タフェフィリア 4-4
「シノ。そろそろ一時間経つよ」
「そう。……私、綺麗になったかしら」
「なったよ」
毎晩の恒例行事を今日も変わらずこなす。
風呂場の脱衣所から声をかけると「ありがとう」と肌色の塊が返事をした。
ジャージ姿の僕はシノが動き出したのを確認してその場を出る。
十五分もすればシノのファンシーなパジャマ姿が拝めるのだ。
若干楽しみである。
いつも通りに洋室に戻り、ベッドに腰掛けた。
天井を見上げると、相変わらず小さな染みがあった。
くすんでいた天井はシノのお蔭で元の色を取り戻している。
こいつはどうしても取れなかったのだろう。
染み一つくらいなら許容範囲だ。僕はそこまで神経質ではない。
そうして待って、十五分。
三十分。
四十五分。
一時間。
待ちぼうけて一時間十五分。
おかしい。
いくら待ってもシノが出てこない。
普段ならとっくに洋室にいる頃なのに。
髪も乾かし終って、後は寝るだけ、の時間のはずだ。
時刻も深夜十二時を過ぎ、僕を眠気が襲い始めている。
もう一度行くべきかな。
今度こそ本当に沈んでいるのかも。
これは風呂場へ確かめに行かねばなるまい。
不安に駆られた僕は再び風呂場へ行くために立ち上がった。
「シノー?」
廊下に出て、脱衣所のドアをノックする。
着替えの最中に中へ入ってしまうアクシデントは避けたい。
もしかしたら、ちょうどパジャマを着ているかもしれないのだ。
危険回避のため、僕はもう一度「シノ」と名を呼んだ。
だが応答はない。
「シーノー」
明るい脱衣所には畳まれた衣類が置かれているのみ。
シノはいない。
「シノ。まだ入ってるの?」
「ご、ごめんなさい、わ、私また……」
声が震えている。
「大丈夫? 気分が悪くなった?」
「いいえ、そうじゃないの」
「でも、いつもよりすごく長風呂だし……心配になってさ。おせっかいだったかな」
「ちが、違う、違うわ。声をかけてもらってね、私もすぐに出られると思ったの。で、でも、でも……」
出られない理由があると?
僕は首を
「わ、私の、身体、全然綺麗に、ならないの」
肌色がゆらりと縮んだ。
「シノが汚かったことなんて一度もないよ? 傷も治ってきたし、おかしいところは何もないんじゃないかな」
「分かって、るわ。でも、そうじゃないの……そういうのじゃないの」
「うん。話してみてくれる?」
そっと
「……いつもはね、平気なのよ。手を洗うのも、歯を磨くのも、顔を洗うのも、平気。ユイよりは少し長いけど、普通にできるの。そうでしょう?」
「そうだね。丁寧なだけで長くはないよ」
「で、でも……お風呂だけは別なの。お風呂で身体を洗っていると、急に自分がどんなものより汚れている気がしてしまって……止まらなくなっちゃうの。汚い腕って
「シノは違うよ。汚れているのはシノを嗤った奴らだ」
シノを傷つけた奴らが汚物なんだ。
こんなにも脆くて繊細な月に刃物を向けるやつらが下劣なんだ。
シノを傷物にして下品に蔑むあいつらがクズなんだ。
「汚い、気持ち悪い、ばい菌って、指をさされて嗤われたの。私の傷を見てみんな嗤うの。理解してくれたのは、ユイだけ」
「安心して。僕は今までもこれからもシノを汚いとは思えないよ。大丈夫だから」
本物の汚物は僕だから。
「……ユイに、綺麗になったよって言ってもらえるとね、とてもとても安心するの。洗っても洗っても取れない汚れが急に無くなって、身体がピカピカになったような気がするの。傷から湧き出てくる膿が消えていくような気がして、すぐに出られるのに……今日は違うの」
「違う?」
「違ったの。……何度洗い流してふき取っても、次から次へと膿が滲み出てきて全然綺麗にならないの。ユイが綺麗って言ってくれたのにまだ私の身体、汚くて、出られなくて……」
僕の言葉は効力を失った、か。
言霊は膿に覆い尽くされて息絶えたのだろう。
シノが汚れから解き放たれるためには、別の手が必要だ。
しかし、それが僕には思いつかない。
「どうしたら綺麗になるかな」
分からなければ本人に聞くしかない。
最短距離の解決法はシノしか知らないのだから。
「その……ええと……」
「ん?」
「あのね、その……こんなお願いはおかしいかもしれないけれど、あ……あの……」
もじもじと、肌色が揺れる。
「シノのお願いなら何でも聞くよ?」
肌色は一層大きく揺らいだ。
しばらくの間
すべてに相槌を打ち、僕はじっと待った。
すると掻き消えそうな小さな声が発せられる。
「ユ、ユイに――いの」
「え?」
聞き返すと肌色がぎゅっと縮こまる。
縮んだ肌色は数秒の無言を経て、お願いを発した。
「ユイに、ね」
「僕に?」
「ユイに、その、汚れを拭き取って、ほしい、の……」
「拭き取る? 僕が汚れを?」
「え、ええ、そうよ。足元のカゴの中に、白いバスタオルが入っているでしょう?」
視線を下に向ける。
壁際に置かれたカゴの中には白いバスタオルが確かに収められていた。
「あるけどさ。これを使って、どうするの?」
もしかして……。
「わ、私がいいって言ったらこっちに入ってきて。まだ、まだダメよ? 準備が終わったら教えるから!」
ぐにゃりと肌色がうねる。
こっちに入ってきて、ってここお風呂ですよシノさん。
とんでもないお願いを聞いてしまった。
「あのー……シノさん?」
「ま、まだダメ!」
「違う違う。そうじゃなくてさ。僕が一応男だって知ってます?」
つけ加えるとあなたは年頃の女の子です。
今僕はかなり
ガラスがなければおろおろする姿を直に見られていただろう。
非常に情けない顔を見られたくはない。
その間にも肌色は形を変化させる。
「知ってるわよ! でも、でもね、このままじゃ朝まで出られないかもしれないし、ユイにも、もっともっと迷惑をかけてしまうし……ユイには迷惑をかけたくないし……。仕方ないの!」
苦肉の策だったらしい。
下心はまったくないし、今ここで発揮するべきではない。
ただただ風呂場への侵入が申し訳ないのだ。
「一般倫理的にはまずいんだろうけど……」
「私が許すわ!」
その一言によって、僕の中で
「じゃあ、待ってます……」
もぞもぞ動く肌色に腹をくくる。
バスタオル越しに触るだけだ。本人の許可も得ている。
よし、大丈夫。
一人で妙な納得をした。
「……いいわよ」
しばらくすると、シノから静かに許しが下りた。
僕はカゴからバスタオルを取って「入るよ」と声をかけ、ドアを開ける。
湿気を
肌色の主はこちらを向いて風呂用イスに座っていた。
胸元から太もものつけ根までを縦長のタオルで隠し、顔を赤らめながら。
しっとりと濡れた身体の上を這う、垂らさた黒い髪は、まるで生き物のようだ。
首筋から肩、二の腕。背の方にも数束流れている。
得体の知れない生物に恐怖感はなく、自然と
「あんまり見ないで……」
「ご、ごめん」
硬直していると、シノは細い足をもじもじと動かして俯く。
あまりに凝視し過ぎたことを反省した。
「どこから拭こうか」
聞いてから風呂場へ踏み込む。
裸足の裏が濡れるのを感じながら、ドアを閉めた。
「ま、まずは脚から、その、お願い」
「了解しました」
僕に向かって投げだされた脚に汚れはない。
膿もこびり付いてはいない。
まだいくつかの
きめ細やかな青白い脚は、棒のように細く頼りない。
その頼りなさが一層
「痛かったら言ってね」
爪先のそばで片膝をついて、バスタオルを構える。
恥ずかしいのか、シノは無言のまま頷いた。
僕には見えない滲み出る膿。
僕にしか拭えないらしい、見えざる敵。
今から正体不明のそれに打ち勝たねばならない。
シノを怯えさせないよう、そっと左太もものつけ根にバスタオルをあてた。
同時に、胸元でタオルを押さえていた手が、ぎゅうっと握られる。
「大丈夫?」
「うん……。続けて」
シノはわずかに笑い、視線を逸らす。
不安の残る笑みを確認して、僕は両手で太ももを包むように膿を拭った。
反応を探りながら、両側からゆっくりバスタオルを滑らせる。
痣の上では微妙に力を緩めて、なるべく痛くないように丁寧に。
たっぷり時間をかけて膝小僧まで滑らせ、またつけ根に戻った。今度は裏側だ。
下からバスタオルをあて、ゆっくり膿を拭き取っていく。
その間シノは、黙ってじっとしていた。
細すぎる太ももは両手のひらを広げると簡単に掴めてしまいそうだった。
もしかしたら片手でも掴めるかもしれない。……流石にそこまでは細くないか。
学校で見るスカートから伸びる女子生徒の脚と比べると、差は歴然だ。
シノは細すぎる。綺麗な痩せ方ではなく、心配になる痩せ方だ。
どうすればここまで細くなるのか。
聞くつもりはないが、また甘いものを貢ごうと思った。
絶対に表に出せない想像をし、再びバスタオルはひざ裏まで下りる。
そのままふくらはぎを包み込み、くるぶしまでの汚れを静かに取り除いた。
最後に足先をぽんぽんと軽く押さえながら拭き取る。
これで左脚は終了だ。
「どう? 綺麗になった?」
顔を上げるとシノと目が合う。
すると、右手はそのままに、離れた胸元の左手が太ももをなぞった。
なぞり終えると、シノは左の手のひらをまじまじと見つめる。
指先を何度か擦り合わせてから、三度瞬きをした。
「綺麗になってる……」
朱に色づいた頬でシノは淡く微笑む。
僕には変化が感じ取れないが、どうやら汚れは消えたらしい。
左脚が引っ込み、今度は右脚がこちらへ差し出された。
「こ、今度はこっちもお願い」
「かしこまりました」
柔らかい表情を崩さず、次へ取り掛かる。
薄く立ち込める湯気の中。
黙々とバスタオルを動かした。
太ももを往復して、ふくらはぎへ。最後に爪先を包んで、僕は顔を上げる。
「終わったよ」
また、手のひらが太ももを伝う。
「汚れは取れたかな」
尋ねると、シノは手のひらを見ながら頷いた。
「ユイは魔法が使えるのね。こんなに綺麗になるなんて、びっくりしちゃった」
「あはは。僕は月並みな人間だから魔法は無理だよ。でも綺麗になったのなら、よかった」
僕には魔法も神通力も超能力も使えない。
ただの人間だ。
ネジがいくつも抜けて使いものにならない、ガラクタの、ね。
「あの、ユイ? その、ね……」
喜びも束の間。
胸元で両手を握り、シノは俯く。
「ん? どうしたの」
くっきりと浮き出た鎖骨。
慎ましい二つの膨らみ。
くびれすぎた腰。
タオルの端から見えるあばら。
初めて風呂で声をかけたあの日、ガラス越しに見た折れそうな身体。
何もかもが、脆くも美しい、ガラス細工のように輝いていた。
ガラスで出来た美しい月。
素手で触れたら崩れて無くなってしまいそうだ。
「その、ええと、ね……」
「まだ汚れているところがある?」
シノは頷く。
「せ、背中も拭いて欲しい、の」
次は背中か。
シノの目からすればどこもかしこも汚れだらけなのだろう。
「分かった。じゃあ、反対側を向いてもらえるかな」
「ええ……」
細い身体はおもむろに背を向ける。
「髪をどけても平気?」
背中は長い髪が何束も張りつき覆われていた。
どけなければ巻き込んでしまう。それでは痛いし、髪が切れかねない。
「ん……」
どちらとも取れる一音のあと、シノの右手が伸びた。
うなじの辺りから髪をすくい、胸側へ移動させる。
僕も手伝って、髪はすべて取り払われた。
現れた背中には腕と同じく、クレーターが散らばっていた。
数にすれば二十をゆうに超える。
かさぶたができたもの、黒ずんで痕になったもの、赤く色の変わったもの。
他にもいくつかの切り傷が残っていた。
強く擦れば、ふやけたかさぶたが剥がれて辛い思いをさせてしまうだろう。
僕はそっと、白いうなじにバスタオルをあてた。
「ひっ……」
その瞬間、シノは肩を跳ねさせる。
「ごめん、痛かった?」
肩甲骨のまわりにかさぶたで覆われたクレーターがあった。
それに
心配して一度バスタオルを離すと、シノは首を横に振った。
「な、何でもないわ。気にしないで」
「そう? 痛かったら無理しないで言ってね」
細い背中が、一度大きく息を吐いく。
「つ、続けて」
「じゃあ、いくよ」
今度は声をかけてから、白色をうなじに乗せた。
優しく水滴を吸い取るように押し当てては離す。
一定のリズムでとんとん、ぽんぽん、と横へ移動させた。
一列拭き終われば下へずらしてとんとん。
真新しいクレーターの上は細心の注意を払ってぽんぽん。
肩から脇へ、くびれた腰へ。
ゆっくりと汚れを取り除いていると、シノの華奢な身体が小刻みに震えだした。
「シノ……?」
名を呼んでも震えは止まらない。
次第に震度は大きくなっていく。
もしかしたら痛みで震えているのかもしれない。
急に押し寄せた不安に、手が止まった。
しかし、シノは大きく首を横に振る。
「もうやめようか?」
また首が横に振られる。
とても大丈夫なようには見えない。
震えは規模を増すばかりだ。
すぐに最大深度に達したそれは、
「どう、してっ……!」
震えるうなじは、確かに泣いていた。
「ど、うし、てっ……」
背を丸く曲げ、自らの身体を抱き締める。
「お、お兄ちゃん、おにい、ちゃんね、人だけは、殺したこと、な、かったのに……!」
学校で耳にした犯人の名が甦る。
泣き声と共に震える背を見ていられなかった。
たまらず、バスタオルを広げ肩を包む。
上半身をすっぽり白色で覆っても、シノの震えは治まらない。
「ユイ、も、ユ、ユイも知って、いるでしょ」
俯いた白い首筋が問う。
「……うん。知ってる」
知っているけれど、知っていたとしても、シノとの関係は崩れない。
壊れない。
無くならない。
「気持ち、悪いで、しょ? こんな、こ、んな、ひ、人殺しの妹な、んて。気持ち、悪くて、汚く、て、穢れてい、て、ばい菌だら、け、の私、なんて――」
衝動。
あるいは情動。
タイルの上に両膝をついた僕は、後ろからシノを抱きしめていた。
彼女に突き動かされたのだ。
「シノは僕の杖だ。一生そばにいてくれる大切な、大切な杖だ。僕はさ、杖がないともう立ち上がれないんだよ。杖がないと前に進めないんだ。シノがいなきゃまともに息もできないんだ」
首筋に顔を
「僕の杖はね、他のどの杖よりも力強くて、繊細で、月みたいに美しくて、それでいて頼りになる唯一無二のものなんだよ。だからシノは胸を張っていて。自分を貶めないで。僕が悲しくなってしまうから」
吐き出しても、彼女の嗚咽は止まらなかった。
しっとりと濡れた髪を頬で感じていると、シノは「あのね」と言葉を紡ぐ。
「うん。なに」
「あのね、わ、私ね、猫を、飼ってい、たの」
「へぇ。どんな猫?」
「三毛猫で、ね、サクって、な、名前の仔」
「男の子?」
頷いたのか、首が縦に揺れた。
「私、によく、懐いてい、て、すごくすご、く可愛、かったの。私の、たったひと、りだけの、味方だった、の」
「大好きだったんだね」
あの、猫が。
「今でも大好、き。でも、でもね、お兄、ちゃんが」
「うん」
「……お兄ちゃん、が、殺した、の。と、突然、サクを、乱、暴に連れ出し、て、どこかに、行ってし、まって……。それで、それで、ね、帰ってき、たら、帰って、きたら……」
求められている気がして、僕は腕の力を強めた。
「首だけに、なっちゃってた、の」
「……うん」
一度喘ぐように息を吸うと、シノは続けた。
「やめて、連れていか、ないでって、お願いした、のに、お兄ちゃん、が、殺したのっ!」
「可哀想だね」
サクはシノを救うため、
ニエとして捧げられた彼は、今頃あちら側にいるのだろう。
「サクだけ、なら、私が、か、悲しんで、終わりだった、のに。なの、に、四人、も、殺めて、しまった、ら、傷つく人が、大勢、出てしま、う……!」
「……殺されたのね、僕の学校の生徒だったんだ」
僕の同級生で、みんなから必要とされて、愛されていた人だった。
いらないものの僕とは違う、誰からも好意を寄せられる人だった。
「ごめ、ごめんなさ、い。ユイも、悲しい、でしょ?」
「うん。悲しいんだと思う。でもシノが謝ることじゃないよ。シノは悪くないからさ」
「う、ううん。私が、止めなかった、のが、いけな、かったの。お兄ちゃん、あの日、は、いつもと違う、薬、を使ってい、て、様子が、おかし、くて。笑い、ながら、家を、飛び出し、て……。私、私を、殺せばよかった、のに」
だから、シノは家から逃げ出せた。
「そんなこと言わないで」
シノのいない世界に僕を置いてけぼりにしないで。
杖がなければ立ち上げれない僕から離れていかないで。
繰り返される嗚咽をただじっと抱き締めて、落ち着くのを待った。
しばらくして、ぽとり、と僕の頬にぬるい水滴が落ちる。
まるで僕の心情を代弁するように、穏やかに。
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