タナトフィリア 5-2
細部まで描き込まれ、かつ簡潔に目的地を指す地図。
何時の汽車に乗り、どこで乗り換えるのかもしっかり記されていた。
翌日の昼過ぎ。
僕は地図の描かれたメモ片手に汽車に乗る。
ちょっと残念だ。
定期の代わりに、
それなりに財布を直撃する小銭が失われてしまった。往復の賃金は四桁に達する。
痛い、とても痛い。
でもシノのためなら惜しくはない金額だ。
乗り込んだ汽車は乗客も少なく、すぐに座れた。
日曜の中途半端な時間だからだろうか。
ボックス席で、中高生のグループが何組か騒いでいるくらいだった。
車社会鳥取では移動は大抵自家用車である。
汽車に乗るのは一部のお年寄りや、通学の子供がほとんどだ。
四つ先の駅では、腰の曲がったおばあさんがドアから出ていく。
手には花の苗が入ったビニール袋を提げていた。
どこかに買い物に行った帰りなのかもしれない。
二十分ほど汽車に揺られて、終着駅へ。
今度は別の電車に乗り換える。
ここからは電気で走る正真正銘の電車のお世話になるのだ。
そこから更に三十分。
メモに書かれた駅名がアナウンスされ、僕は無人駅へと降り立つ。
僕以外は誰も下車せず、電車は出発していった。
跨線橋の掛かった二線のホーム。
昭和のまま時が止まった古い作りの駅舎。
入り口付近には座布団の敷かれたベンチが設けられている。
ホームの日蔭で僕を迎えてくれたのは、黒と白のブチ猫だった。
でっぷりと太り、ふてぶてしい目で僕を睨む。
すぐに干乾びたような声で一鳴きし、柵を飛び越えていなくなった。
よかった、いなくなってくれて。
息を吐いてから、駅舎に入った。
昔は有人駅だったのか。
蒸し暑い空気が籠るそこには、板で塞がれた窓口があった。
当然人の気配はない。
のどかなものだ。
セミの大合唱すらもどこか
いつもは耳障りなだけなのに、不思議な気分だった。
夜浜駅よりも濃い田舎の香りがするなぁ。
一通り見渡してから、壁際の券売機に背を向け外へ出た。
すぐさま、さんさんと輝く太陽が身を焦がす。
出入り口にはアイスの自動販売機があった。が、お金を入れる気にはならない。
シノに作ってもらった方がずっと美味しいだろうし、嬉しいから。
そんな風に考える楽天的な僕は、今日も相変わらず長袖長ズボンの服装だ。
注がれる太陽光にじっとりと汗が滲み、不快指数は跳ね上がっていく。
約束の時間まではあと三十分。
ここから
バス停もない学校周辺へは、太陽に晒されながら歩くしかない。
一度、快晴の空を仰ぎ見てから、アスファルトへ踏み出した。
駅周辺は古い住宅がひしめき合っているが、三分ほど歩くと景色が変わる。
細い路地を抜けると、真新しい住宅地が現れた。
シノの言った通り、空き地ばかりが目につく。
住宅地として分譲したはいいものの、入居者が見つからず、といったところか。
背の高い雑草が覆い尽くす空き地たちは、まばらに立つ住宅より主張が激しい。
中には小規模な老人ホームもあった。
メモ帳を見ると、しっかり目印になっている。
ここから先にまっすぐ進めば、緑の屋根の家がある。
そこを右折すると清明高校だ。
歩くこと十分。
ようやく緑色の屋根を見つけ、右折した。
遠くには、蜃気楼のように風力発電用の風車が揺らいでいる。
陽炎を仰ぎ見ながら、人気のない住宅地をただひたすら歩いた。
本当にこんなところに学校なんてあるのだろうか。
疑心暗鬼になり始めた頃、清明高校は姿を現す。
三階建ての校舎に、フェンスの張られたグラウンド。
典型的な学校の形に、何とか辿り着いたと安堵した。
「暑ぅ……」
額を拭って、敷地を囲む塀に沿って歩く。
人とすれ違わない、静かな旅だった。
歩きながら、もう用済みになったメモをポケットにしまう。
部外者が校内に侵入すれば即、通報されるからね。絶対に入っちゃダメよ。
朝にシノが言っていた台詞は守ろうと思う。
警察のお世話にはなりたくないし、通報は非常に恐ろしい。
校門近くの塀に背を預けて、もう一度額を拭った。
頭上では、樹木が青々とした葉を茂らせている。桜か何かだろうか。
ちょうどいい木陰に入り、太陽から逃れる。
休憩にはもってこいの場所だ。いくらか熱を感じなくて済む。
しばらく待っていると、チャイムが鳴った。
授業の終わりを告げるそれに、背後の校舎をかえりみる。
まだ人影はない。
三時過ぎには講習は終わり、下校するとシノから聞いている。
校舎正面の上部に掲げられた時計は、まさに三時を少し過ぎた時刻を示していた。
もう出てくるはずだ。
再度背を塀に預け、待った。
「離して!」
突然背後から聞こえた叫びに、ぎょっとする。
間違いなくシノの声だ。
「あのね
「私は何も知りません! もう帰ります!」
背を浮かせ、声のする方を向く。
「帰るってあなた、今どこで暮らしているの? まさか、悪い人のところに居るんじゃないわよね?」
校舎玄関口前で、教師と
壮年の女性はシノを引き留めようと、必死の形相で腕を掴む。
「先生には関係ないでしょう!? 待ってる人がいるの!!」
「菓さん、落ち着いて話を聞いて? 先生も警察の方もあなたを心配しているの。分かるでしょう?」
「余計なお世話です!」
取りつく島もない。掴んだ腕はふり払われる。
しつこく肩に掛けていたカバンを掴まれるが、すぐさま払い落した。
シノは鬼のように目を吊り上げて、徹底的に教師を拒絶していた。
玄関口には更に二人の男性が現れ、シノを囲む。
「菓、家に帰りたくないならせめて施設に……」
三十代前後の男性は優しくシノを諭す。
「嫌! あんなところ、二度と行きたくない!!」
「落ち着け、菓」
「嫌って言ってるでしょ! 私はもう帰らないの! 帰りたくないの!!」
「お父さんも心配してるんだぞ!」
白髪の男性教師は、厳しい口調でシノを睨めつける。
「うそつき! あの人は私なんか愛してないの! 心配するわけないじゃない!!」
見ていられなくなった。
シノを傷つける大人が憎かった。
僕は「シノ!」と大声で彼女を呼ぶ。
すぐさまシノは僕に気づき、目が合った。
「さようなら!」
別れの言葉を吐き捨てて、一直線にこちらへ駆けてくる。
「待ちなさい菓!」
「菓さん!」
あちらのスピードに合わせ、校門前で合流する。
僕の腕を掴んだシノは「こっちよ」と、来た道とは反対側に走り出した。
追いかけるべきかと焦る教師たちを残して、僕たちは逃げた。
導かれるまま追っ手を振り払い、ひた走る。
二人で、まばらな住宅地を駆け抜けた。
「迷子にならなかった?」
全力疾走の最中、シノは尋ねてくる。
「地図があったから大丈夫だったよ」
何度か角を曲がると、追いかけてくる声も消えた。
「ありがとう。来てくれて」
過ぎ去っていく景色の中で、シノだけが鮮やかに浮かび上がっていた。
ほころぶ頬には涙の跡が残る。
その輝きが歯痒くて奥歯を噛み締めた。
「シノのためだったらどこにだって行くよ」
どんな道だって歩けるよ。
「私の味方はユイだけね」
困ったような笑顔だった。
「どこに行くの?」
だんだん息が上がってくる。
もう振り返っても清明高校の姿はない。
「秘密の場所!」
明確な答えはもらえなかった。
でも、大丈夫。シノの知る地なのだから。
住宅地の果てには、一体どんな景色が待っているのだろう。
手を引かれるまま、駆ける。
住宅街を過ぎ、雑木林の中へ。
一気に土の匂いが強くなり、不思議な音が聞こえだした。
ざあざあ、ざらざら。
何かが
こうしてたった二人、もう何時間も走ったような頃に辿り着いたのは、緑の大地だった。
青い稲穂が風に揺れる、田園。
どこまでも続く田んぼの大群は、音を立てて僕たちを迎える。
見渡すと、遠くに見える山際まで稲が植えられていた。
山の手前には、大地を二分するように大きな川が流れる。
自然が創り出した、大河。
河川敷も緑で覆われ、川沿いは砂利で埋め尽くされている。
「綺麗でしょう? ここでしか味わえないわよ」
やっとシノが足を止める。
二人でぜえぜえ言いながら身体を曲げ、呼吸を整えた。
山から吹き降ろす風は、夜浜町のそれよりわずかに涼しく感じる。
夏の山々は生命力の溢れるみずみずしい
「ひ、秘密の場所って、ここ?」
まだ息が苦しい。ヒイヒイ言いながらやっと言葉を絞り出す。
「ゴールはまだ先。行きましょう」
荒い呼吸のまま、シノは歩き出した。
胸を押さえながら後を追う。
「久しぶりにこんなに走ったかも……」
疾走中には出てこなかった汗が、滝のように噴き出してくる。
「明日にはムキムキになっているんじゃないかしら」
「そ、その前に、筋肉痛で死ぬって……」
「ダメ。私を残して死んだら許さないんだから」
早くも息が整ったシノが羨ましかった。
こちらは一向に楽にならない。
田んぼに立つ
どうやら川へ近づくつもりらしい。
「カバン、持とうか?」
「いいわ、お構いなく。これがないと飛んでいっちゃいそうだから!」
軽やかに一回転して、飛び跳ねる。
あんなことがあった直後なのに、すこぶるご機嫌だ。
ざあざあ、ざらざら。
若い稲穂は揺れ続け、音は響く。
濁音の中へ少しずつ川のせせらぎが加わり、音は増していった。
穏やかに爽やかに勇ましく。
「綺麗でしょう?」
振り返ったシノはもう一度繰り返す。
「うん。綺麗だ」
息がだんだん整ってきた。
もう言葉に変な間は入らない。
何もないのに何でもある。
絵葉書になりそうな田舎の風景に見惚れていた。
畑と用水路、二つの海に挟まれた僕らの町とは違う、田舎の姿だ。
果てしなく美しくて、雄大で落ち着く。
ここはシノの秘密の場所。
その言葉だけで気分は昂る。
「シノといると好きなものが増えて大変だよ」
「もっともっと好きなものを増やしてあげる。私と同じものを好きになるように、たくさんたくさん教えてあげる」
「うん。全部、忘れないから」
草の生える河川敷に踏み入った。
芝というには長く、雑草というには刈り込まれている。
寝転がったら背に刺さって痛いに違いない。
「とうちゃーく! 今日は二人占めね!」
カバンを草の上に放り、シノは水面へ走った。
まだ走る元気があるんだ。すごいなぁ。
感心しつつ僕も続いた。
「ここって普段から人がいないところなの?」
「今日は特別よ。前回は釣りをしてるおじさんと鉢合わせしたわ」
「もしかして、来るの、二度目だったりする?」
「正解! 一度目にここへ来たあとね、帰りが遅くなって殴られちゃった」
そんな重い話を笑顔のままでされると困るって。
「今日は時間制限なしだよ」
「やったぁ!」
嬉しそうに両手を挙げて飛び上がる。
ふわりとスカートが舞い、まるでワルツを踊る貴婦人のように優美に揺蕩った。
「おじさんがね、綺麗な川にしかいない、珍しくて美味しいお魚がいっぱい釣れるって言ってたの」
「へぇ」
河川敷から川岸の砂利の上へ。水面はすぐそこへ迫る。
角の取れた丸い砂利で足元は不安定だ。
「見つけて捕まえてくれたら、今日の晩ごはんにしてあげるわ」
「えー、捕まえるのは難しいんじゃ……」
水際で並び、流れを眺めた。もしかしたらいつか魚が跳ねるかもしれない。
捕まえられたらそいつは今日の食卓に上るのだ。
腰を屈めてじっと観察した。
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