらっています!」

「夕刊も、ってことはまさか、朝も?」

「毎朝、運んでますね! 先輩のお家はニャーの担当なんですよ」


 いや、もうそこについてはどうでもいいのだ。

 問題はいくつかある。

 彼女の私生活が定かではないから確かなことは言えないが、知っている限りでは明らかにオーバーワークだった。

 毎朝、新聞配達をして、学校にも行って、それが終わればメルヴェイユでのバイトを遅くまでする。

 せっかくのメルヴェイユの休みの日でさえ、彼女は隙間を埋めるように夕刊の配達をおこなっているという。

 いくらなんでもやりすぎではないだろうか。


「仁愛はすごいな。それだけの仕事をよくこなせる」


「そ、そんなすごいことはないですよ?」


 ぶんぶんと首を振って否定する彼女。

 悪いが当てにならない。


「しかし、仁愛。それだけバイトをしてどうするのだ?」


 不意に永久が核心をついた。


「何か欲しいものでもあるのか?」

「い、いえ、そういうわけではなく、生活費として……」

「生活費か。ということは一人暮らしでもしているのだな」

「あ……はい、そうですね」


 どこか思うところがありそうな歯切れの悪さだった。


「――ふむ。立派だな、仁愛は。私には真似できそうもない」


 そう言って、永久は話を切り上げた。

 それだけで充分だったのだろう。


 ニャー先輩は生活費と言うが、これだけ働かなければならない理由がただ一人暮らししているからというのでは少し納得がいかない。他に何か事情がある気がした。それがどれも気軽に話す類のものではないことも想像に難くない。


 それはそれとして。

 貴方としては詳しいところはあまり重要ではなかった。たとえ深い事情があって多忙を極めているのだとしても、それで身体を壊しては元も子もない。

 綺麗事かもしれないが、物事には優先順位というものがあるのだ。


「ニャー先輩、バイトをするのもいいけど」

「あっ」


 ニャー先輩が唐突に目を丸めた。

 くりくりとよく丸まる目である。


「……どうした?」

「いえ! すみません! ニャー、配達の途中だったことを思い出しました!!」


 言うが早いか、ニャー先輩はお辞儀をして、自転車のスタンドを上げて、


「ではニャーはこれで! 先輩方、それではまた!!」

「ちょ、ニャー先、輩……」


 貴方の言葉に振り向くことなく、彼女は来た道を戻って行ってしまった。


「はぐらかされたな、頼来」


 永久がニャー先輩の後ろ姿を見ながら、ぼそっと言う。そうなのかもしれないが、あんなあからさまに拒絶するような子ではないと思うし、それ以前に、


「あの人が的確に俺の言いたいこと察すると思うか?」

「ふむ、君の言う通りだろうな。今のは少し、様子がおかしかったぞ。まるで……」


 永久は言うと、背後を見た。

 貴方はつられて、彼女に雨が当たらないように傘を持ち直して背後を向く。


 その先にいたのは、見知らぬ男性だった。

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