第5章 タナトフィリア

タナトフィリア 5-1




 シノが風呂に入り、一時間経ったら時刻を告げに行く。

 その後バスタオルを手にした僕は浴室へ入り、シノの身体を拭く。

 全身くまなく拭き終わったら、先に浴室を出てシノのパジャマ姿を待つ。


 あの日から、シノは毎日僕にお願いをし続けた。

 彼女の身体にこびり付いた汚れは僕にしか拭えなくなったのだ。

 シノの棒切れのような細い腕では、強固な汚れに敵わなくなった。


 頼ってくれるのは嬉しい。

 でも、手放しでは喜べない部分もある。


 どうか杞憂きゆうでありますように。

 願いながら過ぎる日々の中で、すぐに一連の行動は習慣化し、日常に組み込まれた。


 今だってそうだ。


 僕は今、シノのへこんだお腹にバスタオルをあてている。

 背を向けているシノの腹に腕を伸ばし、見てはならない膨らみを目にしないように配慮しながら。


 時折、白いうなじと浮き上がった背骨が「くすぐったい」と笑う。

 くすくすと、身動ぎする身体は温かかった。


「はい、終わり」


 お腹を拭き終わると、バスタオルを広げて上半身を包む。


「ありがとう」

「どういたしまして。綺麗になった?」

「ええ、ばっちりよ」


 器用に白色を身体に巻き付け、シノは胸元から下を隠した。


「ねえ」


 流れるように、慣れた動作で僕を呼びながら振り返る。


「ユイにお願いがあるの」


 薄桃色の頬に、微笑みを添えてシノは僕を見た。


「ん? お願い?」


 無理難題でなければ何なりと。

 その場に膝をついた状態のままで、じっと瞳を見つめる。

 目元からは随分腫れが引き、元の強気な光を取り戻していた。


「明日は日曜日でしょう?」

「はい。僕のお留守番の日ですネ」

「そうよ。私は学校に行かなければならないの」

「うんうん」


 事件以来、シノは日曜になっても学校へは向かわなかった。

 恐れていたのだろう。或いは怖気づいていたのかもしれない。

 しかしようやく決心がついたのか、明日の登校を決めたのだ。


「行きはね、同じクラスの子と汽車で行ってるのよ。だから大丈夫。でもね」

「でも?」

「帰りは一人で学校を出て、駅まで歩かなきゃいけないの。その子、一時間早く下校してしまうから」


 ふんふん。つまり、だ。


「一人で帰るのは心細い?」


 僕の問いに、シノは大きく首を縦に振った。


「その、迎えに来てくれたら心強いな、って思って……」


 お迎えのお願いか。幼稚園児の父親みたいだ。


「いいよ。シノに悪い虫がついたら我慢ならないし」

「本当に!? ユイ来てくれるの!?」

「行くよ、もちろん」

「ありがとう! これで怖くないわ」


 シノは飛び跳ねそうな声で喜んでいた。

 また、待ち伏せされたら。

 起こりえない兄との遭遇を怯えていたらしい。


 僕では万が一の時、ボディーガードにはなれないけどね。

 もやしだし。

 殴られたら吹っ飛ぶし、蹴られたら折れる。


「でもさ、僕清明せいめい高校の場所知らないんだよね。どこの駅で降りてどう歩くのか、ちゃんと教えてもらえる?」

「メモ帳に全部書いてあげる。地図も一緒に、ちゃーんと」

「詳しく書いてよ? 迷ったら大変だから」

「あら、ユイったら方向音痴なの?」

「まあ、それなりにね」


 苦い顔の僕を見て、シノはころころと笑う。


「じゃあ部屋に戻るよ。待ってるから」

「ええ。ありがとう。待っていて」


 もう任務は完了している。

 僕は浴室を出ようとした。すると。


「あ! ユイ」

「はい?」


 回れ右したあと、名前を呼ばれて振り返る。


「今日ね、アイスを作ってみたの。バニラ味のアイス」

「へぇ、アイスって手作り出来るんだぁ」


 知らなかった。


「私も初めての挑戦なの。……味見してくれないかしら」

「喜んで。シノが作ったのなら絶対おいしいだろうしね」

「お風呂から上がったらすぐ用意するわ」

「こんな時間に食べたら、横に伸びそうだ」

「毎日じゃなきゃ大丈夫。ユイだって言ったじゃない。それに、あなたはもうちょっとお肉がついた方が健康的だわ」


 シノにそれを言われるとは。悔しい。


「えー、筋肉と贅肉ぜいにくは全くの別物だよ?」

「今のユイには同じようなものよ。どっちもついてないじゃない」

「またもやしって笑うの?」


 幼稚に不機嫌を顔に表す。


「そんなにむくれないで? ユイったら子供みたいね」


 シノは小さく笑った。


「別に好きでこんな体型でいるんじゃないし……」


 不貞腐ふてくされる僕にまた、シノが笑った。

 身体を動かすと、傷跡がちりちりと痛んで耐えられないのだ。

 出来ないのではなく、しない選択をした結果が今のもやし体型である。

 運動音痴では断じてない。多分。


「一緒に太ってあげる。ね? これで文句はないでしょう?」

「道連れにするから覚悟してよ?」

「ユイとならどんな道だって歩けるわ。天国でも地獄でもどこにでも連れていってちょうだい」


 シノはにやり、とやんちゃそうに口角を上げた。

 それがとてもおかしくて、膨れっ面の僕も笑ってしまう。


「じゃあ」

「ええ」


 短く言葉を交わし、浴室を出た。



 しゃくしゃくと、音を残して融ける甘い液体。

 おんぼろ扇風機の風だけでは感じられない涼が、口の中に広がる。


 季節は八月の真っ盛り。

 宇臣高校は夏休み中だ。

 シノの通う清明高校も同時期に夏休みに入った。

 しかしシノは単位の関係で、八月中も夏季講習に出席しなければならない。


 週に一度の通学さえ、僕に出会うまではなかなか叶わなかったのだ、とシノは言った。

 加えて実の兄が殺人を犯している。

 ずっと行きたかった学校がもしかしたら、居心地の悪い牢獄に変わってしまうかもしれない。

 人の目につく場所へ姿を見せれば、矢面に立たされるかもしれない。


 例えようのない恐怖に散々葛藤し、シノは決断した。

 これから続く、自身の未来のために。


「美味しい?」


 ベッドに腰掛けてアイスを食べていると、シノが問う。


「美味しいよ。夏はアイスに限るね」


 僕を見た顔は、柔らかくほころんでいた。

 これまで、夏にアイスを食べる習慣はなかったけれどね。

 甘いものは嫌いじゃない。

 でも、進んで摂ろうとも思わないものだった。

 実は最近になるまで、アイスは食べたことのないものだったりする。


 シュンと関わりを持ち始めてから、ようやく口にしたのだ。

 氷のような冷たさと、独特の食感は悪くないと思う。

 尋ねてきた当人は再び勉強机に向かい、地図を描いている。


 甘いなぁ、アイスって。

 呟きそうになった言葉を寸前で飲み込む。


 七月の終わり、ポストに入れられた生活費にはまだ随分残額がある。

 これだけ残っていたら、あと五回は作ってもらえるかもしれない。


 考えて、馬鹿みたいににやけそうだった。


 毎月、ポストには生活費の入った封筒が入れられる。

 今月の安っぽい茶封筒には一緒にノートの切れ端が入っていた。


 書かれていたのは、夏休みに本宅の家族全員で東京旅行に行く、という内容だ。

 ミミズの這ったような乱雑な字は、戸締りには十分注意しろ、と僕を脅す。


 あのやんちゃでいたずら好きのご子息様がねだったのだろう。

 容易に想像できた。

 ちなみに、旅行に出かける日付は昨日だ。

 つまり現在、宮脇家本宅はもぬけの殻。

 広い敷地には、僕とシノだけなのである。


 だから?


 それがどう僕に関わるのか。

 彼らがいようといまいと僕には関係ない。


 シノと二人きりの日常は、今日も明日も壊れず続くのだ。

 二泊三日だか何だか知らないが、どうぞお楽しみください、くらいの感情しかわかない。


 また一口、冷たい塊を口に運ぶ。

 ガラスのカップの中で、アイスは徐々に溶け始めていた。


「シノ、分かりやすい目印があれば書いておいてくれないかな」

「目印……そうね……緑色の屋根のお家は、どう? あまり目立つ物がないのよね……」


 首を捻りながら、シノは考える。


「一軒だけ緑なの? 他にもあるってのはナシだから」

「確か一軒だけのはずよ。あの辺りは住宅もまばらだし、間違える事もないと思うけれど……」

「幼稚園児に地図を描くつもりでお願いします」

「あら、じゃあ全部ひらがなに書き直そうかしら」

「そ、そこはお構いなく……」


 さすがに漢字は読めます。


「冗談よ。方向音痴さんには丁寧過ぎるくらい丁寧に描いてあげる」


 微笑むとシノはまた、ペンを走らせ始めた。

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