タナトフィリア 5-6
はらはらと、
炎は収まり、屋外灯に照らされているのは僕とシノだけとなった。
「シノっ……!」
先程は制止されたが、もうあいつはいない。
唇を噛んでシノに駆け寄った。
「シノ、シノっ!」
傷だらけの身体を抱き起す。
意識はなく、死体のようにぐったりとしていた。
重力に従って、ぐらりと首が後方に傾く。
すると長い髪が流れ、紫や黒や赤に支配された顔が
目元は腫れあがり、口元は切れて赤が這っている。
頬も紫に染まり、膨れていた。
「シノ! ねぇ起きてよ、ねぇ」
僕が痛めつけた。
僕が
僕が、僕のせいで月が欠けた。
「シノ、起きて、シノ、シノ!」
それでも僕は彼女を手放したくない。
繰り返し「シノ、シノ」と名前を呼んで身体を揺すった。
「……んぅ」
何度目かの呼びかけに、わずかに反応があった。
腫れたまぶたが震えたのだ。
「シノ?」
今度は静かに唇が横に引かれ「うぅ」と声が漏れた。
お願いだから早く目を覚まして。お願いだから。
ああ、でも目を合わせるのが怖いよ。
いっそこのままビスクドールになってくれないかな。
物言わぬ人形になってずっと隣に座っていて欲しい。
二つの感情がせめぎ合うなかで、シノの目は開かれた。
不思議な輝きを持つブラウンの瞳が左右に彷徨い、中央へ戻る。
焦点が定かではない赤みの強いブラウンは、数秒後、ついに僕へ注がれた。
「シノ」
瞬時にシノの表情が引き
「ひぃっ!」
抱きかかえていた腕の中から、シノは逃げた。
まるでバケモノでも見たかのような怯え方で、地べたを這って後ずさる。
「……え?」
杖になってくれると言った少女が、僕を拒絶した。
杖が、僕を支えてくれた杖が、僕を。……そりゃあそうだ。
恐れられる行為をしてしまったのだ。
突き放されて当然じゃないか、ユイ。
「あはは……そう、だよね」
二つの視線は交わり、外れることなく時は経過していく。
込み上げてきたのは乾ききった笑いだった。
くつくつと笑いながら僕は立ち上がる。
片手で顔を押さえて、ただ、不気味に声を上げた。
おかしいなぁ。こんなに笑えるものなのか。どうかしてるよ。
だって、シノが、さ。
シノが、シノに、シノから。
ずっと一緒だと誓った杖が、杖に、杖から。
拒絶された。
「あはは! そりゃそうだよ! 僕が! 僕が! 他でもない僕が壊したんだから!」
きっと、黒衣の少年が憑りついたんだ。
腹筋を痛めそうなくらい笑い続けると「ユイ……」とシノが呟いた。
飛びぬけて滑稽で、傑作だなぁ。
さながら子供染みた喜劇じゃないか!
ひとしきり笑うと急に足から力が抜けてしまい、その場に膝から崩れ落ちた。
僕は惨めに顔を押さえたまま座り込む。
笑い過ぎて過呼吸気味だ。
なのに、零れる言葉は更に呼吸を苦しくさせる。
「……ごめん。ごめんなさい。ごめ、ん。ごめん」
シノに見放されたらおしまいだ。
立ち上がることもままならず、たった
「許して、とは言わないからさ、ど、どうか……」
いなくならないで。
見捨てないで。
独りにしないで。
虫のいい話だってわかってる。
でも、もう僕にはシノしかいないんだ。
だけど、頼まれたってこんな最低な男と一緒にいたくないよね。
僕は価値のない狂人だ。必要とされないに違いない。
目頭に熱を感じながら「ごめん。ごめん」と謝罪し続けた。
「それ、僕がやったん、だよね。僕が、シノ、に」
震えだした手を顔から外す。
手のひらは水分で濡れていた。
「ごめん、ごめん、全然覚えてないんだ」
ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝い落ちる。
泣くつもりは一切なかったのにな。
泣くべきはシノなのに。
「自分の意識もろ、ろくに制御できないって、本当、クズだよね」
シノは距離を取ったまま、こちらを見ていた。
警戒は解かれない。
あんなに近かった関係は、一瞬で破壊されてしまった。
こつこつ積み上げてきたものも、暴力の前では無意味だ。
シノに恐怖を味わわせてしまった。
シノに嫌われてしまった。
もう二度と笑いかけてもらえない。
美味しい料理も作ってもらえない。
お風呂で身体を拭くこともない。
おしまいだ。
もう全て、僕自身が粉々にしてしまったのだ。
「僕ってホント、どうしようもないなぁ」
自嘲して俯く。
「ごめん、ごめんね、シノ。ごめ、ん。最低だよね……」
膝に落ちる涙が、染みを作っていく。
終わった。もう戻れない。
絶望に打ちひしがれていると、投げ出した手に硬いものが当たった。
石だろうか。
いいや、石にしては長細い感触だ。
「……カッター?」
目をやると、地面に落ちていたのはカッターだった。
黄色く太いボディ。
黒い円状のスライダーに、出されたままの銀の刃。
刃の先端には、赤色が張りついていた。
また嘲笑が漏れる。
僕はこれでシノを?
じゃあ、この赤はシノの血、なのかな。
このカッターを使って衣服を裂き、傷を?
それから顔を殴って腫れ上がらせ、恐怖を植え付けた?
「ねぇ、シノ」
カッターを掴んだ僕は再び顔を上げた。
あまりに惨めな顔をしていたのだろうか。
滲んだ視界の中で、シノが肩を跳ねさせる。
「これを使ったのは、僕?」
黄色を胸先に掲げた。
また切られるのでは。と、シノは足を引きずって後退する。
「シノ、答えてよ。ねぇ」
催促してもシノは黙ったままだ。
「ねぇ!」
声を荒らげると、シノは見るからに怖気づいた。
こんなつもりではなかったのに。
どうしてだよ。
問いただすべき事柄でもないものを執拗に問いただして、何がしたいんだ。
尋問したところで、立ち込めたどす黒い感情が晴れるはずがないのに。
「ユ、ユイが」
紫色の幼い唇を震わせながら、シノは話し始める。
「ね、猫の死骸を、見つけたあとに、ユイの、め、目つきが変わって。いきなり、笑い、だして。ずっとおかしいままで離れについて、そ、そしたら、殴られて、切られて、それで……」
聞きたくもない事実を確認してしまった。
大きく大きく息を吐いた僕は、その場で仰向けに倒れた。
「そっかぁ。……ごめんね」
また謝りながら笑う。
「シノ。お願いがあるんだ」
カッターを夜空に掲げて、首を傾ける。
左側にいるシノを視界に捉え「聞いてくれない?」と優しく問いかけた。
間を空けてシノは頷く。
「僕をさ、殺してよ」
「……殺、す?」
「うん」
カッターを弄びながら暗い空を見た。
星も月もない、淀んで濁った夜空だ。
腐敗していて、今にもヘドロの匂いがしてきそうな不潔な色をしている。
ちっとも美しくない。
感動もない。
立ち込めたどす黒い感情に、光りごと呑まれてしまったのだ。
「絶対に動かないから。抵抗もしない。されるがままでいるからさ。これで頸動脈をざっくりやってくれない? ほら、首のこの辺」
首筋を指でさす。
「首の血管ってさ、表面に近いところに太いのがあるんだよ。知ってた? あはは。でね、ここなら女の子の力でもいけるかなぁって」
「わ、わた、私が?」
「うん。だって憎いでしょ? 僕が。酷いことをした男を殺せるんだよ? 嬉しくない? 復讐してよ」
誰にも必要とされず、誰彼構わず傷つけてしまう僕に生きる価値はない。
月を穢した罪は極刑に値する。
それにほら、憐れな末路も似合う人生だったしね。
「ほら、これ使って」
刃が出たままのカッターをシノに差し出す。
「ほら。大丈夫だって。早く殺して」
手を伸ばし、可能な限り遠くへカッターを置いた。
空いた両手はみぞおちの上で組む。
「さぁ、早く」
いつかまた、シノを傷つけてしまうかもしれない。
その日が訪れるまえに、終止符を打つのだ。
最も信頼する人物の手で殺められるのなら、心残りはない。
涙は枯れて、とても穏やかな気分だ。
「ほら」
再度呼びかけると、痣と泥で汚れた脚でシノは立ち上がった。
よろけながらカッターを拾い上げ、僕の元へひたひたと歩く。
そしてすぐそばで立ち止まり、静かにこちらを見下ろした。
無表情のまま、シノは僕の身体を跨ぐ。
ゆっくり膝を折って、構えられたカッターが首に狙いを定めていった。
清々しさに包まれ、目を閉じる。
二度とこの目が開かれることはないのだ。
たった十五年の人生だったが、最期だけは素晴らしかった。
一思いに突き刺された刃で、僕は死ぬ。
大量出血で即死。
地味な一生だったから終わりくらい華やかでありたい。
血の噴水を上げて、派手に散るのはどうだろうか。
派手の分類に入るのかなぁ。入ってほしいなぁ。
往きつく場所は地獄で間違いない。
さぁ、早く。
闇の中で残る聴覚に、カタカタと無機物な音が届いた。
どこか、とても顔に近いところからだ。
恐らく首の上だろう。
シノがもうすぐそれを振り下ろしてくれる。
「――甘えてんじゃないわよ」
鋭く尖った言葉が降り注ぎ、反射的に目を開けた。
映ったのはシノと、切っ先。
右の眼球の真上に、カッターが構えられていた。
「聞こえないのかしら? 甘えるなって言ってるのよ!」
怒りの炎を宿した瞳が、僕を刺す。
「都合が良すぎると思わないの? 私に散々痛い思いをさせておいて、自分だけ先に楽になるなんて許さないわ。ずるいわよ。死んだ者勝ちじゃない! ふざけないで!」
「でも、僕は」
「でもじゃない! 弁解も懺悔も意味を成さないってわからない? 私は人殺しにはならないし、ユイにも死んでほしくないの!」
「でも」
「またでもって言った! やめてよ!!」
シノは激怒していた。
僕に対して怒鳴り散らし、心の中を剥き出しにしていた。
「ユイが死んだら誰が私の料理を食べてくれるの? 私は誰のために料理を作ればいいの!? 誰が美味しいよって喜んでくれるの!?」
紫色の唇が怒りに震えている。
口の端についた赤色に、熟れたトマトを連想した。
トマトソースのチキンソテーだっけ。
あの光沢のある赤はとても美味しかった。
「私にはユイしかいないの。ユイのために料理を作るのが、私の生き甲斐なの! 生きる理由なの! すべてなの! もうとっくにあなたの杖として生きると決めてるのよ! ユイがいなくなったら、私は生きる価値を見失うの! 勝手に私の価値を奪わないで!」
カッターが突然動き、頬を裂いた。
焼けるような痛みが走り、ぬるい液体が滴る。
「そんな残酷な世界、嫌よ。息をするのもうんざりだわ」
傷口を指先がかすめた。
「お生憎さまだけれど、私、酷い目に遭うのは慣れているの。この程度何てことないのよ?」
でも。
また繰り返しそうになった僕の両頬が片手で挟みこまれる。
骨のない柔らかい部分に指がきつく食い込み、舌の動きすら抑制された。
「私の料理を不味いと言った日があなたの命日。いい? 肝に銘じなさい」
低い声でシノは「返事は?」と脅す。気迫に押され、僕は首を縦に振った。
「よろしい」
ふっと表情が和らぎ、食い込んだ指が離れる。
「私のためを想って死ねるのなら、同じくらい私を想って生きなさい。今日のことは許せないわ。でも、特別に全部忘れてあげる。だからまだ杖でいさせて?」
シノの朗らかな笑顔に、また涙が溢れる。
彼女に出会えた僕は、世界の誰よりも幸せ者だ。
顔をグシャグシャにして泣いていると、シノの指先が優しく涙を払ってくれる。
「見て」
やっと落ち着いた頃。
シノは片側に身体を避け、本宅の縁側を目で指す。
指された先の立派な縁側には、高級そうなカーテンで遮られている。
「見える?」
差しのべられた手を取って僕は上体を起こした。
目を凝らして、シノが見ているそれを観察する。
「カーテンの隙間」
白のレースと、
「赤い色が見えない?」
「え?」
目を細めて凝視すると、カーテンの隙間に赤や橙がちらついていた。
炎が
本宅が燃えているのだ。
まだ大きな火ではないが、放っておけば家屋全体が焼け落ちる。
今からではもう消火は遅い。第一、消火方法がない。
運命は定まってしまった。
大変だ。
このままだと宮脇邸に人が集まってくる。シノの存在が明るみに出てしまう。
ばれる前に逃がさないと。
本宅がどうなろうが関係ない。
だが、シノがいた痕跡は消し去っておかねばならない。
火災の犯人にされたら一大事だ。
消防車を呼ばれる前に一刻も早く行動に移らねば。
「行こう」
立ち上がった僕はシノの手を引いて離れへと急いだ。
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