タナトフィリア 5-4



「猫は不浄な生き物だから、清めました」


 あの日、幼い僕は宮脇のおじさんにそう言った。

 すると、おじさんの顔はみるみる赤くなり青筋が浮かぶ。


「馬鹿なことをほざくな! 噂になったらどうしてくれる!?」


 咆哮のあと、硬く握られた拳が顔面にとんだ。

 衝撃で後方へ転んだ僕は、謝ることもなく、笑うこともなく、ただ凍っていた。


 今なら、何故殴られたのか理由がわかる。

 だが、当時の僕は自分がどうして怒られ、殴られたのか理解できなかった。

 殴られたのだから、善行を褒めているはずだ。

 “おかあさん”も、不浄なものを清めるといつだって棒で叩いて「良い子ね、ユイ」と喜んでくれた。


 でも馬鹿なこととは一体何を意味しているのか。

 ただ清めただけなのに。


 非日常を生きてきた子供には、一般常識も倫理観も道徳観も備わっていなかった。

 “おかあさん”から引き剥がされて二年。

 季節がふた巡りする間、僕は施設や親戚の元を次々とたらい回しにされた。


 血の繋がりがあるらしい人々は世間体を気にしながら、仕方なく僕を家に置く。

 彼らもどうにかなると考えていた。

 一人子供を預かって育てるだけ。

 適当にやれば勝手に大人になって、そのうち出ていく。

 養育費は後からむしり取るとして、取り合えず眠る場所と食事と勉学の場を与えていればまともに育つだろう、と。


 僕が普通の子供なら、彼らの思惑は限りなく正解に近かった。

 僕が、普通の子供なら。


「もう面倒を見きれない。限界だ。この子はおかしい。狂ってる」


 どの親戚も皆同じ台詞を口にし、僕を施設へ戻す。

 半年以上続いた居候は一度もなかった。

 異常な行動を繰り返し、異常な言葉をしゃべり続け、自身が異常であるとは微塵みじんも気づかない。


 狂った子供に誰もが愛想を尽かし、疲れ果て、眉を潜めた。

 場所を変え、名字を変え、二年。

 その間、僕は学校でも仲間外れにされいじめを受けた。

 僕が文字も数字も、まともに知らなかったからだ。

 教科書の朗読も、簡単な四則演算もままならない、愚図ぐずで馬鹿な転校生。

 獲物には最適ではないだろうか。


 ひらがなもカタカナも漢字も概念を知らない。

 経典の文言は言われたとおりに覚えただけ。

 書かれた文字を暗記してはいない。

 数字は数えらえたが、一と十の違いを認識していなかった。

 数は呪文でしかなく、大小の関係にあるとは知らなかったのだ。


 突然襲い掛かった理不尽な現実に、僕は戸惑っていた。

 紆余曲折を経て宮脇の家に引き取られるも、やはりおじさんの逆鱗に触れてしまう。

 幾度となく殴られ、罵倒され、虐げられた。

 それでも、わずかな食事と眠るための毛布だけは与えてくれたので、まだマシだった。


 おじさんは成功者の街道を突き進む人だ。

 完璧な人生設計を僕に壊されるわけにはいかない。

 だからこそ、人目につくところでは僕に優しく接し、家の中では徹底的に辛く当たった。


 邪魔者がそんな宮脇家に引き取られて一か月後の早朝。

 ある事件が起こる。


 夜浜町の公園で、猫の惨殺死体が発見されたのだ。

 数十匹の猫すべてが胴と首を切り離され、円を描くように並べられていた。


 他でもない、僕が犯人だった。僕が清めたのだ。


 前日の深夜。

 おじさん達が寝静まるのを待って、家を抜け出した。

 台所にしまってある包丁をひっそりと携えて。


 前々から夜になると公園に猫が集まることは知っていた。

 猫たちは町内で餌付けされている個体も多く、人間を怖がらない。


 やった、エサがもらえる。

 公園に入った僕を猫たちは鳴きながら歓迎した。


 まずは、僕を追尾し、すり寄ってくるしま模様を手に掛ける。

 無言のまま、一匹、また一匹と穢れを清めた。

 三つの円を描き終わった頃、公園に新たな人の気配が加わる。


「面白れぇことしてんなぁ、ガキ!」


 振り返ると、金髪の青年がにやにやしながら近づいてきた。

 年頃は十代後半。

 田舎には似合わない、ホストもどきの奇抜な服装。

 顔中にピアスが輝く物々しい人物だった。


「こいつも殺してくれよ」


 青年はこちらへ、何かを投げてよこす。

 足元に落ちたのは、新しい穢れた生き物。

 若い三毛猫だ。


 ぐったりと地面に横たわり、動く素振りはない。

 まだ息はあるものの、眼球はあらぬ方向を向き呼吸も弱弱しかった。


「サクっつうんだ。このボロ雑巾」


 青年は大きく口を開けてあくびをする。

 かすかに漂う甘酸っぱい奇妙な香りを感じながら、僕は。サクを。



 翌日。

 家族の衣類を洗濯しようとしたおばさんが異変に気づいた。

 僕のパジャマに赤黒い染みがこびり付いているではないか。

 おまけにズボンのポケットが不自然に膨らんでいる。


 不思議に思ったおばさんはポケットの中身を確かめた。

 結果、絶叫が家中に響き渡る。

 卒倒したおばさんの手には血まみれの生首が握られていた。


 事件以降、おじさんたちは更に過激に僕をしつけ始める。

 離れに監禁したユイが普通になるように、徹底した教育を。

 目的はとても簡潔なものだ。


 昼間はおばさんが。休日と夜間はおじさんが。

 それぞれつきっきりで僕を教育する。


 二人は朝から晩まで僕を怒鳴り、殴り、蹴飛ばしながらしつけを行った。

 普通を叩き込んで必要な教養をねじ込んだ。

 自分が異常である事実を教え込み、後ろめたく思うように刻み込んだ。


 普通にならなければ、生きていけない。

 異常な僕は生きる価値がない。

 虫けら以下の命を生かしてくれる宮脇の人々に感謝しなければならない。


 自我を潰して、新しいユイを上書きする。

 そんなしつけ方法はユイを変えた。上辺だけ、だけれど。


 彼らのお蔭で、僕は無事二年生から中学校に通えるようになった。

 普通を装うのも上手くなった。

 教育の一環で、あれだけ信仰していた母親を憎むようにもなった。

 あの女がいなければ、こんな日々は訪れなかっただろうから。

 あの女さえ狂わなかったら、僕の人生は滅茶苦茶にならなかっただろうから、と。


 普通であらねばならない。

 一種の強迫観念に僕は囚われ、ほだされた。


 しゃべらなければ、バレない。

 仮面は簡単に被れるものだ。

 言い聞かせて、学校で無口な人格を演じ続けた。


 自らの心を欺き、嘘で武装した。

 演じていたユイ少年は同級生たちにとって、いてもいなくても構わないもの。

 空気と同じ透明な存在だった。

 呼吸に必要な空気と違う点を挙げるとすれば、必要不可欠な存在ではないところだろうか。


 無個性な転校生はいじめられることもなく、深く関わりを持つこともなく中学を卒業し、宇臣高校へと進学する。

 本心を知られてはならない。

 本性を暴かれてはならない。

 僕は母親のいない世界に絶望しながら生きていた。


 あんなに祈ったのに。

 あんなに願ったのに。

 あんなに、あんなに、あんなに。

 いくら祈ろうが願おうが、神は残酷な世界を変えては下さらない。

 奇跡は起こらない。


 犠齎ギセイ会から切り離された僕の命は、無意味なものだった。


 僕はいらない人間だ。

 悟ってから、ある欲が鎌首をもたげる。

 醜く、愚かな願望は瞬く間に精神と肉体を侵していった。


 自分を、自分だけを見てくれる人が欲しい。

 ユイの存在を肯定してくれる人が欲しい。

 僕を無条件に必要としてくれる人が欲しい。

 そんな、都合のいい物が。


 高校に入学し、標的にしたのがシュンとルカだった。

 ぶくぶくと太り続ける欲を、二人へしたたかにぶつける。


 しかし、二人は僕の欲を裏切った。

 伸ばした手を叩き落として、別の道を歩み始めた。


 ああ失敗した。次を探さなければ。

 もがき苦しむ僕の元に現れた三人目の獲物。

 彼女こそ――



『お前は誰にも受け入れられない!』


 耳の奥で男が嗤っている。

 ゲラゲラケタケタと下衆な声で、愉しそうに。


『ごきげんよう! 我らの傀儡くぐつ! ようやく繋がったなァ!』


 意識が、浮上していく。

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