タナトフィリア 5-3




「じっと見ていてね。見つけないと食べられないんだから」

「はいはい。見つけま――うわあっ!」


 突然背後から突き飛ばされ、間抜けな声が出る。

 強く押されてバランスを崩した僕の身体は、そのまま水面に吸い込まれていった。


 顔面から水に浸かり、水を飲む。

 反射的に身体を起こすが、情けないことに激しくむせた。


「し、シノっ……本当にやめて……」


 もがきながら咳き込み、身体を反転する。

 水深は浅く、太ももが半分浸かるほどだ。

 しかしそれだけの水で、僕の服はずぶ濡れとなった。


 これは怒ってもいい。

 度が過ぎるいたずらだ。当人は愉快に笑っているが、こっちは笑えない。

 怒りを述べるため、顔を上げる。


「せーのっ!」


 ちょっと、とか、こら! とか言おうとするも、シノの突拍子もない行動に阻止されてしまった。


 何と彼女は、僕目がけて降ってきたのだ。


 二つの身体は重なり合うように倒れ込み、お互い水浸しとなる。

 背と後頭部を強く打ち付けて視界に火花が散った。


「痛ぁ……」


 痛みに眉をひそめるが、押し倒した当人は「冷たい!」とはしゃいだ声を上げている。

 こんなに暴れたら魚だって逃げるだろうに。

 もう夕飯に川魚は無理そうだ。


「あーもう……重くないけど重たい! あとこっちも冷たいから!」


 上体を起こし、馬乗りのままで髪をかき上げるシノに抗議する。

 むしろ軽すぎてびっくりしているが、僕は乗り物でも馬でもない。

 言うことすらはばかられるが僕は一応人間である。


「走った後にはちょうどいいじゃない。汗もかいているし」

「嬉しくない善意です」

「あら。十割悪意よ?」


 蠱惑こわく的な笑みに、大きなため息が出た。

 頭のてっぺんから足先までずぶ濡れ。

 川の流れに乗ってシャツや髪が揺れ動いている。


 もう身体を起こすことも億劫になるほど、濡れていないところがなかった。

 一度目は背後から突き飛ばされ、今度は正面から。

 計画的な悪意に心まで濡れてしまいそうだ。


「そろそろどかない?」


 馬乗り状態のまま、シノは僕を見下ろしていた。


「いや」

「どいて下さい」

「いやよ」


 強情だな。


「どーいーてー」

「いーやー!」


 本日のシノは聞き分けのない子供らしい。


「シノ、怒るよ」

「怒ってもどかないもの」

「だーかーらー!」

「やーだー!」


 声を張り上げての言い合いになった。

 力尽くでひっくり返すのもありだが、女の子相手にはしたくない。


「そのままでいて」


 伸ばされた左手が僕の頬を撫でた。

 またいたずらを仕掛けてくるのかと身構える。

 だがシノが取った行動は予想外のものだった。


 細い脚を僕の脚に絡ませ、頬擦りするように胸の上に頭を寝かせる。

 組み敷かれる形で二つの身体はぴったりと重なった。


 目を閉じて動かなくなる端正な顔と、華奢な身体。

 聞こえるのは、シノの吐息と自然の息吹だけだ。


「……心臓の音がするわ」

「ちゃんと動いてる?」


 僕は生きているだろうか。シノには僕の生が聞こえるだろうか。


「ええ。規則的にゆっくり、正確に。女の子に押し倒されたのに落ち着いてるのね」

「シノだからだよ」

「私ったら魅力のない女なのかしら」

「あるよ。あると思う。でも、僕が抱いているのはもっと別のもの」


 僕には愛とか恋とかは理解できないからさ。

 でも、シノは大切な人だよ。

 この世に一つしかない、儚く美しく脆い杖。

 僕と共に永遠に生きてくれるものだ。


 倒れ込んだ二人を、川のせせらぎが包み込む。

 心地良い。

 このままこうしていたら、眠ってしまいそうだ。

 照りつける太陽は苛烈に肌を焼くのに、清流が熱を奪う。


 冷たい。

 冷たくて気持ち良くて清々しくて、安楽に満たされる。

 覆いかぶさる身体に腕を回した。


 ぎゅうっと強く抱き締めて、目を閉じる。

 人の気配はない。

 ここにいるのは二人だけだ。


「静かだね」


 蝉は煩いけれど。


「ええ。世界が終わってしまったみたい」

「物騒だなぁ」

「みんな死んじゃったのよ。世界と一緒に」

「どうして僕たちだけ生き残ったの?」

「私たちが悪い子だから」

「……違いないね」


 目を開ける。澄んだ青い空に入道雲がゆったりと流れていた。


「もし、もしも本当に世界が僕とシノの二人だけになっていたら、どこに行きたい?」


 ひと時の自由を手に入れられたのなら。

 まやかしに二人だけで暮らせたのなら。


「どこにも行きたくないわ」

「どうして?」

「私の世界は狭いの。とても窮屈な箱庭なの。外に出てしまうのはとても恐ろしいことだわ。外側の世界では、ユイとはぐれても出会えない気がして、怖いのよ」

「怖がりだね」

「そう?」


 シノは顔を上げて、こちらを見た。


「ユイはどこに行きたいのかしら」

「僕?」

「聞かれないと思った? 今度はあなたの番なんだから」


 また馬乗りの状態を取られる。

 四つん這いになって僕を見つめる目は、揺らがなかった。


「うーん……シノと一緒に居られる場所なら、どこへでも」


 水の中に放り出していた手のひらを、シノが握る。

 指の間に自分の指を滑り込ませて、祈りを捧げるようにきつく制圧した。


「どこへでも、なんて言うと、ろくでもないところへ連れていきたくなるわ」

「望むところだよ。シノとだったらドゥアトもゲヘナも楽園だ」


 意味は通じないだろう。

 それなのに、儚げな微笑みは僕を赦してくれる。


「私も」


 握り締めた手を持ち上げ、顔先へ。

 触り心地を確かめたいのか、何度も力を緩めたり強めたりして遊んでいる。


「大きな手ね……。安心する……」


 幼く膨らんだ唇が、そっと指先に触れた。

 艶めかしくて柔らかい感触に、全身の毛が逆立ちそうになる。


「気に入ってくれた?」

「ユイのことは全部気に入ってるわよ? 髪の毛一本から、爪の先の白い部分まで」


 首を傾げる仕草にゾクゾクした。

 唇から指が離れると、僕はそっと手をほどく。


「痣、消えたね」


 自由になった手のひらを頬に添える。

 白磁のきめ細やかさを持つ、日焼け知らずの肌。

 ゆっくり撫でていると気持ちいい。


 夏休み前、口元や目元には、兄のつけた赤黒い痣があった。

 しかし今やすっかり痣は消え去り、腫れもない。


「ユイは殴らないんだもの」


 殴られることが日常だったんだっけ。シノの言葉は一々重いなぁ。


 鼻先でまた、二つの手のひらは結ばれる。

 ふう、と一度大きく息を吐き出すとシノは僕の隣に寝転がった。


「夏の空って、どうしてこんなに惹き込まれるのかしら」


 抜けるような青空。

 大きく育つ入道雲。

 容赦のない太陽。


 あまりに鮮やかな極彩色が眩しく、目が潰れそうだ。

 そんな空を一羽の野鳥が飛び去っていく。

 風を切って進む姿に、シノの目が注がれた。


「私も、あの鳥みたいに空を飛んで行けたら。風任せに箱庭の中をずっと飛んでいけたら。きっと、楽しいでしょうね」

「僕も連れていってよ」


 外に出る勇気はないけれど、箱庭の上空散歩なら恐れるものもない。

 空を飛ぶ鳥は誰にも撃ち落とせない。

 僕たちは自由だ。


 隣を見やると、シノと目が合う。

 顔を見合わせて数秒後、二人して声を上げて笑ってしまった。

 もう何もかもが可笑しくて尊くて、かけがえのないものになろうとしている。


「私たち、子供みたいね」

「子供なんだよ。子供だから、こんなに楽しいんだ」


 あの日から時の止まった僕と、大人の振りをして生きてきた女の子。

 どちらも、肉体には不釣り合いな精神を詰められ、苦しんでいた。

 身体ばかりが成熟し、心は育たない。


 いびつな僕と、美しく脆いシノ。

 抱えた荷物は違えど、見ている景色は同じだ。

 だから共に歩いて行ける。


「もう少し、ここにいさせて」

「うん」


 二人で水の中に身体を浸し、空を眺めた。

 言葉を交わさず、無言のままで時間は過ぎていく。

 淡々と入道雲が流れては、遠くに行ってしまう。


 日が傾き始めるまで、シノは動かなかった。

 炎天下に晒されたはずなのに、くらくらと眩暈も起きなかった。

 川の流れのような、爽やかな心のままで太陽を浴び続けた。



*****



 空に橙色が滲んだ頃。

 二度野鳥が鳴いたのを合図に、シノは身体を起こす。


「帰りましょう」

「そうだね」


 差しのべられた手を掴み、立ち上がる。



「あーもうびしょびしょ!」


 口を尖らせながらスカートを絞る。

 布の端から、次々と水分が流れ落ちていった。

 粗方絞り終わると、二人で水際を離れる。

 僕の服も水浸しで色が変わっていた。

 袖や裾を絞ると、面白いように水滴が滴る。


「濡れねずみってこういうのを指すのかな」

「そうなんじゃない?」


 髪を絞りながらシノは応えた。

 長い髪が隠していたブラウスも濡れて身体に張り付き、青色が透けている。


「帰ったらシャワーを浴びさせてもらえないかしら」

「どうぞどうぞ。ごゆっくり」

「先に浴びても?」

「お先にさっぱりして下さい。いつも僕が先だしね」

「浴び終わったら、綺麗に拭いてくれる?」

「了解。何分後に声をかければいいのかな」

「二十分で足りると思うわ」

「じゃあ、それくらいで行きます」

「ありがと」


 濡れた髪を結びながらシノははにかんだ。


「うわぁ、靴がぐしょぐしょで気持ち悪い……」


 砂利の広がる岸辺から、草の生い茂る河川敷へ移る。

 履いてきたスニーカーはすっかり水を吸って、靴下まで濡れていた。

 地面を踏む度に、嫌な感触が伝わってくる。


「私もよ!」


 不快なはずなのにシノは楽しそうだった。

 軽やかな表情のまま髪を結び終えて天を仰ぐ。


「夕日ー! 夕焼けー! あー!」


 訳の分からない叫びを上げ、道路へ走り出す。僕もあとに続いた。

 焼けたアスファルトには、点々と雫が落ちていく。

 ヘンゼルとグレーテルの小石のように、ぽつりぽつり。

 シノは道を示すように前を行った。


「帰り道、覚えてる? 僕もう忘れてるんだけどさ」


 手を引かれるまま走ったので、今自分が何処にいるのか見当がつかない。

 方向音痴も困ったものだ。


「知らない! もう忘れちゃった。でもきっと大丈夫よ。歩いていれば人に道も聞けるだろうし、駅やバス停だってあるはずだわ。いつか目印が見つかるかも」

「駅、あるかなぁ」

「あるわよ。絶対あるわ。だってあの時の私は、帰って来られたんだもの」


 忘れたって言ったばかりなのに、大した自信だ。

 希望的観測の羅列でしかない。

 でも、どうしてか信用してしまう。


「そうかもね」


 小走りでシノに追いつき、隣に並んだ。

 横顔は、真夏の夕日色に染まっている。


「目印がなくて帰れなかったらどうしようかしら」


 心配事を一切考えていない顔でシノは尋ねる。


「野宿するしかないんじゃない? この辺り、クマとかイノシシとか出そうだけど」


 田んぼと山々、川しかないのどかな風景。

 果ては見えない。如何にも野生動物がいそうだ。


「二人ならへっちゃらよ。夜空を見ながら寝るの。素敵じゃない?」


 ロマンチストだなぁ。言葉選びに感服する。

 今は深いだいだい色の空もやがて紫に変わり、濃紺の闇へ化ける。

 一人ではつまらなくとも、シノとなら美しい思い出になるだろう。


「晴れのままだったらそうしようか」


 満面の笑みが返ってきた。


 ひたすら道を歩くと、徐々に雫も滴り落ちなくなってくる。

 服も生乾きになり、肌から剥がれた。

 未だスニーカーが嫌な音をたてているが、もう慣れつつある。


 どれだけ行っても景色は変わらなかった。

 青い稲の群れはさらさらと揺れ、延々と続く。

 空の色が暗くなるにつれ、野宿の線が濃厚になりはじめる。


「夕飯、どうしようかしら」


 しばらく黙っていたシノが口を開いた。


「シノの好きなものを作ってよ」


 僕に、お気に入りを教えてよ。


「私の好きなもの?」

「うん。シノの好みをもっと知りたいしさ」

「好きなもの、ねぇ……。私が好きで食べたいもの……」


 うんうん唸りながら首をひねる。

 想像以上に悩ませてしまった。


「……あっ!」


 はっとシノの目が開かれる。


「決まった?」


 好きなものを閃いたのだろうと、思った。

 しかし、シノは「あれ……」と右前方を指さす。


「え……?」


 指されたもの。


 二十メートルほど先にあったのは、汚れたボロ雑巾のような何か。


「猫、かしら……」


 その一言に、心臓の奥が凍りつく。


 足を止めた僕を置いて、シノはボロ雑巾へ駆けていってしまった。


「し、シノ、待って」


 置いていかれたくない。

 でも、見たくない。


 あれは、穢れた――


「待ってって!」


 下唇を噛んでシノを追いかける。

 警鐘けいしょうが左胸で鳴り響き始める。あぶら汗も噴き出てきた。

 シノはあっという間にそばへ行き、口元を押さえながらボロ雑巾をじっと見ていた。


 近づけば近づくほど正体がはっきりする。

 黒と白のブチ模様。

 二つの耳。

 こびり付いた赤。

 腹からはみ出た内臓。

 飛び出した眼球。

 蝿のたかる毛並。


「かわいそう……。車に轢かれたのね」

「ね……こ」


 急激に身体が熱に包まれた。

 まるで炎に焼かれているかのような熱さに喉元が締め付けられる。


 シノ、ダメだ。それに近づいちゃいけない。

 あれは、不浄の存在だ。



『――キヨメナケレバ』



 頭蓋骨の中で、誰かが嗤っていた。

 ゲラゲラとけたたましい嗤い声は僕を飲み込む。


「ユイ?」


 名を呼ばれたと同時に、僕の意識は闇に呑まれた。

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