第4章 タフェフィリア

タフェフィリア 4-1




 ふわふわするの。

 離れに戻ると、パーカーを羽織ったままのシノがそう言った。


 額に触れてみるとわずかに高めの熱を感じたので、体温計を手渡す。

 抱き締めた際に感じた熱は健康的なものではなかったらしい。

 水銀が指した体温は三十七度三分だった。


 クレーターから菌が入ってしまったのか、下着同然の格好で外にいたのが身体に障ったのか。

 すぐに着替えさせてからベッドに寝かせ、残っていた風邪薬を飲ませた。

 今できる限りの最善策だ。


 微熱があるのにも関わらず、明日の朝食を作ると張り切るシノに、今度は僕が安静を言いつける。

 熱が下がったらお願いするから。

 眠たそうなシノと約束して、その日は終わった。



 そうしてまた、二人きりで迎える朝がきた。

 あらかじめ目覚まし時計のアラームは解除しておき、静かな早朝に自力で起きる。

 ベッドには未だすやすやと深い眠りに落ちるシノが横たわっていた。


 起こさないように洋室を出て、近所のコンビニへ向かう。

 いつもより一時間以上早く起きたから、余裕はたっぷりある。

 客のいない店内を物色して、適当にパンやおにぎり、ジュースなどを買った。


 また抜き足差し足で洋室に戻り、それらを勉強机の上に置く。

 シノの一日分の食事だ。

 僕には自炊の能力がないので、これが精一杯の労わりである。

 食べて下さい、と置手紙も添えて、登校した。


「一日くらい休んでも構わないよ。シノが熱を出しているのに一人にしておけないから」


 就寝前、深夜の離れで本人とも話したのだが「ユイは学校へ行かなきゃダメ。これ以上迷惑はかけられないもの。お願いだから行って」と強く断られた。

 眠ったままのシノを置いて離れを出るのはいささか心が痛む。

 しかし、シノのお願いを破るのはもっと心が痛むのだ。


 ぬるい風を感じながら駅までの道のりを歩いた。

 道中お巡りさんや、地域のパトロール隊のおじさんたちの姿がやけに多く目につく。


 あれ、そういえば、帰り際に見えただいだい色は……。


 またどこか燃えたのだろうか。

 サイレンも聞こえたような気がする。多分だけれど。


 物騒だなぁ、と考えながら汽車に揺られる。

 気がつくと学校の最寄り駅で下車しており、学生の波に従って歩いていた。

 校門をくぐり、いつも通りに三階の教室を目指す。


 階段を上って一年D組の教室前まで来ると、今までにない違和を感じた。

 雰囲気とか、空気とかと呼ばれるものが違う。

 漂う空気がどこか重苦しく、湿っているのだ。


 季節のせいではない湿った感覚。

 いつもなら聞こえてくる馬鹿騒ぎも今日はない。

 少し気味が悪いくらいじめじめしていた。

 何故だろうと不思議に思いながら、形容し難い雰囲気に身を投じる。


 そして。

 まず目に入ったのが、純白の菊の花だった。


 花瓶に活けられた、大輪の菊の花。

 この教室にはあまりにも異質なものだろう。

 幾重にも重なり、曲線を描いて広がる花びら。

 みずみずしい緑色の葉。

 墓場でよく目にするあの花だ。


 もう一つおかしな点があるとすれば、菊から目を背け、すすり泣く女子生徒たちの存在。

 加えて時折、静寂が支配する教室に誰かの嗚咽おえつが転がり落ちる。


 異様さにドア付近で足が止まった。

 花瓶が置かれているのは窓側中ごろの、シュンの机の上だ。

 どうして……。


「え、っと……?」


 静まり返った教室に、僕の間抜けな声が響く。


「なに、これ?」


 菊の花から目を離せないまま、自分の席へ歩き、机にカバンを置いた。

 シュンはこんな悪質なイジメにあうタイプではない。

 菊なんて縁起の悪い花を机に飾るのはやり過ぎだ。


「ユイ、知らないのか?」


 昨日シュンと楽しそうに話していた声の主が話し掛けてくる。

 どうやら隣の席だったらしい。


「う、うん。どういうこと?」


 けらけら笑っていたあの声からは想像できない神妙な面持ちで、Aは花の意味を話し始めた。


「んー、その……シュンが、さ」

「うん?」

「――死んだん、だよ」

「し、しん、だ? シュンが?」

「シュンの家な、火をつけられたんだ。全焼は免れたんだけどさ」

「……火?」


 あの橙色は、まさか。


「それだけじゃない。家じゅう荒らされて、家族全員刃物でぐちゃぐちゃにされてる」

「シュンが? 死んだ? 本気で言ってるの、それ。ウソだったらキレるよ?」

「マジだよ。ウソじゃない。シュンは死んだ。日付が変わってすぐに、殺されたんだ」


 殺された?

 誰に?

 どうして?


 あのシュンが死んでしまった。

 告げられた事実に悲しみは沸かない。

 笑いがこみあげてきそうないかれた感情に戸惑う。


「強盗殺人ってことになっているらしい。現時点では」


 Aはポケットから取り出した携帯電話を操作して僕に見せた。

 画面に表示されているのはニュース記事。

 太字で『鳥取で強盗殺人、放火事件』と書かれている。


 スクロールされた記事を要約するとこうだ。

 僕とシノが再会した深夜、築谷つくたに家から火が出た。

 消防車が出動して鎮火するも、居間などが焼け半焼の状態となる。

 辛うじて焼け残った祖父母夫婦の寝室や台所、子供部屋からはそれぞれ四人の遺体が発見された。


 四体の遺体は激しく損傷しており、服装や現場の状況から築谷一家だと判断された。

 深夜、侵入した犯人が四人を殺害し火をつけ、逃走したと推測される。

 凄惨な殺人現場を含む、いくつかの部屋は荒らされた形跡があった。

 強盗殺人の末の放火事件。

 犯人はまだ捕まっておらず、目下捜索中である。


「そん、な……」


 最後まで読み終わると、頭の中が真っ白になった。

 シュンが、もういない。

 ウソだ。ウソに決まっている。


 数秒したらひょっこり教室に現れて「おはよ!」と白い歯を見せるに決まっている。亡骸なきがらを見るまでは信じてやるものか。


 こんな白色のマヤカシには騙されない。

 だって昨日もあんなに明るく喋っていたのに。

 夏休みの予定を立てて楽しそうにしていたのに。


 どうして。どうしてだよ。

 ルカと結婚するんじゃなかったのか?


 僕と違って人生設計もちゃんと立てていた。

 目標のあるしっかりした男だったのに。

 僕より先に死ぬなんて、ふざけるな。


 何倍も何千倍も人に必要とされていた人間が死ぬ?


 ありえない。

 そんなバッドエンドは誰一人として望んでいないじゃないか。

 これから先、僕はどう振る舞えばいいんだ。


 だって、シュンはたった一人の、と――


 いいや、違う。


 僕にそんな存在はいない。

 僕は独りだ。独りでなければならない。

 こんな下らない枠組みに、尻尾を振るなど馬鹿げている。


 初めて学校と名のつく場所に行った、あの時をまだ忘れてはいない。

 異常な欠陥者として罵られた日々を忘れるわけがない。

 忘れるものか。


 僕は学校が嫌いだ。大嫌いだ。

 滅びてしまえばいいと思っている。

 だからこそ誰にも必要とされない人格を演じ、笑って過ごしてきた。


 馴れ合いはいらない。

 求めてはいけない。

 求めても与えられないから。


 僕にはシノだけいたら十分だ。

 杖が一本あれば、僕は生きていける。


 立ち竦んだままの僕の前から携帯電話が引っ込む。

 ショックを受けていると思われたのだろう。

 Aはバツが悪そうに席へ戻った。


 するとほぼ同時に、誰かが教室へ入ってくる。

 もしかしたら、と顔を向けると、ルカがドアの前に立っていた。

 いつもの笑みは消え、急にやつれたように見える。


「ゆーゆー」

「ルカ……」


 彼氏を失ったルカの心中は少しだけ察せられた。少しだけ。


「一緒に学校行こうねって約束したのに、しゅーたんが来なかったの。るったんとの約束を破るなんて今まで一度もなかったのに、来ないの。いっぱいいっぱいメッセージも送ったし、百回は電話したのに、返事をしてくれないの。昨日の夜もね、大好きだよ、愛してるよ、ってたくさん言ってくれたのに。しゅ、しゅーたん私の事嫌いになっちゃったのかな? それともお寝坊しちゃったのかな? ゆーゆー知ってる?」


 ねえ、ねえ、とルカは僕にすがり付いた。

 神に縋るような顔つきでこちらを見る。苦しみに喘ぐ眼差しに、知らないとも知っているとも言えないでいた。

 完全にルカにおされてしまっていたのだ。


 ルカだって真実はとうに知っているだろう。

 なのに僕に縋り、現実の改ざんを要求している。


 人間は愚かだ。

 つくづくそう思う。

 僕を含めて皆、久しく狂っているのだから。


「ねぇ、ゆーゆー黙ってないで答えてよ! ねぇ!」


 もう誤魔化せない。

 僕はゆるゆると首を横に振り「知らない」と告げた。


 途端にルカの顔が悲しみに染まり、目玉焼きのような大きな目から大粒の涙が溢れる。

 死を受け入れられずに涙を流して、ぐしゃぐしゃに顔を歪ませた。


「どうしてぇ? どうしてゆーゆーが知らないの!? ゆーゆーはしゅーたんの友達なんだから知ってなきゃダメなのに!!」


 すとんと座り込んだルカは、泣き崩れた。

 僕はシュンの友達ではないんだよ。だから知らないんだ。


 何も言えずに立ち尽くす僕を、白い菊が嘲笑っていた。

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