タナトフィリア 5-5
ぼんやりと目を覚ましても、
ここはどこだ。
僕はどうなったんだ。シノは?
響く嗤い声に、意識が緩やかに覚醒する。
光源の無い闇が世界を包んでいる。
どうやら夜になってしまったようだ。
或いは、暗い部屋に閉じ込められているか。
いいや、かすかに風を感じる。
嗤い声の合間に夏虫の鳴き声もする。ここは屋外だ。
だけど、暗くてよく分からない。
現状を確認している間も嗤い声は止まなかった。
この声はどこから発せられているのか。
声の発生源を求めて一歩踏み出す。
『お目覚めはいかがかな?
動きを感知した屋外灯が、ぱっと灯る。
闇色の視界が一気に明るく照らされた。
「ここは……」
僕が立っていたのは、立派な枯山水の日本庭園だった。
この景色、見覚えがある。
小奇麗に
「宮脇邸本宅の……?」
声の主は未だ捉えられない。
さっきまでいたはずの田園風景もない。
代わりにあるのは、普段滅多に目にしない森の先の風景だった。
『いつまでオレに背を向けるつもりだ、ユイ』
先程まで笑っていた男の言葉に、弾かれたように振り返る。
そこには。
『よう。初めましての挨拶は必要かな?』
「なっ……!」
約五メートル先。
カーテンの閉まった縁側を背景に、少年が立っていた。
僕を見据えて口角を吊り上げ、ニタニタと嗤いながら。
全身を黒衣で覆っており、まるで常闇を纏っているような風貌だ。
眼光鋭い赤い瞳は三日月のごとく細められている。
その顔に、既視感を覚えた。
いいや、間違えるはずがない。
あれは僕と同じ顔だ。
色と表情は別人だが、あの目も鼻も口も、僕とまるっきり一緒。
『愉快に驚いてくれて何よりだ!』
状況が飲み込めない。
奴は何者だ? どうして同じ顔を?
どうして。
「シノっ!!」
どうして足元にシノが倒れているのか。
あいつは危険だ。
助けなければ。
そばへ駆け出そうとすると少年がけん制する。
『おおっと! 先を急ぐなって。もっとオレとお話しようぜェ?』
「シノに何をした!」
『ナニって? さぁなァ! ちぃとばかし
ブラウスもプリーツスカートも無残に切り刻まれ、赤く濡れた肌が見えていた。
引き千切ったのではなく、刃物で裂いた時にできる、真っ直ぐな線だ。
裂かれたスカートから伸びる太ももには泥が付着し、青や黒の打撲痕が重なる。
顔は髪が掛かり、覗えない。
「僕の、身体で?」
『そうだ。オレもユイだからなァ』
「お前が、僕? な、何を」
『ハハハ! 知らないだろォ? オレの存在を。オレはお前だ。お前のな、憎悪の権化だよ』
少年の肩から、火災で発生する煙のような黒い霧が、もうもうと天へ昇る。
霧となった肩先からは縁側が透けて見えた。
ありえない。
身体が透けているなんて、妖怪や幽霊の類みたいじゃないか。
いいや、そんな迷信の中の存在、あってはならない。
でも、しっかりとこの目で捉えてしまった。
目の前のあいつには、実体がないのだ。
唖然とする僕を少年はケラケラと嘲笑う。
『儀式はある意味で成功したんだよ。お前の憎悪は業火と化したんだ』
言葉を失った僕に少年は続ける。
『ここいらでよく火が燃えただろォ? いーち、にー、さーん、しー、あー……いくつかは忘れたがまあ、いいか』
少年は指を折りながら数えた。
不可解な連続火災。
今までに九件起こり、最後の一件ではシュンが死んだ。
『お前がやったんだよ。お前の憎しみであるオレを使ってなァ!』
「ふざけるな! 僕が火事を起こせるわけないだろ? 妄言だ」
『お前は神の力を手に入れたんだ、ユイ。念じるだけで炎を発せられる神の力を。人を操る神の力を! クソババアに感謝しないとなァ!』
違う。有り得ない。
シュンを殺したのは
決して僕ではない。
僕はシュンに憎しみなんて抱いていない。
「犯人は既に捕まったんだ。僕はやってない! 第一、そんなでたらめの力があってたまるか! あの時僕はシノといた。犯行は不可能だろ!」
少年はけたたましく嗤う。
『神の力は人間には暴けない! 矮小な人間には証拠すら掴めないんだよォ! お前の憎悪にオレは従った。そして、人間が死んだ。操られた薬中野郎は身代わりだ!』
「はぁ? 神の力? 聞いて呆れる。そんなものあるはずがない! 奇跡の一つすら起こせないあれは、ただの幻影でしかないんだ」
『ふぅん……ま、信じるも信じないもお前次第だ。現実に火は燃え、虫けらの命は奪われた。覆らない事実から目を逸らしたいのなら、どォぞ、目を逸らすんだな』
赤く、狂気に満ちた目は僕を睨む。
「幻覚がほざくな。馬鹿馬鹿しい」
惑わされるものか。
実体のないあいつは、僕が作り出した影に過ぎない。
『だーかーらァー、言っただろォ? 信じたくないのなら信じるなってよ。でも、ま、んなこた他人にはどうでもいいんだよなァ。ずっと騙されていたこの女も、今日ようやくユイの本性を知った。歪みきった狂人の本性を。二度と、お前に笑いかける気にはならないだろうなァ!』
少年は卑しい笑みで、シノを見下した。
倒れたシノは微動だにしない。
この距離では、息をしているのかも確かめられなかった。
血が滲み、紅に染まろうとするブラウス。
細い脚からはローファーがなくなり、黒いソックスだけが残っていた。
あの少年は、僕は、シノに惨たらしい暴行を。
煮え立つ感情に拳を握った。
「夢遊病の正体はお前か」
『ははッ! ご名答。オレがお前を乗っ取っている間、お前は意識がないんだもんなァ。楽しくやらせてもらったよ』
「僕の身体を散々操って、シノまで……!」
許さない。
『ハァ? オレはお前なんだよ、ユイ。自分の肉体をどうしようがオレの勝手だろォ? 殺さなかっただけ感謝しろって。なァ?』
シノを恨んだことも、憎んだこともないのに。
憎悪が理由であいつが目を覚ますのなら、明らかに獲物を間違えているじゃないか。
シノは僕の全てだ。
彼女を失う。
それはすなわち完全な喪失と同義である。
「何故シノを狙ったんだ。信頼した相手に憎悪を向けるのはおかしいだろ」
少年の口が三日月のようにつり上がる。
『気に食わないんだよ。お前が幸せな顔をしているのが』
「は?」
『異常者のくせに人間ぶりやがって。どうせこの女もいつかは去っていくんだ。その日が少しばかし早まっただけだろォ? 火炙りになる前に逃がす手伝いをしただけだよ』
「酷い言いわけだな。あきれるよ」
『あーあァー! 忠告してやってんのに生意気だなァ? この女が大切なら、今のうちに離れろっつってるだけなのによォ』
「嫌だね。シノと離れるくらいなら死んだ方がましだ」
つり上がった口から引き攣った声が漏れる。また嗤っているのだ。
『お前は神の子だ。真人間からすれば異端者でしかない。忌み嫌われて、糾弾されて、蔑まれて当然のバケモノなんだよ』
バケモノ。
深く突き刺さる言葉に、心が疼いた。
「だからって」
少年は僕の言葉を遮り、続ける。
『普通を望むな、バケモノ。目が覚めたらこの女もお前を恐れて拒絶する。身の丈を弁えて孤独に生きろよ? 人間と関わっても死体が増えるだけだぞ?』
違う。
僕はただの人間だ。何の変哲もない人間でしかない。
誰からも必要とされず、愛されず、蔑まれてきたただの人間なんだ。
それなのに。
ああ。結局、僕は神の呪縛から逃れられないのか。
シュンを殺めた罪に対する罰が、喪失だ。
杖なしでは歩けないのに、杖がいなくなってしまう。
暗闇に
シノと一緒にいたい。
シノとなら幸せを知る事ができるはずなんだよ。
光へ進める気がするんだ。
それなのに。
僕は彼女との関係を、修復不可能なまでに破壊し尽くしてしまったかもしれないのだ。
服を切り刻んだのは“僕”。
細い脚を泥と痣まみれにしたのも“僕”。
脆く儚い月を傷だらけにしたのは“僕”。
目の前の夢遊病の正体に壊されたのだ。
僕の自我を乗っ取って操り、僕の姿かたちを装って偽って、シノを嬲った。
「……れよ」
俯いて、握っていた手のひらをほどいた。
手の腹には幾条もの血の筋が滲み、赤黒く酸化している。
無傷の僕のものではない。
シノの血だ。
赤黒い現実は精神を打ちのめす。
『普通に生きてみたいなんて、甘っちょろい幻想を抱いてんじゃねェぞ、狂人。いい加減諦めろ。今まで何人に愛想を尽かされた? 拒絶された? 見放された? なァ!!』
「……うるさい」
違う。シノだけは違うんだよ。
月の少女だけは、杖となってくれる少女だけは、絶対に僕を受け入れてくれる。
『散々殴られて貶されて見下されて、もう知ってるだろ? 宮脇ユイを求める人間はいないんだよ。不必要な産廃が足掻いたって報われないぞ? 生き地獄ってヤツだなァ! 精々苦しめ!』
憎しみが、目を覚ました。
「黙れよ、幻覚」
シノは、シノだけは違うんだよ。
顔を上げて、少年を睨んだ。
『ハァ? 生意気だなァ』
少年は首を傾けてニヤつく。
「僕の人生は僕のものだ。これ以上お前には渡さない! 神はあの人を救っては下さらなかった。いくら儀式を続けても奇跡は起こらなかった。お前が儀式の果てに生まれた? 失笑ものだな。望んだ奇跡とはかけ離れた失敗作じゃないか」
『んだとォ?』
「祈ったところで無意味だったんだ。救済の手を差し伸べて下さらない神に、縋る理由はない!」
少年は一層大きく嗤う。
『神の力を得た当人が神を否定するとは! 恥を知れ異端者めが!』
「悪魔の声には惑わされない!」
お前なんか消えてしまえ。
憎しみの業火で跡形もなくいなくなってしまえ。
「燃えろ、幻覚」
眼差しで
刹那、屋外灯に照らされた庭に新たな光源が生まれた。
『なっ!?』
慌てる少年の黒衣に、
『くそっ!テメェよくも!』
瞬く間に黒衣は明るく色を灯し、燃え上がる。
ざまあみろ。
僕の憎しみが炎となるのなら、目の前の少年への憎しみも炎となって
これを最初で最後にしよう。きっと次は上手くいかないだろうから。
自らの意志で生じさせた業火は、あの日の線香花火と同じ色彩をしていた。
紅葉は闇と同化する少年の衣服を焼く。
どうやら痛覚はないらしく、もう一人の僕は苦しみもがく様子もない。
『オレを消したところで道は開けないぞ!』
少年は嘲笑と共に顔を歪め、叫ぶ。
燃え尽きた部分から身体が形を失い、虫食い状に欠けていった。
「お前さえいなければ、僕は幸せになれるんだ!」
二度と出て来られないようにしてやる。
焼き尽くして消し去ってやる。
尚も嘲笑は枯山水に木霊し続けた。
首から上が浮いた状態になっても、少年は嗤う。
『我らの傀儡! 貴様に幸福など――』
それが、生首の遺言となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます