第一編 第二章 ④

 結局、心裡さんには会えなかったが、目的は果たせた。果たせたことが、私は非常に気持ち悪かった。何故かと言えば、貴方は心裡さんに給湯器が壊れた件について何も知らせていなかったからだ。


 仮に給湯器が壊れたことを知ったなら、その後何が必要になるか予測できるのかもしれないけれど、まず前提を知り得るのが不可解極まりない。


(本当に、あの人はなんなのかしら……)

「あいつが変なことは知ってるだろ、リズ」


 貴方はあまり気にしていない様子。

 給水量の資料の代わりに戸籍謄本を入れておき、貴方たちはその場を去った。


 ちなみに小判の封筒には手紙が入っていた。

 まず、『睡蓮』と『竜宮荘』という名のアパートの情報が書かれたプリント。名前からして古いアパートだが、実際に相当古い。古いからか、どうも、取り壊す予定らしい。『睡蓮』というアパートは先月末に外階段が崩れて使えなくなり、『竜宮荘』に至っては建物の歪みでドアが開かなくなったとかなんとか。


 身につまされる話だ、と貴方は思うが、最後の一枚にはこう書かれていた。


『近々、入居者の移転先を探す必要があるんだってさ。興味があるなら、連絡してね。PS.あえか荘も気をつけた方がいいんじゃない?』


 身につまされるどころか身につき刺さる話だった。


「あえか荘は壊れる前に補強しておくのだな」


 一緒に手紙を読んでいた永久は、そう言ってあえか荘に帰っていった。

 補強についてはおいおい考えるとして、入居者についてはどうするか。お風呂が直っていない状態で呼び込むわけにもいかず、保留するしかないだろう。

 貴方はそう結論づけて、メルヴェイユに急いで向かい、バイトを始めた。


 今日は昨日と違って新しいメニューも覚えていたし、仕事の感覚も思い出してきて順調に仕事が進む。

 もう新しく覚えることはないか、と思っていた頃である。


「こんちわー!」


 と、威勢がいいのか間延びしているだけか判断つきにくい声が店内に響いた。入り口を見れば帽子をかぶりエプロンをした男性が立っている。客、ではないのだろう。客があんな挨拶をするとも思えない。


 自分が対応しようと思ったところで、ニャー先輩が男性に近づいていった。二人は何やら話すと、男性が帽子を脱いでお辞儀をし、店を出て行った。

 貴方は入り口脇のレジに入ったニャー先輩に、


「今のは?」

「商店街の八百屋さんです!」

「……ああ、食材ね」


 彼女の言葉を噛み砕いて、貴方は納得した。

 窓の外に荷台がついた車が停まっており、そこから先程の男性が段ボール箱を取り出すのが見えた。

 当たり前の話であるが、店で使う食材はこうして配達してもらっているのだ。

 でも、


「もしかして、以前と違うところ?」

「失礼ながら、前のは質が悪いということで、リニューアルに合わせて変えたみたいですよ」


 ふーん、と相槌を打っている間に、男性が戻ってきた。


「店の前に置いといたけど、ホントにいいの? オジサン手伝うけど?」

「大丈夫ですよ! ありがとうございます!」

「ほんじゃ、どうもね、ニャーちゃん。店長によろしく」


 彼は人が良さそうな笑顔を浮かべると、会釈してその場を去った。

 貴方は彼を追うような形で外に出て、店前に積まれた段ボール箱を見下ろす。

 専用の段ボールなのか、ちゃっかり『武田青果』と名前が書いてあった。よく見るとそれだけではなく、『橋本精肉店』や『甲斐精米』と書かれた段ボールもある。どうやら八百屋――武田青果さんが代表して他の店のものも持ってきてくれたようだ。


 とりあえず重そうなやつから、と貴方は『甲斐精米』の段ボールに手をかけた。持ち上げるとずっしりした重みが腕にかかった。やはり、お米が入っているらしい。

 段ボールを見下ろしていると、ニャー先輩が慌てた様子で、


「そんな先輩! ニャーがやりますよ!」


 いやいや、女の子にやらせるのもどうか。


「いいよ、俺がやるから」

「遠慮は無用ですよ、先輩! ニャー、こう見えても力持ちらしいので!!」

「らしい……?」


 自分のことなのに何故、伝聞形式?

 いや、この子のことだから気にしても意味がないのだろうけど。


「んじゃ、ほら、手出して」


 貴方が言うと、彼女は肉球を空に向けて両手を差しだした。

 その上に貴方は持っていた段ボールを乗せる。

 すると彼女は小刻みに手を震わして、


「ね、先輩! 全然大丈夫です!」

「……本当に?」

「か、軽いですよ!」

「へえ」


 貴方はニャー先輩が持つ段ボールの上に、もう一つ乗せてみた。

 重いのか――たぶん、バランスを取るためか、せわしなく尻尾が揺れ出す。


「あう……おも……」


 耐えきれず、彼女は声を漏らした。


「重い?」

「ち、違います! 今のは『面白い』と言いたかったんです!!」

「無茶苦茶、侠気おとこぎ溢れてるな」


 面白い、受けて立つ――みたいなものか。

 面白いのはそんなことを言うあんただ。

 もう一つ乗せてやろうか、と貴方が思ったところで、


(頼来、女の子を苛めて楽しいかしら?)

「……思った以上に楽しい」

(最低ですわね、貴方)

「意地をはるのが悪いんだよ」


 と答えて、貴方はニャー先輩の手から段ボールを受け取った。二つになると流石に重さを感じてしまう。ちょっと罪悪感も覚えた。でもやはりこれくらいならなんとかなる。

 ニャー先輩は平気そうに二つ持つ貴方を見て、目を輝かせた。


「先輩、力持ちなんですね!!」

「これくらい普通だよ。何言ってんだ」

「いえ、すごいですよ! それに――えへへ、先輩はおばあちゃんですね」

「本当に何を言い出した!?」


 わけが、わけが分からない。


「あ、すみません。おばあちゃんのようだ、って言いたかったんです」

「言い直しても意味が分からねえぞ!?」

「あれ? 分かりませんでした?」

「分かってたまるか。まず、性別がおかしいだろ?」

「まさか先輩は女の子だったんですか!?」

「おばあちゃんの方に合わせるな!!」

「ふえ? あ、先輩は男だって言いたいんですね。でも、それは知ってますよ?」

「……じゃあなんで『おばあちゃん』みたいなんだよ」

「だってニャーのおばあちゃん、すっごく優しいんです!」

「はあ? ……ああ、そういうことね」


 力が抜けて落としそうになった段ボールを心ごと持ち直す。

 広義の『おばあちゃん』ではなくて、ある個人を指した『おばあちゃん』――お祖母ばあちゃん、だったわけか。


 それにしても、一体いつから『優しい』というのが話の主眼になったのか。


「……つーか、俺は優しくないだろ」

「そんなことはありません! 先輩は優しいです!!」

「うぐ」


 そんな真っ直ぐに力説されると、非常に困る。というか、この子はどこからそんな発想を抱いたんだ。重い荷物を持ってあげた、そこだけが美化されて記憶されているのではないだろうか。

 正直、勘弁して欲しい。


(頼来、照れてますの?)

「ニ、ニャー先輩の祖母さんは優しいんだな?」


 貴方は私の言葉をスルーして、ニャー先輩に話を向けた。

 彼女は嬉しそうに綻んで、


「はい! お祖母ちゃん、優しくって大好きです!」

「――それはよかったな、ニャー先輩」


 家族をそうやって語れるのはとてもいいことで。

 そうやって『今』を表せるのは少し羨ましくて。

 嬉しそうに笑う彼女が、ちょっと眩しく感じた。


「じゃ、その祖母さんみたいな俺に」


 自分で言うと何だか奇妙だ。


「……ここは任せて、ニャー先輩は店番しててくれ。客いたよな? たしか」

「はっ! 忘れてました!!」


 ニャー先輩は言い、閉まっていた入り口の扉を開けてストッパーで止めると、


「ではお願いします、先輩!!」


 彼女は店内へと走っていった。


(ちゃんとストッパーで止めるあたり、貴方とは違いますわね)

「うっせ」


 心の中で腐し、貴方は店内へと足を運んだ。

 段ボールを持つ手がちょっと痺れていた。

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