第一編 第二章 ②


『はい? 今日からバイト? 初耳なんですけど』

「奇遇だな、俺もついさっき聞いたばっかだ」

『……兄さん、ふざけてます?』


 電話越しで蒼猫が驚きと怒りの感情をないまぜに声を荒げた。


『すでに工事の業者の人とか来てるんですよ?』

「こっちにも事情があるんだよ。悪いけど、話聞いておいてくれるか?」

『……もう、仕方ないですね』


 蒼猫が呆れを滲ませながら、どこか喜色を混ぜて言う。


『ですけど、私、難しい話は分かりませんよ?』

「そこは、永久がいれば大丈夫じゃないか?」

『――そうですね、兄さんより適役かもです』


 言ってくれるな、こいつは。

 どうにか蒼猫に話をつけて、貴方はコードレスの受話器を台に戻した。


(ほら、頼来。ニャー先輩、待ってますわよ?)

「分かってるって」


 貴方は軽く溜息をついた。

 流石に今日からバイトに出ることになるとは思っておらず、少しだけ気分が憂鬱だった。だが、やると決めたからには――決められたからには気を取り直さなければならないだろう。

 それによく考えてみれば、つい二ヶ月前に経験したことだ。何も不安になることはないし、気楽にやればいいのだ。


 しかし。

 そんな過去の経験はあまり意味がなかったのである。


「メニュー変わってるじゃねえか……」


 貴方は店の制服を着て、手に持った献立表を睨みながら嘆いた。

 二ヶ月前、たった二ヶ月前のはずなのに、あの時とはメニューが様変わりしている。変わっていないのはコーヒーくらいなもので、軽食に至っては品数が異常に増えていた。


「先輩!」


 貴方がうなだれていると、力強い声が耳に入ってきた。ニャー先輩がお盆を手にこちらに向かって走ってくる。


「先輩、今日からまた一緒ですね!」

「お、おう」


 気圧される貴方。

 ニャー先輩の強健な様は相変わらずで、ぶんぶんと振られる尻尾もまた相変わらずだった。

 キラキラと光っているように錯覚させる彼女の笑みを見て思うが、何がそんなに嬉しいのだろうか。

 白雪さんにも同じような態度なのだから、当然貴方が特別というわけではない。

 誰にでも、こうなのだ。


 こういうのを天真爛漫てんしんらんまんというのだろう。


「先輩、どうしました?」

「ニャー先輩は元気でいいなあと思っただけだよ」

「え? えへへ、ありがとうございます」


 ニャー先輩は嬉しそうにはにかんだ。

 少し思うが、この子はちょろそうである。


「あ、それメニューですね」


 貴方が持つ献立表に彼女は手を向ける。

 たぶん、指差したのだろうけど、彼女の手はむっくりとした猫のような手なので分かりにくかった。


「なんか、以前と全然違ってるんだけど」

「はい! 今月、色々とリニューアルしたんですよ」

「色々って、他にも変わったのか?」

「あれ、気付きませんでしたか? 内装とかだいぶ変わったんですけれど」


 あ、そうだった。それはここに来た時に気付いたことだ。

 貴方は改めて店内を見渡した。

 記憶と照らし合わせると、間取りは変わっていないが内装がかなり変わっていた。従業員用のスペースをつくるための仕切りだって以前はなく、そこにはカウンター席があったはずなのだが。


「ゴールデンウィークの休みに合わせてしたんです。なので、席の番号とか、備品の場所とか、全部変わってますね」


 席の番号とはつまり、客の注文を受けた時のための目印である。

 それを聞いて、貴方はまた溜息をつきたくなった。

 本当にこれは、全て覚え直しではないか。


「悪いけどニャー先輩、教えてくれるか?」

「もちろんですよ、先輩!」


 ニャー先輩は表情を緩めて、


「なんだか、今度はニャーが先輩みたいですね」


 よく分からないことをまた口にする。


「ニャー先輩は先輩だろ?」

「ですが、先輩は先輩ですし、ニャーは後輩ですよ?」

「だからニャー先輩は先輩で……いや、ちょっと待て」


 分かりにくいなあ、もう。


「そうだよ、今回のでそれヤメにしないか?」

「どれですか?」

「ニャー先輩が俺のこと『先輩』って呼ぶのだよ」


 もともと教えてもらう立場だったから彼女は貴方をそう呼ぶのだ。なら今回のことを考えれば、それはリセットされてもいいはず。


「もう俺が教えてもらう立場なんだし、年齢を考えれば――」

「そんな、滅相もございません!!」

「……滅相?」


 なんだその言葉選び。この子は一体何者なので、自分は一体何様なのだろうか。


「でもな、はたから見ても意味分からねえだろ、これ」

外様そとさまは関係ありません! ようはニャーがどう思っているかが大切だと思います!」


 ニャー先輩は力強く拳を握り、


「どれだけ時が経とうと、ニャーが何かを教えられるようになろうと、先輩が先輩であることに変わりはないです。人生の先達を追い越すことはニャーにはできません!」


 人生の先達はまさに彼女なのだが。

 まあ、もういいか。


「分かった、ニャー先輩の気持ちはしかと受け取ったよ」

「き、気持ちと言われるとなんだかドキドキしますね」

「アホ」


 献立ではたいておく。

 はたかれておいて、なんだか嬉しそうなのがしゃくだった。


「じゃあ、頼むよ、ニャー先輩」

「はい! ニャーにお任せください!」


 彼女は力強く頷いた。


 それから貴方はニャー先輩にフォローしてもらう形で仕事に従事した。以前とは反対の立場。やり取りしている間に昔のことを思い出すが、それがまた返ってやりにくさを増長させていた。具体的にはやはりメニューと席番の相違である。

 零からものを覚えるのと十からものを覚え直すのとでは、かかる労力がまるで違った。


 二時間が経ち、ようやく小慣れてきたと思った頃、団体の客が入ってきた。それを通すと、さらに団体が現れる。どうも、全て学生のようだった。

 時間的に部活動が終わってから、流れでここに来たのだろう。商店街の外れにあるメルヴェイユは、たむろするにはちょうど良い場所なのだ。

 なんにせよ、この時間帯が平日の客入りのピークだった。


「先輩! 後ろ通りますね!」


 そういうニャー先輩の両手にはお盆があり、その上には料理が所狭しと置かれている。彼女はバランスを崩すことなく、小走りで運んでいった。実に器用である。


(頼来、見とれてないで仕事したらどうですの?)

「お前はいいよな、仕事しなくてすんで」

(何を――あ、頼来。お客さん、呼んでますわよ)


 貴方の後ろで客の一人が手を挙げていた。

 すぐに貴方は駆けつける。


「こういう時はホントに助かるな」

(そうでしょうとも)

「ま、助かるのは客だけど」

(文句言ってないで仕事しなさいな)


 してるだろ、と思いながら、貴方は注文を聞き続けていた。

 学生たちが頼むのはもっぱら軽食ばかり。

 お前らこのあと夕飯だろ、とも思うが、どうも運動系の部活動の学生たちのようなので、突っ込むのも野暮でやめておいた。


「それにしても」


 貴方はメモした注文を復唱しながら、心の中で言う。


「結構、繁盛してるんだな、ここ」

(そうですわね)


 いまだに満席が続く店内を私は見渡して答えた。


「前はそんなに客来てなかったのにな」


 春休みの話だろう。言われてみれば、満席になることなど一度もなかった気がする。


(メニューが変わったからじゃありません?)

「ああ、成る程」


 貴方は注文を取り終えて、厨房に向かう途中、客がついているテーブルを盗み見た。どこもかしこも、先程と同じで飲み物は頼んでおらず、軽食ばかりが載っている。


「喫茶店なのになあ……」


 コーヒーとかそういうのを求めるものではないのか。客に求めろと言うのも変な話であるが、ただ、この店のコーヒーを貴方は気に入っているので、なんとも歯痒はがゆい。


(ですけど、繁盛しているのはいいことじゃありませんの)

「そりゃお前はいいだろうけどさ。忙しいのは俺たちなんだぞ」

(だったらやっぱり、よかったんじゃありませんの?)

「……まあな」


 貴方は私が言いたいことが分かったらしい。

 繁盛していて、忙しいのだとしたら、ここに来た意味もあるというものだ。


「お待たせしました!」


 不意にニャー先輩の声。

 仕切りの向こうに、ニャー先輩が席に料理を置く姿が見えた。


 彼女は料理が載ったお盆をテーブルに置いて、両手で――あの猫のような手で挟むようにお皿を持ち、テーブルに移した。

 そうでもしなければ彼女には、あの手では繊細な作業など、できないからだろう。


(……どうかしましたの?)

「いや、別に」


 そう、別になんでもないことだ。

 こんなことは当然あることで、欠落症の人にとってはよくあるハンデ――そんなことで同情されても、彼女だって困るはず。


 だとしても、できることはあるはずだった。


(早く戻ったらどうですの? ニャー先輩ばかり働かせては駄目ですわよ)

「……はいはい」


 貴方は苦笑して、仕事を再開する。

 カーペットの床はクッションが利いていて、足が弾むように感じた。

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