どこにでもあるような、誰もが望むような【完結】

高辻さくら

第一編「巡り紡ぐ、八重の花」《鳴瀬仁愛 編》

第一章

第一編 第一章 ①

 もし、道ばたに人が倒れていたら、貴方はどうするだろうか。

 ただ寝ているだけと楽観するか。

 臆病風に吹かれて足を止めてしまうか。

 面倒事に関わりたくないと思い、見過ごしてしまうか。


 貴方が選んだ行動はもちろん、いずれでもなかった。


 五月の中頃、ようやく温かさが安定してきた春。せっかくの気温も雨によって蒸し暑さに変わり、早くも梅雨の訪れを感じさせる、そんな気のはれない休日。

 しとしとと降る雨粒を傘に受けながら、貴方は立ち止まって目を細めた。


 最初は見間違いだと思った。それはそうだろう。こんな雨の日に、住宅街の道ばたで人が倒れているなんて誰が予測できよう。

 しかし、そんな逃避は現実が許してくれなかった。


 道ばたに置かれた大きな塊が人であると気付くと、貴方は駆け出した。


「おい、大丈夫か?」


 寄って、膝をついて声を掛ける。返答はない。肩を揺するがそれでも反応はなかった。

 交通事故という単語が脳裏を掠める。

 貴方は手にしていた傘と鞄を放って、外傷を確認するために、うつ伏せられた身体を強引に仰向けさせた。


 倒れていたのは欠落症けつらくしょうの少女だった。

 肩口で切り揃えられた黄支子きくちなし色の髪、犬のようなブラウンの垂れ耳をしており、耳と同じ色の尻尾を背中から覗かせていた。

 そこまではよくある容姿なのだが、彼女には一つ特筆すべき点があった。


 猫のような、ずんぐりとした肉球つきの手をしている。


 貴方は少女の身体を見渡して、怪我らしき怪我がないことを確認した。しかし、依然として彼女は目を閉じたままだ。

 貴方は焦りながらも一度深く呼吸して、少女の頬を軽く叩いた。すると、ようやく少女が反応を返してくれた。

 睫毛まつげを振るわせて、雨に濡れた唇を小さく動かし、こう口にした。


「シャワー、気持ちいいです……」

「これはシャワーじゃねえぞ!?」


 思わず、貴方は突っ込んでしまった。


 数秒して、貴方は肩の力を抜いた。いや、力が抜けたというべきか。少女の発言に緊張がほぐされ、脱力感が押し寄せてくる。

 その波にたゆたいながら、貴方は思った。

 これはもしや寝ているだけか?

 だとしたらとんだ人騒がせだ、と。


(……とにかくよかったじゃありませんの。大事ないみたいで)

「そりゃそうだけどな……」


 さっきまでの緊張はなんだったんだ、と貴方がに愚痴っている間に、少女は目を覚ましたようで、むにゃむにゃと呻いた後、ゆっくりと目蓋を開いた。


「起きたか?」


 貴方が問うと、


「先輩?」


 彼女はそう口の中で言い、まん丸い瞳を数度ぱちくりさせて、


「何故、先輩がここに!?」


 ばっと身体を起こして、身をよじりながら叫んだ。

 貴方は彼女の言い分に首を傾げる。

 ……先輩? 寝ぼけているだけか?

 いや、それよりも、


「何をそんなに驚いてるんだよ」

「だ、だって先輩、こんなの駄目ですよ!?」

「……何が駄目なんだ?」

「い、今まさにしてることです!」


 彼女は立ち上がって、力の限り叫んだ。


「シャワーを覗くのは犯罪です!!」

「だからこれはシャワーじゃねえって言ってんだろ!!」


 貴方も力の限り叫び返した。

 しかし、やはり寝ぼけているのか、彼女はさらに言う。


「ご、誤魔化さないでください!」

「言い逃れしてるわけじゃねえよ!?」

「う、うそです! 覗きの人はみんな『これはシャワーじゃない』って言うんです!」

「そいつら苦しまぎれすぎだろ!?」


 そんな奴がいるなら連れてきてみろ、と思うが、貴方は首を振って改めた。


「あーもう、とりあえず落ち着いてちゃんと見ろ! 服着てるだろ!?」

「ここで先輩が服を着てなかったら大変ですよ!?」

「そりゃ大変どころか変態だな!!」


 って違うわ。


「俺じゃなくて! お前の方!!」

「……?」


 彼女は首を傾げ、自分が服を着ていることを確認し、


「先輩! びっくりしました!」

「やっと気付いたか……」

「はい! 服着てシャワー浴びてたみたいです!!」


 …………。


「……そうか。次からはちゃんと服脱げよ」


 貴方はやおら天を仰いだ。雨を顔で受け止めながら嘆く。なんだかすごく疲れた。このはちゃめちゃな子は一体なんなんだ。

 貴方はしばらくぼうっとしてしまった。


(ちょっと、頼来らいく。大丈夫ですの?)


 私は貴方の名前を呼んで気付きつけを試みた。

 天塚あまづか頼来――それが貴方の名前だ。

 貴方は名前を呼ばれて気を確かにしたのだが、


「……ん?」


 不思議といくつかの単語が頭に浮かんできた。それはどこか心に引っかかっていた事柄だった。


 猫のような両手。

 先輩と呼ぶ少女。

 そして、このとんちんかんな回答――


「――ああ」


 貴方は仰ぐのをやめて少女のことを見つめると、こう尋ねた。


「……?」

「はい! ニャーです!」


 彼女は短めの尻尾をぶんぶんと振って、力強く答えた。


「お久しぶりです、先輩!」

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