第二章

第一編 第二章 ①

 昨日とは一転して、青く澄みきった空が広がっていた。陽は少し傾き、鈍い輝きを放っている。もうじき空の色が変わりはじめる、そんな隙間のような時間。

 貴方は通学鞄を片手に立ち止まって、目の前の建物を見据えていた。


 赤レンガの外壁でつくられた横長の建築物。中心に木製の扉が設えられ、それを挟んで左右両方に中を見渡せるくらいの大きな窓がつけられている。それぞれの窓の下には観賞用の植物が植えられていて、頭が少しだけ窓硝子にかかっていた。


 ここが喫茶店『メルヴェイユ』。

 以前、貴方がバイトをしたことがあるお店だ。


 貴方は店の外観を眺めていて、ふと違和感を覚えた。久しぶりに来て、自然と昔見た光景が頭に浮かんだのだが、今見えているものとどこか重ならない部分があった。

 ぶれる記憶と現実の光景。

 次第にピントが合い、どこが違うのかに気が付いた。


 窓硝子から見える店内の様子が違う。改装でもしたのだろうか、席の場所などがだいぶ違っていた。


 貴方が入り口に近づくと、脇に立てられた看板が目に留まった。そこには店の名前と電話番号が書いてある。視線を落としたまま、貴方は足を止める。


(あら、頼来。お店に入りませんの?)

「それでもいいんだけど」


 ここに来た理由は、当然だがバイトをしたいからである。昨日は夜遅かったため、今朝は学校があり早かったため連絡せずにここまで来たのだが、一応礼儀として、電話で事前に連絡を入れた方がいいように思えたのだ。


(いきなり現れてバイトさせてくれ、なんて馬鹿な話ですわよね)

「まさに馬鹿にされそうだから嫌なんだよ……」


 誰にか。

 それはもちろん、連絡を受けるはずの――


「ちょっと、貴方……」


 貴方が躊躇して店前で立ち尽くしていると、後ろから不機嫌そうな声がした。


「入り口の前で立ち止まるなんて、一体どういう頭してるの?」


 言い方はきついが、言っていることはたぶん正しい。

 背後にいたのは欠落症の女性だった。


 最初に目についたのは彼女の髪。普段、目にすることのない、濃く明るい赤の色。クリムゾンの髪は長く、後ろで一つにまとめて馬の尻尾を形作っている。

 滴った血を連想させる頭の上には、ウサギのような白く細長い耳がついており、艶やかさと可愛らしさをその容姿に同居させていた。


 貴方は彼女の琥珀色の瞳――いわゆる狼の目ウルフアイズを見つめて思う。

 運が良いのか悪いのか。

 尋ね人とこうして会えるとは。


 忘れるはずもない、彼女こそがこの店の店長である遊佐ゆさ白雪しらゆきさんだ。


「白雪さ……」


 貴方が再会の挨拶をしようと口を開いたところで、彼女は目を細め、


「貴方、どこかで見たことがあるわね」

「…………」


 貴方は二の句が継げなくなった。

 まさか、忘れられている?

 だとしたら、ちょっとショック。いや、かなり辛いものがあった。ニャー先輩を見た瞬間彼女だと気付けなかった自分が言うのもおこがましいのだけれども。


 白雪さんは眉間に皺を寄せて、貴方を頭から爪先まで見渡すと、小さく頷いた。


「ああ、思い出したわ」

「ホントか?」

「ええ、ばっちりよ」


 結構、嬉しい。覚えていなくとも、思い出してくれるのならよかった。落とされてから持ち上げられることがこれほど心地良いとは思ってもみなかった。

 貴方が喜びを顔に出して見返すと、彼女は得意げに顎をあげて、


「貴方、この前公園にいた露出狂よね?」

「…………」


 今度はどん底まで落とされた気がする。落とされ上げられ、また落とされるのがここまで辛いとは思ってもみなかった。

 しかし、貴方はめげずに首を振って、


「悪いけど、人違いだ」

「じゃあ、うちの周りを徘徊していた不審者?」

「残念、それも違うな……」

「分かったわ、うちの従業員に手を出した痴漢でしょう?」

「なんでどれもこれも不名誉な人間ばかりなんだよ!」

「なんで不満そうなのよ!?」

「どうして満足できると思ったのよ!?」


 しまった、意味不明すぎて口調が移った。

 というか、だ。


「あんた、本当は俺が誰だか分かってるだろ……?」

「分かってたらこんなに優しい言葉はかけないわね」

「今の会話のどこに優しさがあるんだ!?」

「通報されないだけマシでしょう? 頼来」

「そりゃ――って……」


 貴方は口を閉じて、直前の彼女の発言を思い返す。

 名前を呼んでくれていた。


「白雪さん。あんた、相変わらずだな」

「それはどうも」


 白雪さんはつまらなそうに、本当にどうでもよさそうに応対する。

 そんな彼女の態度を見ていたら、まただ、と貴方は思った。


 また違和感だ。


 以前の彼女も、今と変わらずキツい言葉で貴方をからかってきたものだが、今の彼女が見せるような態度――そんなぞんざいな態度をとるようなことはなかった気がする。


「貴方、いつまでそのままでいる気なの?」

「――あ、悪い。邪魔だったよな」


 不意に言われて、貴方は入り口から退こうと足を動かしたが、


「違うわよ。見て分からない?」


 どうやら望む答えではなかったらしく、彼女はそう尋ねてきた。


 何を見ればいいのか分からず、貴方が首を傾げていると、白雪さんはおもむろに両手を上げて、答えを示す。

 彼女は両手に大きな無地の紙袋を持っていた。大きさに比例した重さがあるのか、すぐに彼女の腕はぷるぷると震えはじめる。


 貴方は悟ったつもりで、彼女の手から紙袋を受け取った。


「運べばいいんだよな?」

「百点満点中、十点ね」

「……何が不満なのでしょうか?」

「道中ならまだしも、目的地に着いてから荷物を持ってあげてどうするのよ」


 ああ、なるほど。それもそうだった。

 白雪さんは独り納得する貴方の横を通り過ぎて、入り口に近づき扉を開いた。


「ほら、入りなさい」


 手で押さえて貴方を店内へと促した。

 これが彼女の求めた答えだったのだろう。

 貴方はきまり悪く頭を下げて、扉の敷居をまたいだ。


 店内は外観から想像できる以上に開放感に溢れていた。無駄な仕切りはほとんどなく、入り口から内部をほとんど見渡せる。

 向かって右側の空間には全体的に、左側の空間には通りに面した箇所に、窮屈を感じさせない程度の間を持ってテーブルが並べられていた。

 天井から降り注ぐ光は電球色であり、強すぎない明かりがくつろぎを演出している。


(頼来の言った通り、内装が変わってますわね)

「だよな? リフォームでもしたのか? これ」


 貴方は辺りを見渡しながら、一歩前に踏み出した。クッションの利いた感触に床を見ると、一面がカーペットになっていた。ここも昔と違う。


「邪魔よ」


 白雪さんは足下に目を落とす貴方を追い越して店の中に入っていった。すると、


「いらっしゃいませ!」


 聞き間違うはずもない、あの元気な声が出迎えた。


 左奥の従業員用だと思われるスペースから小走りにニャー先輩が現れる。

 見覚えのない恰好に貴方は少し面食らった。


 白と黒を基調とした――もう、特筆することもない、メイド服のようなエプロンフリル付きの衣装である。

 これも新調したのだろうか。


「あっ、白雪さん! おかえりなさい!」


 彼女は白雪さんを認めると、溌溂はつらつな挨拶と同時に尻尾を振り始める。嬉しさを前面に押し出して彼女は熱烈な歓迎をした。


「よしよし、いい子にしてたかしら? 仁愛」


 そんなねぎらい(?)を返して、白雪さんはニャー先輩の頭をぽんぽんとたたく。


「はい! ちゃんと店番してました!」


 彼女はさらに尻尾の動きを強めて答えると、


「帰りが遅いのでどうしたのかと心配してたんですよ?」

「少し興にのってね、余計な買い物もしちゃったのよ。それに」


 と、ここで白雪さんは貴方に目を向けて、


「余計な拾い物もあったしね」

「……先輩?」


 白雪さんの視線を追って、ようやく貴方の存在に気が付いた。


「先輩! 来てくれたんですね!」


 言うなり近寄ってきて、またぞろ彼女は尻尾をぶんぶんと振り始める。やはり熱烈な歓迎だった。

 こう言うのはなんだけど――彼女の容姿的に――まさに犬のような娘である。


「ニャー先輩、元気……みたいだな」

「それはもう!」


 昨日、道ばたで倒れていたことなんて夢だったかのような、元気な返事。


「すぐに席にご案内しますね!」

「あ、俺は……」

「頼来、挨拶はあとにして運んでくれるかしら?」


 白雪さんはこちらを見ずに言って、つかつかと店の奥へと進んでいく。

 貴方は首を傾げるニャー先輩に「またあとでな」と声をかけてから、憮然とした――なんとなく、誤用ではなく正しい意味での憮然に思える――白雪さんを追った。


 入り口から見て左奥、恐らくここは従業員用のスペースなのだろう、高い仕切りで客間と隔たられた廊下を歩く。そのまま歩いて、右手に見えた部屋に貴方たちは入った。


 こぢんまりとした部屋には入り口付近に大きな棚が設えられ、その上にはポットや瓶、それに手挽きのコーヒーミルといった小物がごちゃごちゃと置かれている。

 部屋の奥には質素なテーブルにパイプ椅子、それと台に乗せられた大型の液晶テレビがあった。


 白雪さんは椅子を引いて座り、テーブルを見た。貴方が察してそこに両手の紙袋を置くと、彼女は無言のままその内の一つを取って自分の足下に移す。そのまま彼女はがさがさと紙袋を漁りだした。テーブルの影になって貴方から中身は見えない。


「白雪さん?」


 口を閉ざしたまま続ける彼女に声をかけるが、反応はない。


「白雪さん、聞いてる?」

「……?」


 ようやく彼女は反応して顔を上げてくれたのだが、


「貴方、まだいたの」


 うん、まあ、予想は出来ていた。

 しかし――やはり、それでも辛いものはある。そしてこれもまたやはりだけれど、彼女はどうも機嫌が悪そうだった。


「何か、私に用?」

「えっと、バイトの話なんだけどさ」


 こういう時は無駄話をしないに限る。貴方はそう思い、またバイトで雇ってくれないかと、お金が必要になった経緯を交えて単刀直入に話した。

 白雪さんは聞き終えると、しかつめらしく腕を組み、貴方を見上げ、


「不採用」


 これはまた、ばっさりと切り捨ててくれる。


「……念のため聞くけど、なんで?」

「そりゃそうでしょ。貴方みたいに気を配れない人間を店に出す気にはならないわよ」

「う……」


 まさか先程のぽかが響くとは思わなんだ。

 いやでも、


「そりゃさっきは馬鹿だったけどさ、それでも前はちゃんと接客できてただろ?」

「勘違いしてない? 貴方」


 彼女は白く細長い耳を跳ねさせて、


「そんな些末なことを気にしてるんじゃないの。私は、貴方の不義理を指摘してるのよ」


 不義理。


「それって」

「随分と長い間、顔を出さなかったわね」


 そういうことか、と。

 ようやく、本当にようやく彼女が何を言いたいのか、彼女がどうしてずっと不機嫌だったのか、それが分かった。


「別にそれだけで不義理だなんて言うつもりはないわよ? どうせ私と貴方は店長とバイトの関係だからね」

「ん……」

「それこそ主人と奴隷くらいの関係だったからね」

「ん? 俺はそこまで身をやつした覚えはないぞ?」

「ただ、貴方は自分で言ったのよね。近いうちにまた来るって」

「……ああ」


 彼女の言う通りだ。

 最後に貴方はそう言って、ここを去ったのだ。


「私が言いたいこと、理解できたかしら?」


 彼女の気持ちは貴方には――貴方だからこそ、よく理解できるのかもしれない。

 軽々しくまた来るなどと口にして、結局、再会することがない。そんなこと、何度もあった。何度も経験してきた。

 あえか荘の大家として店子を見送ってきた自分が、その時の虚しさを理解できないはずが、なかった。


「白雪さん、ごめん」


 貴方は腰を折って、頭を深く下げた。

 一応、ここに来られなかった理由はある。今月はまだしも、先月は色々と――永久のことで頭がいっぱいで、不器用な貴方は他のことに意識が向いていなかったのだ。

 でも、そんなものはただの言い訳にすぎない。


「本当に、ごめん」


 だから、謝る以外にできることはなかった。


「……そういえば、聞いてなかったわね。バイトをしたい理由は?」


 そうただすのはつまり、許してくれたということか。


「それはさっき話したよな?」

「お金が必要なだけなら、別にここじゃなくてもよかったんじゃない? むしろ賃金を鑑みれば他を選ぶはずだけど?」


 ああ、そうだった。

 この人、頭は回る方なのだ。

 誤魔化しても無駄だろうし、それにそれもまた不義理な気がして。


「昨日、ニャー先輩に会ったんだよ。それで、ここのバイトが「そう、分かったわ」また辞めたって話を……早いな、もう分かったのか」


「分かるだけじゃなく、不採用を撤回する気にもなったわね」

「……ホントに?」

「ええ。私、人の厚意は基本受け入れるようにしているの」

「厚意?」


 彼女は頷き、組んでいた腕を解いて胸に手を当てると、


「つまり貴方、また私に奉仕したくて来たってわけでしょう?」

「ほう……どういうわけだ?」

「私が困ってるなんて話を聞いたら、そうしたくもなるわよね。自然の摂理よ」


 自然界の法則に組み込むとは、自信過剰にもほどがある。自分の都合の良いように捉えすぎだろう。幸い、結果的には彼女の手助けをすることになるのだから、否定もできないけれど。


 貴方は軽く呆れてしまった。

 けれど、それでも、彼女の態度が以前のように戻ったのなら、


「いいわ、採用してあげる」


 これで良かったのかもしれない。


「正直、困ってたのよね。でも、これで便利な小間使いができて安心したわ」


 本当に良かったのだろうか?

 彼女の久しぶりの笑顔を見ながら、貴方はそう思った。



「ということで、はい」

「はい?」


 話がまとまって良かった、と思いきや、白雪さんは何処からともなく取り出した何かを貴方に手渡してきた。

 しっとりとした手触りのそれはおそらく……


「制服?」

「今からこれを着てホールに出なさい。貴方のサイズに合わせてつくってあるから、問題ないはずよ」

「……え、ちょっと待て。問題どころかツッコミどころが多すぎるぞ」


 言われて貴方は制服――おそらく、スーツタイプのもの――を握り締めて焦った。


「ツッコミどころ? 何が聞きたいのよ」

「まず、なんで俺のサイズに合わせてつくってあるんだよ」

「貴方が店に顔を出したら、タダ働きさせるつもりだったからに決まってるでしょ」

「あれ? ツッコミどころが増えたぞ?」


 そしてさっきの後悔が軽く吹き飛んだ。

 口約束を反故にして、この店に来なくて良かったのかもしれない。ただ、しかし、裏を返せばそれだけ自分の来訪を待ち望んでいたことになる。

 なら、悪いのは自分ではないのか?


(……頼来、騙されてますわよ?)

「やっぱり?」


 よく考えてみれば――考えずとも、気づいてしまった。

 さっき、白雪さんが怒っていた理由はまさにこれだったのだろう。

 タダ働きさせる相手が顔を出さなかったから怒っていたのではないか?


「……いいか、別に」


 深く考えるのを貴方はやめた。


「それは事前に手を打ったってことで納得しとく」

「頼来、そこは納得じゃなくて感謝するところよ?」

「だから一々ツッコミどころを増やすな!!」

「で、他には?」


 白雪さんはどこ吹く風でしれっと聞き返した。


「……肝心なところで『今から』って話。今日は俺、用事があるから無理だぞ?」

「そう、困ったわね。今日、というか当分の間はホールに出られるの仁愛だけなのよね」

「またツッコミどころを増やす……」


 いや、薄々は勘付いていた。

 店に入ってから、ニャー先輩以外の店員を見ていない。バイトがみんな辞めたという話は、文字通り全員辞めたということだったのか。


「で、どうするの?」

「…………あんた、俺が断れないの分かってて聞いてるだろ」


 かくして、貴方は今日からバイトを始めることになった。

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