第一編 第一章 ⑥

 その日の夜、貴方は自分の部屋で独り、椅子に座って家計簿と睨めっこしていた。

 左肘を机の上につき、手の甲に頬を載せて、右手で家計簿をぱらぱらとめくる。どのページにもレシートや光熱費の明細書などがはられ、細かな文字で数字が書かれていた。


 貴方は軽く溜息をついて、今日までの分はつけておくか、とページを進めていく。一番新しいページまでめくって、貴方はきょろきょろと部屋を見渡した。


「リズ、俺の財布どこだ?」

(確か……貴方、鞄にいれてませんでした?)


 私の指摘で思い出したのか、貴方は「ああ」と口にしながら傍に置いてあった鞄に手を伸ばした。

 数時間経っているというのに、まだ少し濡れそぼっている。中に手を突っ込んでまさぐって、中身を引っ張り出した。

 中から取りだしたのは革張りの財布と、湿ってふにゃふにゃになった封筒だった。


「あ……忘れてたな」


 財布は机に置いて、封筒の方を手に残す。今日、学校の帰りに市役所に行って取ってきた書類だ。ニャー先輩に出会ったことで完全に記憶から吹き飛んでいた。

 これは心裡さんから取っておいてと言われた物だが、いつまでに欲しいかは聞いていなかった。別に急ぎではないようなので、わざわざ出向くこともないだろう。


 中身は大丈夫だろうか、と貴方が封筒の中身を透かし見ようと掲げたところで、後ろからドアをノックする音が聞こえてきた。


 封筒を鞄にしまって、貴方が「どうぞ」と招くとドアが開く。


「頼来」


 貴方の名前を呼んで、銀髪の少女が部屋に入ってきた。


 フリルのついたパジャマを着た、小学生のような容姿の彼女。手には新聞を持っており、広げられたそれは上半身を覆うくらいあって、彼女の小ささが際立って見えた。


 貴方は家計簿を閉じて、彼女に向き直ると、


「どうした?」

「その、だな……」


 そこまで言うと、彼女は新聞をくしゃりと鳴らして、言葉を途切れさせた。


 彼女の名前は紅坂くれないざか永久とわ

 背丈は蒼猫よりも小さく、容姿は完全に小学生だが、そうではない。彼女の年齢は十六。貴方と同い年の高校二年生である。

 彼女は蒼猫たちと同じく欠落者だった。頭の上には犬を思わせる耳があり、背中からふさふさとした尻尾を覗かせている。


「用というほどのことではないのだが……」


 天井からの光を反射して、永久の髪は静かに白く輝いた。プラチナブロンドと呼ばれる稀少な白銀色の髪は長く、彼女自身が輝いているように錯覚させた。その雪景色のような彼女の中で色を挙げるとすれば、薄い桃色の小さな唇と、濃い蒼色の瞳だけだ。

 深海を随想させる双眸が、貴方を見つめていた。


「……?」


 貴方が何も言わなくなった永久を見つめ返していると、彼女はそっと新聞の下から何かを出してきた。

 ドライヤーとくしである。

 その道具を見て、道理で髪が輝いて見えるわけだ、と貴方は遅まきながら気付いた。


「ああ、髪ね」

「忙しいのなら別にいいのだぞ?」

「気にすんなよ」

「そうか、では頼む」


 満足そうに犬のような耳を立てて言った。

 永久は貴方にドライヤーと櫛を渡すと背を向ける。そのまま床に座りこもうとするので、貴方は立ち上がって彼女を椅子に座らせた。カーペットも敷いていないところに座られたのではこっちがなんだか痛くなってくる。


 貴方は行儀悪く机に腰をおろして、いつものように永久の髪を乾かしはじめた。

 慣れた手つきでドライヤーを操りながら、ふと、貴方は考えた。そういえば、初めて永久の髪の手入れをやってから、まだ一日だってこれを欠かしていない。こうなると日課――仕事などではなく、もはや生活の一部、もしくはそのものか。


 貴方は心が落ち着いてくるのを強く感じとった。今日は色々とあって心労が重なったためか、こういった日常的な行為がすごく心を静めてくれる。


 大体乾かし終わって、ドライヤーを切ったところで永久が、


「頼来、先程は何をしていたのだ? 何やらノートを開いていたようだが」

「家計簿つけてたんだよ」

「ほう」


 驚いたように言って、永久が首だけで振り返る。その動作に引かれて、貴方の手の中から彼女の髪がさらりとこぼれ落ちた。

 彼女は群青色の瞳を貴方に向けて、


「君、そんな面倒なことができたのだな」

「どういう意味だよ」

「金勘定など気にしないと思っていただけだぞ」

「そりゃ、そこまで細かいのつけてるわけじゃねえけど」

「なら……ああ、そうか」


 永久は尻尾をぐるりと一回転させて


「風呂の件だな? それで難しい顔をしていたのか」

「そんなに顔に出てたか?」

「君は分かりやすいのだよ」


 彼女の言う通り、貴方は考えていることや感情が顔に出やすい。逆に永久はいつもすました顔をしているので分かりづらかった。出会ってから数週間は経つが、そこだけは何も変わらない。


 表情に注目していると、永久は気付いたのか顔の向きを前に戻して、


「そういえば詳しく聞いていなかったな。結局、どうだったのだ?」

「ああ、悪い。話してなかったっけ」


 話題が切り替わったことに乗じて、貴方は永久の髪をくのを再開した。


「一応、管理会社の人に見てもらった感じ、完全に給湯器の寿命らしい」


 数時間前をかるく思い出す。

 ニャー先輩が帰った後、蒼猫の連絡を受けた管理会社の人がやってきたのだ。

 調査の結果は今話した通りだが……。


「ということは、交換が必要なのか」


 貴方は指先に永久の髪をくるくると巻きながら同意して、


「それだけじゃなくて、配線の関係でパイプとかも交換する必要がありそうだってさ」


 ここで永久は犬のような耳をぴくりと動かした。


「道理でここに来たとき、憂鬱そうな様子だったわけだな」

「仕方ねえだろ、現実的にキツいんだから……」

「金銭的な問題か?」

「ご名答」


 貴方は答えながら、永久の右側頭部の髪を一本にまとめて、ポケットから取り出した髪ゴムにそれを通した。


「好奇心から聞くのだが、いくらくらいするものなのだ?」

「詳しくは明日、工事の業者に見積もってもらうとして――給湯器は新しくする必要があるから、少なくとも百万はかかるっぽいな」

「ふむ、妥当なところか」


 永久は予想していたのか、特に驚かなかった。

 貴方は今度は永久の左側の髪をまとめはじめ、新たに取り出した髪ゴムで縛った。


「そういうわけだから、工事が終わるまではお湯が使えないんだ。風呂は銭湯にでも行ってくれるか? というか、たぶん、蒼猫が強制的に連れて行くだろうけど」

「むう……面倒だぞ」


 永久はお風呂が特に好きな方ではないからか、脱力したように言うが、


「とはいえ、今日のように水で身体や髪を洗うのを続けたくはないな」

「だろ?」


 と、貴方は机から腰を上げた。

 回り込んで永久を正面から見下ろす。

 永久は反対に貴方を見上げて、


「……なんだ?」


 貴方は答えず、彼女の髪型を見てうなずいた。

 今日はシンプルに二つ結い――俗に言うツインテールにしてみたのだが。


(なかなか似合ってますわね)

「でも、なんかこう、耳とのバランスが悪くないか?」

(そうかしら?)


 貴方と一緒になって、私は永久の顔を注視する。

 ふくふくとした頬に整った目鼻、頭の天辺には毛に覆われた三角錐の耳がぴょこんと立ち、両サイドでまとめられた銀髪は彼女の微動に反応してさらさらと揺れていた。


(やっぱり可愛いじゃありませんの)

「……及第点だな」


 私たちが心の中で勝手に評論会を開いていると、永久はあごを引いて、


「実際のところ、金は大丈夫なのか?」

「ん……ま、こういう時のために積み立てしてたからな」

「こういう時、か」


 永久は口の中でオウム返しすると、


「そもそもの話だが、何故、あえか荘には浴場が三つもあるのだ?」

「なんでって言われてもな。昔からそうだったとしか言えねえよ」

「昔は民宿だったからだろう? 今のように集合住宅として機能させるだけならば、露天風呂の方はいらないはずだぞ」


 永久は澄んだ川の流れのように話を展開する。


「仮に露天風呂を潰したとすれば、給湯器も一回り小さいものにできるはず。それにだ、温泉施設というものは維持にだいぶ費用がかかるはずだろう? 鉱泉に使うパイプは定期的に掃除しないと詰まるか破損したはずだ」

「本当にお前は博識だな。そんなこと、普通知らないだろ」


 貴方が感心してそうおだてるが、彼女はつまらなそうに尻尾を振り、


「露天風呂を潰そうとは思わなかったのか?」

「そりゃ、もちろん、俺だって一度は潰そうとはしたさ」

「では、結局しなかったのは何故だ?」

「それは……別にいいじゃねえか、なんでも」


 口が滑ったな、と貴方はつい正直に答えたことを後悔する。潰そうと考えたことがあるという話は、私以外の誰にも教えていなかったのだ。


「温泉自体は魅力的だが、だとしても頼来自身の理由ではないな。君はあまり使っていない。使用しているのは私……というか、蒼猫が主で」


 永久はぶつぶつと流すと、はっと顔をあげて、逆に貴方は顔をらした。


「蒼猫は時々、朝にも入るくらいに露天風呂が好きだからな。温泉を残しているのは彼女のためなのだろう?」


 貴方はぶっきらぼうに首肯するだけに留めた。すると永久が目を細めて、


「どうした、頼来。別に悪いことをしているわけではないのだぞ?」

「そうだけどな……」

「では、何故隠すのだ? このシスコン」

「そう言われると思ったから隠してたんだよ!」


 あー、クソ――と貴方は頭を振った。やっぱりさっきのは失言だったと深く後悔する。

 それにしても、と他に思うところがあった。


「お前、シスコンとかそういう言葉も知ってるんだな?」

「君はもしかして私を馬鹿にしてるのか?」

「むしろ知ってた方が馬鹿っぽくないか?」

「そんなことはないぞ。スラングとはいわゆる俗語だ。その時代に則した新しい言葉なのだ。知らないのは無知だし、あえて使わないというのもスノッブのようで馬鹿らしい」

「……気取る気はないってことか」


 スラングを使う使わないは気取る気取らないの問題ではない気がするけれど。


「確かに、わざわざ使わないようにするってのも変な話だよな」

「そういうことだな。ところでだ、シスコン」

「だからってわざわざ使わなくてもいいんだぞ!?」

「本心から言うが、私だけではなく蒼猫にも隠すことではなかったのではないか?」

「ん……」


 急に真面目に言われて、貴方は口をつぐんだ。


「君の様子を見る限り、彼女は自分のために残してくれたことを知らないのだろう?」

「話す必要もないだろ」


 貴方は声をひそめて続けた。


「聞かれたら答えてもいいけど、自分から言うなんて恩着せがましいじゃねえかよ」

「……ふむ」


 永久は納得するようにうなずくが、


「だがそれは施す側の言い分だ。施された者にとってはある意味残酷だぞ?」

「なんでだ?」

「知らない間に誰かが自分のために行動していた。それを後で知った時、どう思うだろうか。もし私なら……申し訳なく思う気がするぞ」


 そうかもしれない。

 永久の言い分は理解できた。

 そもそも知ることさえ、相手の善意に気付くことさえできない場合だってあるのだ。

 もしそれで勘違いしてすれ違ったりして、その後に善意に気付いたとしたら――申し訳なく思うだけでは足りないはずだ。


 ただ、だからといって、いちいち明かすのもまた間違いだとは思うけれど。


「この命題は施された側が敏感に察する以外に答えはないか」


 自分で問題提起しておいて、永久はそう自己完結すると、


「頼来、少し話を戻していいか」

「どこまで?」

「金の話だ。もし、今後、財政的に辛くなりそうだというなら、私から家賃や食費を取ってもいいのだぞ?」

「え……?」


 思ってもみない提案を受けて、貴方は戸惑った。


「つねづね思っていたのだが、厄介になるからにはきちんと払うべきではないか」

「……うーん」


 貴方は歯切れ悪く肯定も否定も避けた。

 永久は今、事情があってこのあえか荘にいる。彼女が使えるお金は限られているらしく、家賃は受け取っていないし、さらに言えば無償で食事を提供していた。

 貴方と蒼猫と永久の三人で団欒だんらんしているので、食費が多少かさむくらいだが、家賃に関しては永久の言う通り受け取るべきかもしれない。

 だが、今の彼女からお金をもらうというのは、少し心苦しかった。


「悪いけど、遠慮しておくよ」


 永久は一旦言葉を飲み込むが、食い下がろうと、


「だが、風呂は私も使うのだから」

「気持ちだけ受け取っておくって」


 貴方がそう言うと、永久は視線をおろして引き下がった。

 彼女を見下ろしながら、貴方は考えていた。少し、強引だっただろうか。せっかくの厚意を――そう、これは厚意。ここまで分かりやすい厚意を彼女が示したことはなく――こっちの勝手な言い分で無下にしてしまったのは間違いなかった。

 考えたあげく、貴方は永久の頭に手を乗せて、


「本当にやばくなったら、その時は頼むから。ありがとな」


 髪を梳くように撫でながら礼を言った。

 しばらく黙っていた永久は、視線を上げて貴方の目を見ると、


「何故、頭を撫でるのだ?」

「……お礼?」

「何故、頭を撫でることが礼になる」

「だってお前、頭撫でられるの好きだろ?」

「誰が言った、そんなこと」


 反論通り、彼女がそんなことを言った記憶はなかった。

 しかし、しかしである。

 口にしなくとも、やはり分かることはあるもので。


 貴方は手の動きを止めた。永久の頭に手を乗せたまま数秒待ち、再び撫で始める。すると、永久のふさふさとした尻尾が動き始めた。

 銀色の尻尾は貴方の手の動きに合わせて、左右にゆっくりと振られる。パタパタと、音が聞こえてきそうな勢いで。


 これで撫でられるのが好きじゃないだなんて、どうやったら言えるのだろうか。

 もちろん表情は嬉しそうということはなく、「むー……」と小さな唇を尖らせて拗ねるような顔をしているが、それでも尻尾の動きは彼女の内心をそのままに表していた。

 相変わらず永久は、自分が尻尾を振っていることには気付いていない様子である。


 貴方は永久の頭を撫でながら、忍び笑いを漏らした。


「何をニヤニヤしているのだ、君は」

「いや、別に」

「……ふんっ。まあいい」


 永久は追求を諦めて、


「先程の言葉を忘れるなよ? 頼来」

「ああ、分かってるって」


 実際、永久の申し出はありがたかった。

 今日明日で貯蓄が切れるような痛手ではないにしても、もし何か他に同じようなことがあった場合、窮地に陥る。

 自分だけならまだしも、このあえか荘の住人にまで被害を被らせるのは嫌だった。


 だったら、どうするのか。

 そんな疑問が浮かぶが、ずっと浮かんでは沈んでいたが、たぶん、答えは最初から決まっていたように思える。

 それこそ、彼女と再会した時から。


 彼女が倒れていた理由がもし、多忙から来た疲労なのだとしたら――


「――バイト、するかな」


 貴方は独りごちて、永久の髪や耳の感触を肌で楽しむ。


 視界の端で、彼女の尻尾は変わらず揺れていた。

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