第一編 第一章 ②

 約二ヶ月ほど前、三月の後半のこと。

 貴方は知り合いである御門みかど心裡しんりさんから連絡をもらった。何かと思えば、それはバイトの誘いだった。

 彼の知人が経営している喫茶店『メルヴェイユ』。そこの従業員が突然、同時期に何人も辞めてしまい困っているらしい。


『臨時でいいから、バイトしてみない?』


 春休みの間だけでいいのなら、と貴方は彼の誘いに乗ったのだった。


 それから二週間ほどバイトを続け、ちょうど春休みが終わるというところで、正規のバイトが入ってきた。

 それが彼女、鳴瀬なるせ仁愛にあである。


「初めまして! ニャーは鳴瀬ニャーです!」


 はて、何を言っているのか分からなかったが、詳しく聞いて理解した。

 どうやら彼女の一人称は自分の名前らしい。しかも彼女は舌っ足らずで『仁愛にあ』を『ニャー』と発音するのだ。

 全くもって分かりづらかった。


 それくらいならまだ許せるのだが、分かりづらいことはもう一つあった。

 彼女は貴方より一つ年上、違う高校の三年生だ。なのに貴方を先輩と呼ぶのである。


「歳は上ですが、先輩は先輩ですから!!」


 要約しよう。貴方が先にバイトをしていたのだから、年上だとしても自分は後輩にあたる。だから貴方は『先輩』で間違いない、と。


 結果、二人は互いに『先輩』呼びする奇妙な関係となったのだった。


「――くしゅん」


 貴方はニャー先輩のくしゃみで現実に引き戻された。

 ニャー先輩は貴方より一回り大きい、猫のような手で鼻を押さえながら言う。


「うう、すみません。なんの話でしたっけ?」

「髪の話だよ。ニャー先輩、髪、切ったんだな」


 傘を彼女にさしかけながら聞くと、


「はい! このまえざっくりいきました!」


 彼女は肩口で丸まった髪をぴょんと跳ねさせて答えた。

 そう、出会った時は彼女の髪はもっと長く、背中辺りまであったのだ。大人しそうな外見に大人しくない中身と、ちぐはぐな印象が強かったのを覚えている。


(だから気付かなかった、なんて言うつもりですの? 頼来)

「そういうお前はどうなんだよ?」


 ニャー先輩を横目で見ながら、貴方は心の中で私に問う。


「お前だって気付いてなかっただろ?」

(わ、私は最初から気付いていましたわよ)


 もちろん嘘である。実際、私は彼女のことを忘れていたのだ。というのも、ニャー先輩と貴方が関わっていたのは正味三日ほど。そう覚えているわけもない。


「あの、先輩……?」


 私たちが問答してつくってしまった沈黙にニャー先輩は不安を覚えたようで、濡れた髪を押さえて怖ず怖ずと尋ねてきた。


「もしかして、これ、似合ってませんか?」

「ん、そんなことねえよ」


 本心から、貴方は答えた。活発と表現しても過言ではない彼女には、ロングの髪型よりもミディアムくらいの髪型の方が映える気がする。


「むしろ、それくらいの方がニャー先輩らしくていいんじゃないか」

「え? えへへ、ありがとうござくしゅん」


 言葉の途中で再度くしゃみをするニャー先輩。誉められて照れたのか、くしゃみを間近で見られて恥ずかしかったのか、彼女は赤く染まった頬を両手で隠してかしこまった。


 貴方は彼女のピンク色の肉球を目に留めながら考える。気温はだいぶ高くなってきているけれど、これだけ濡れてしまえば冷えてしまうのも当然だろう。


 ――そもそも彼女はどれだけの時間、雨に打たれていたのだろうか?


「ニャー先輩、なんでこんなところで倒れてたんだ?」


 貴方がようやくその質問をすると、ニャー先輩は少し首を傾げて、


「どうしてでしょう?」

「自分でも分からないのかよ……」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」


 ニャー先輩はこめかみに肉球を当てて思い出す仕草をし、


「家に帰ろうと歩いていて、雨が降ってきて――そうです、傘を持ってなくて慌てて走り出したんです。それで、えっと……」

「……転んで頭打ったとか?」

「な、なるほど! そうかもしれませんね!」


 笑顔でニャー先輩は言うが、笑い事ではない。見たところ外傷もないし、意識もはっきりしているようなので問題はないと思われるが、しかし……。


「ニャー先輩、本当に怪我はないんだよな?」


 貴方は真剣な声音で彼女に尋ねた。


「誰かに何かされたとかじゃないんだな?」


 貴方は繰り返し、危惧したことを尋ねた。

 どうして、そこまで心配しているのか。

 それは彼女が欠落者けつらくしゃだからに他ならない。


『欠落症』


 正式な名称は人間性機能欠落症候群。

 もともとはドイツ語であったものを直訳した、よくある症状を的確に表さない病名だ。

 この病気を持った人を、通称、欠落者と呼ぶ。


 この病気の症状は一つ。身体が通常の人間のそれではなくなるというものだった。

 身体の構造、容姿、体質といったものが生まれる前から変容し、そして生まれたあとにも変容していく。

 これは先天性のもので後天的にかかることはない、と言われていた。


 彼らは生前から身体のどこかに変容をきたした。そのほとんどは、身体に人間以外の生物のそれが宿ってしまうというものだった。犬や猫のような耳と尻尾が揃って生えてくるのが大半。しかし、それ以外にも、馬のような蹄を持った足、類人猿のような毛に覆われた腕など、さまざまな生物の身体を持つ者も存在した。


 最初の事例がいつのことかは正確には分かっていない。今から五十年ほど前に、世界各地で同時にそれらは生まれてきてしまった。また、何が原因であるのか、どういったメカニズムであるのかすら、未だに解明できていなかった。


 人から生まれてくるのに、人とは違う身体を持っている。

 通常の人間とは違う容姿で生まれ落ちた子供たち。

 彼らを生んでしまった人たちは、欠落症の嬰児えいじにどういった反応を示したのか。

 少なくとも、どのような身体であれ自分の子供であるといつくしんだ人間はいただろう。これは当たり前だ。自分たちが望んで授った命を容姿ごときで拒もうとするだろうか。


 だけど、そういう人は大勢いたかもしれないけど、そうでない人もやはり大勢いたのだ。


 ある者たちは、何かの間違いであると拒んだ。

 ある者たちは、世界が終わる凶兆だと嘆いた。

 ある者たちは、これは人間ではないと蔑んだ。

 ある者たちは、あははははははははと狂った。


 その者たちは、欠落者である彼らを拒絶し、暴力に晒し、這いつくばらせ、侮辱し、生まれてきたことを後悔させ、最後には唾棄した。


 そんな人間たちは徐々に増殖していく。まわりの関係がない人間にしてみれば、彼らはただただ異形でしかない。奇形やアルビノの人に関する、いわゆるが起きてきた背景を鑑みれば、欠落症の人に対しても同じように蔑視するのは当然に思える。


 結果として、今があった。以前ほどではないにしても、未だに欠落症の人たちはそうではない人たちから蔑視されることが多いのだ。過激な差別主義者に欠落症患者が襲われるような、痛ましい事件も起きることがある。


 だから――


「くしゅん」


 うう、とニャー先輩が鼻を押さえて呻いた。


「あう、すみません、なんでしたっけ?」


 彼女は先程と同じような反応を示した。もしかしたら、まだ頭がぼうっとしているのかもしれない。

 ただ、彼女の様子を見るに、誰かに何かされたような危機感が一切、これっぽっちもないようなので、貴方の危惧は杞憂きゆうだったのだろう。


「……このまま立ち話もなんだな」


 貴方は口の中で呟くと、


「ニャー先輩、家は近いのか?」

「えっと……ここはどこですか?」

「……分かった。俺ん家近いから寄ってけよ。このままだと風邪引くぞ?」

「そ、そんな! 大丈夫でくしゅん!」


 遠慮しようとするが、どう考えても大丈夫そうではなかった。

 はにかむニャー先輩を連れて、貴方は自宅に向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る