第三章

第一編 第三章 ①

 貴方は雨が好きだった。

 両親にねだって雨合羽を買ってもらい、それを着て雨の下を走り回った、幼少の思い出。

 なんであんなに欲しがったのかは曖昧で、ただ、雨合羽の上から当たる雨の感触とぬかるんだ地面を踏む楽しさだけは、今でも鮮明に覚えていた。


 だからだろう、と貴方は思う。

 今でも雨が好きなのは、その感覚が残っているからだ。


 傘に当たる水滴の感触。

 靴が鳴らす水たまりの跳ねる音。

 遙か遠くが白く煙る、幻想的な世界。


 それを形作る雨が好きだった。


 放課後、貴方は大きなビニール傘と鞄を手に、学校の廊下を歩いていた。

 窓の外を横目で確認すると、どんよりとした暗い空に、土色に染まった中庭が見える。焦点を窓に合わせると、そこには細かな水滴が付き、廊下の蛍光灯の光をきらきらと反射していた。


 バイトを始めてから一週間ほど経った水曜日。今朝の予報では、例年よりも早い梅雨入りらしく、これから断続的に雨が続くようだ。


 貴方は雨が好きだったけれど、今、こうやって雨の景色を見ていると、ニャー先輩が倒れていた時の光景を思い出しかけて、少し物憂いを覚えてしまった。


 下駄箱に移動して、靴を履き替え、外に出たところで立ち止まる。


「何してんだ、お前」


 貴方は軒下で空を見上げる永久に話しかけた。


「頼来、雨が降っているぞ?」

「……蒼猫が今朝、傘持っていけって言ってたよな?」

「本に夢中で聞いていなかったようだな」


 分析するように言うが、自明の理である。

 これなら一緒に登校すればよかったな、と貴方は今朝のことを思い返しながら、ビニール傘を開いて彼女に差しかけた。


「……いいのか?」

「どうせ帰る場所は同じだし」

「そうか。今日はバイトはないのだったな」


 水曜はメルヴェイユの定休日だった。

 だから今日はそのままあえか荘に帰れる。

 そういう意味では永久は幸運だろう。


 永久は貴方を見上げてから、少しだけ恥ずかしそうに、目を逸らし気味に、しずしずと差し出された傘の下に入った。


 二人はゆっくりと雨中を歩き始めた。

 そしてだらだらと会話を流し始める。


「お前、いつも霞と帰ってるんじゃないのか?」

「なんでも、急いで帰る必要があったらしいぞ」

「また病院の手伝い?」

「恐らくな」

「ある意味ワーカホリックだな」

「ふむ。特に最近はそうだな。ほとんど一緒に帰らないぞ」

「……ちょっと、心配になるな、それ」

「君は心配性に過ぎるな。こんなこと、何度もあったぞ。彼女なら問題ない」

「それもそうか」


 少し、ニャー先輩と重なって見えて、心配しすぎたかもしれない。

 そのままなんでもない会話を続けながら、貴方たちは歩く。駅を抜けて、人通りがなくなった頃、貴方は不意に深く息を吐いた。

 なんだか、こういう会話は久しぶりな気がして。刺激はないけれど、疲れないし癒やされるような、そんな会話。いつまでだって、続けられそうだった。

 貴方はまたほっと溜息をついた。


「先程からどうした? 頼来」

「あ――ああ、悪い。なんか疲れてるみたいだな、俺」

「ん、大丈夫か?」


 永久が抑揚のない声音で、こちらを見上げて言った。


「原因はバイトだな?」

「まあ、そう」

「喫茶店だろう? そこまで重労働なのか」

「いや、仕事自体は疲れないんだけどさ」

「では、人間関係か」

「言い得て妙だな。なんつーか、会話が疲れるんだよ。ツッコミばっかさせられて」

「……本当にそこは喫茶店なのか?」


 言ってて少し疑問に思えてきた。

 あそこはなんなのだろうか。


「よくは分からないが、うむ……とにかく君は普通の会話を望んでいるのだな?」

「永久……お前はあれだよな」

「何が言いたい」

「あれだよ、一を聞いて十を知るってやつ」

「少し使い方を間違えているが、私はそこまでではないぞ。もしそうだとしても、それは君が分かりやすいからだ」

「んなことはない。俺が一言うと、マイナス十とか平気で返すのがいるんだよ」


 白雪さんとかニャー先輩とか。

 予測できない返答が恐ろしい。


「成る程、それで先程のツッコミに繋がるわけだな」

「――本当に」


 本当に、この子は言葉足らずのこちらの意図を的確に汲んでくれて。

 なんて会話が楽なのだろうか。


 貴方は傍らで小首を傾げる永久を見下ろす。


 普段はこんなことないのに、小さな彼女が輝いて見えて。


 とても、愛おしく思えてくる。


 貴方は何も考えずに口を開き、


「永久、あのさ……」

「どうした?」

「ちょっと抱きしめていいか?」

「本当にどうした!?」


 永久が珍しく慌てた。

 焦ったように尻尾を振る。


「あ、いや、悪い。ちょっとおかしなこと言ったな」

「ちょっとどころではないぞ? やはり疲れているのだな」


 今度は心配そうに言ってくれる彼女。

 また衝動に駆られそうになるがなんとか抑えた。


(……貴方、本当に大丈夫ですの?)


 流石に心配になって尋ねると、貴方は口に出して答えた。


「少し職場に毒されたみたいだ……」

「そんなに変人ばかりなのか、そこは。大変だな、頼来」

「本当にお前はよく分かってくれるな。やっぱり抱き――」

「抱きしめようとしたら、これを鳴らすぞ」


 永久は小さな手で何かを握ってこちらに見せてきた。


「それって……防犯ブザー?」

「そうだ、護身用にいつも持ち歩いているのだ」

「警戒心が強いことで……小学生みたいだな」

「子供扱いするな!! 鳴らすぞ!?」

「待て待て、ボタンに指をあてるな!!」


 永久はブザーのボタンから指を離すと、貴方を睨み上げ、


「だがな、頼来。私のような容姿……誰が小学生みたいだ!!」

「話を進めろ!!」

「そういう対象に欲情する、特殊な嗜好を持った人間は存在するのだぞ?」

「ああ、まあ、いるだろうな」

「そうだ、例えば妹を嗜好とする君のような奴がな」

「まだそれ続いてたのか!?」

「だが、君はシスコンだろう?」

「少なくとも妹に欲情はしねえよ!」

「つまりロリコンだったのか」

「蒼猫に欲情すること前提で話を進めんな!!」

「ふむ、違うなら良いのだ。もしロリコンだったら、今まさに私は危険な状況だったぞ」

「小学生みたいだもんな」

「誰が子供だ!!」

「今のは自分で言ったようなもんじゃん!?」


 というか、待った。


「なあ、もう少し楽な会話しないか?」

「そういえばそうだったな。すまない。変なことを言うのはやめよう」

「ホントに解ってくれる奴だな……やっぱり抱きしめていいか?」

「話がループしているぞ!?」


 全くだ、自分で言っておいて繰り返していたら世話がない。

 貴方たちは同時に小さく溜息をついて心を落ち着けた。


「ところでだ、頼来。バイトの話で今、気付いたのだが」


 永久は前方を指差して、


「あれは、君が話していた同僚ではないか?」


 自転車でこちらに向かってくる、黄色い雨合羽姿のニャー先輩が見えた。

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