第一編 第一章 ③
貴方が住む街は首都圏郊外にあった。
駅前はある程度栄えているが、そこから少し離れれば住宅街しかないような小さな街だ。特に駅から南側には住宅街さえもなく、民家の数も激減する。こちらの民家は駅周りのものとは違い、古びた日本式の木造家屋だった。
その内の一つが、貴方の住居である。
『あえか荘』
元もと民宿だった日本家屋を改装してつくられた集合住宅。広い敷地を高い塀が四角く囲み、外部からの不当な侵入を防いでいる。中には二階建ての母屋以外に、日本庭園と呼べる広い庭、離れが二つに小さな蔵が一つ、極めつけに露天風呂があった。
貴方はもちろん、他にも数人、同じようにここに住んでいた。しかし、他の住人と一つだけ違う所が貴方にはあった。
貴方は
「ここが先輩のお家……」
高い塀に囲まれた敷地に入る前、ニャー先輩が立ち止まってぽっと呟いた。その呆けたような表情は、何かに驚いているようにも見える。建物の広さにか、もしくは古さにか。後者だとしたら、無理もないことである。
「ほら、行くぞ?」
貴方はニャー先輩を促して歩き出す。
母屋に着くと、貴方は無意識の動きでポストに近づいた。防水のためにビニールで覆われた新聞や、チラシなどをポストから抜き出して、玄関の戸を開ける。
中に入り、ぐしょぐしょになった靴で
二人とも軽く水気を拭き取り、靴を脱いで
「お、お邪魔します……」
妙にかしこまるニャー先輩を連れて、板張りの廊下をペタペタと足音を立てて歩く。貴方は通りがかり、自室に鞄や新聞などを放り込んでから、浴場へ向かった。
あえか荘には浴場が三つあった。内風呂が男女別れて二つ、男女兼用の露天風呂が一つ。一緒に入るわけではないので、当然ここで案内したのは内風呂である。
「本当にいいんですか? シャワー借りてしまって」
貸さないのであれば、そもそも連れてきていないだろう。
「服は乾燥機があるから、適当に使ってくれ。使い方が分からなかったら声かけてくれよ」
「あ、ありがとうございます!」
丁寧にお辞儀をして、ニャー先輩は女湯の
貴方はしばらくその場で立ち尽くして待つ。手に持ったタオルを玩んでいると、女湯の脱衣所からゴトンゴトンと乾燥機が回る音が聞こえてきた。
問題なかったかと安堵して、貴方は一度、自室に向かった。無人の自室で替えの服を取り、再度浴場に戻ってくる。
男湯の脱衣所に入って、脱衣籠に持ってきた服を入れて、服を脱ごうとして――貴方は何故かそこで手を止めてしまった。
(どうしましたの?)
「やっぱりか……」
貴方は溜息をついて、心の中で言う。
「いつまで見てるんだよ、リズ」
言われて、ようやく私は気が付いた。貴方が脱げないわけである。だが、
(今更ですわよね? 子供の頃から何度も見てるじゃありませんの)
「なんだ? もしかして見たいのか?」
(それは冗談にしても笑えませんわね)
本当に冗談ではなかった。誰が好き好んで男の裸を見たいと思うのか。いや、思うまい。
(仕方ありませんわね)
私がしぶしぶ答えて、じゃあこれからどうしようかと、ない首を捻ったところで、
「――――」
表現しにくい、甲高い声が辺りに響き渡った。
貴方は口をぽかんと開いたまま、今の出来事を
甲高い声――いや、今のは悲鳴だ。恐怖を表すような引きつった悲鳴ではなく、もっと切実な、そう、驚きに飛び退くような、そんな悲鳴。
まさに悲鳴の主は飛んだのか、すぐに何かが倒れるような音が聞こえてきた。
「……ニャー先輩?」
貴方は浴場に続く引き戸を開けて、隣にいるはずの彼女に声をかけた。
「ニャー先輩! どうした!」
反応が、なかった。瞬間、
先程、ニャー先輩は道ばたで倒れていた。
まさか、また……?
貴方は駆け出した。脱衣所を一足飛びに抜けて廊下に出ると、
「ニャー先輩! 大丈夫か!?」
念のため中には入らず、女性用の脱衣所に向かって大きく叫んだ。すると、
「先輩!」
ニャー先輩の声が返ってきた。
なんだ、平気だったか――と貴方が安堵したのも束の間、彼女はドタドタと足音を立てて、大慌てで廊下に飛び出してきた。
「先輩! 大変です!」
「大変なのはあんたの恰好だ!!」
貴方がそう叫ぶのも分かる。ニャー先輩は一糸まとわぬ姿だったからである。
「なんでタオルも何もつけてないんだよ!?」
「え、だって先輩がこうしろって言ったんですよ?」
「んなアホな要求してねえぞ!?」
「しましたよ! シャワーを浴びる時は服を脱げって!」
「論点が間違ってた!?」
確かに言ったよ? 言ったけど、問題はそこではない。何故、伝わらない。深く疑問に思うのだが、ニャー先輩は気付いてくれなかった。
彼女の湿った髪から、雫が一滴こぼれ落ちる。水滴は肩に当たり、形を保ったまま身体の曲線に沿って流れ――
貴方はそこまで見てしまってから目をつむり、顔を逸らし、手で目元を隠して言った。
「お願いだから、せめて前は隠してくれ……」
「前ですか?」
しばらく間があり、二度目の悲鳴があがった。
暗闇の中、貴方はニャー先輩の足音が遠ざかっていくのを聞く。しかし、フェイントかもしれないと思い――そんなわけあるか、と私は思う――そのまま暗闇の中で嘆いた。
「ホント勘弁してくれ……」
深く溜息をつく。正直に言って、貴方はこういうのが嫌いだった。苦手とも言う。
(ウブですわねえ)
「うるせえぞ、リズ」
顔から手を離し、目をつぶったまま首を振って、尋ねてくる。
「もう、ニャー先輩は見えないか?」
私は仕方なしに言われたとおり彼女がいないことを確認して、
(ええ、もういませんわよ)
「サンキュ」
貴方は目を開けた。確かにどこにもニャー先輩の姿は見えない。
だが、代わりに一人の少女が目の前にいた。
「兄さん……」
持ち前の蒼い髪を揺らし、欠落症特有の耳と尻尾を震わせて言った。
貴方は彼女の剣呑に光った翠色の瞳にたじろぎ、一歩下がって、
「お前、いつの間に……」
「ついさっき来たところです」
声が怖かった。
彼女の名前は
翠色の瞳に、名前の通りの――いや、順序が逆だ――冴えた青色の髪を持つ。嫌でも目立ってしまう青髪は、癖毛特有の
彼女は猫のような耳と、髪と同じ色をした綺麗な毛並みの細長い尻尾を立てて、貴方をじとりとした瞳で睨んでいる。
「あのな、蒼猫。たぶんお前、なんか誤解……」
「いいですよ、説明しなくても。二人が家に来たところから全部聞こえてましたから」
蒼猫のそれは虚言の類ではない。彼女は欠落症患者特有の体質により、それを
欠落症の人は様々な体質を持つ。最も周知されている体質としては、血が固まりにくいというものがあった。これは血液の凝固作用の欠陥からきているらしい。
幸い、蒼猫はそのような体質を持っておらず、代わりに聴力の異常という体質を持っているのだ。
このあえか荘の中の音なら全て聞き及ぶことができるくらいの聴力を。
貴方は説明しなくても蒼猫は理解してくれていると思い、ほっと呟く。
「なんだ、全部聞いてたのか」
「当然です。一緒にお風呂に入ろうとしたんですよね?」
「ホントに全部聞いてたのか!?」
安堵の溜息を返して欲しい。どこをどう繋げ合わせたらその結論に至った?
「兄さんが無理矢理一緒に入ろうとして悲鳴あげられたんじゃないんですか?」
「あ、そう取る……」
貴方が唖然として反論を考え始めると、蒼猫はしれっとした様子で、
「もちろん、今のは冗談ですけど」
「心臓に悪い冗談だな……」
「それで? また女の子を連れ込んで、今度は何する気ですか?」
「人聞き悪い冗談だな…………冗談だよな?」
「冗談じゃないですよ、本当にもう……」
蒼猫は睨めつけるように貴方を見上げ、
「何があったか分かりませんが、そうやってすぐに首を突っ込むのやめてください」
ぐうの音も出ないことを言う。彼女の言っていることは全て真実で、貴方は反論の余地を見つけられなかった。
さらに蒼猫はぼやくように続ける。
「この間だってそうですし、また部屋を用意するとなったら私がやるんですからね?」
「あ、今回は違うぞ? 別に部屋は」
貴方が慌てて否定しようと口を開きかけたところで、
「――先輩! どうしたんですか? 早く来てください!」
女性用の脱衣所から間の悪い声が聞こえてきた。
「呼んでますね」
「呼んでますな」
「……さっきの冗談じゃなかったみたいですね」
「いや、違うぞ、蒼猫」
「兄さんのエッチ」
蒼猫は頬を染めて、貴方にじとりとした目を向けて言い放ち、背を向けて歩き出した。
貴方は口をつぐんで蒼猫を見送ることしかできなかった。何がショックかと言えば、その表現である。兄さんの変態、と言われれば、ああ変態で何が悪い、と開き直る気にもなるが、その表現だと何だかものすごく恥ずかしく感じられて反論もできない。
(……意味が分かりませんわ)
「子供っぽい表現って恥ずかしくならないか?」
貴方がますます意味不明な発言をしている間にも、蒼猫は完全に姿を消してしまった。
一人残された貴方は肩を落として立ち尽くす。
「先輩……?」
「……はいはい、今行くよ」
ニャー先輩に促されて、貴方は女性用の脱衣所に入った。
そう、忘れかけていたが、そもそもの発端は彼女が悲鳴をあげたこと。
ひいてはその理由だ。
貴方は恐る恐る脱衣所を見渡して、曇り硝子の戸の向こう側にニャー先輩のシルエットを認めた。流石に今はバスタオルを巻いている、ように見えるが油断はすまい。
貴方は扉越しに尋ねた。
「で、何があったんだよ」
「それがですね、このシャワー、なんと水が出るんですよ!」
「おお、そりゃ凄えな! …………何が問題なんだ?」
「えっと、つまり、いくら捻ってもお湯が出てくれないんです!」
貴方はニャー先輩の訴えを頭の中で
「……マジで?」
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