スタチューフィリア 3-7




 くだらない世間話にうんざりし、いつもより早い時間の汽車で離れに帰った。


 制服から長袖の私服に着替えて台所を眺める。

 誰もいない。


 一分といられずに洋室に戻り、ラジオをつけた。

 知らないロックバンドのアップテンポな曲が流れる。

 シュンが好きそうだ。


 音楽を聴きながらベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。

 いくつか染みがあって木目を汚している。


 十分でも二十分でも三十分でも平気で眺めていられる汚れ。

 上を向いたままでいると、とうに曲は終わり今度は女性歌手の歌うバラードが流れる。


 知らない曲を何曲も何曲も聴き続け、僕は決意した。

 独りは嫌だ。探しに行こう、と。


 これまでも何度か捜索を敢行している。

 だが毎回シノには会えず仕舞いだ。

 今回はまだ到達できていない場所を本格的に目指す。

 目的地は、あの日シノと出会った公園。


 複雑な蜘蛛くもの巣を抜けて辿りつけるそこには前回も挑戦した。

 しかし見事に迷ってしまい結局行けずに終わった。

 無駄足は重々承知だ。会えない確率の方が何倍も高い。


 でも探さずにはいられない。

 もうカップ麺もコンビニ弁当も身体が受け付けてくれないし、食べたいとも思えなかった。


 身体が、本能的な欲求が、シノを求めている。

 僕も人間だ。欲には勝てない。


 最低限の小銭をズボンのポケットに突っ込み、パーカーを羽織って、僕は離れを飛び出した。

 独りの日々から抜け出したかったから。


 闇に染まり始めた住宅地を抜けて川へ。

 コンクリート製の橋を渡って富灘町とみなだまちに入った。


 ここまではあの夜と同じ道順だ。問題はここからである。

 蜘蛛の巣を辿って公園へ向かう道。

 いくら記憶を手繰り寄せても、必ずどこかで選択を誤ってしまう。


 僕はどうやら方向音痴らしい。

 何度挑戦しても目的地には着かず、知らない開けた場所に出るだけ。

 シノの後ろについて、何も考えずについて行ったのがいけなかった。

 しっかり道を覚えておけばと、これまで何度も悔やんでいる。


 まさに、後悔先に立たず。

 もう悩むより挑むしかない現状に自らを奮い立たせた。

 日が落ちた暗い紺色の空の下、今日も僕は蜘蛛の巣にケンカを売る。



 無言のまま、住宅が建ち並ぶ蜘蛛の巣を行き来した。

 あっちでもないこっちでもないとうろうろ歩き回り、振出しに戻る。

 蜘蛛の巣は想像以上に広大で、いくら選択を変えても、正解には当たらなかった。


 途中、薄汚い猫の集会に冷ややかな視線を送りつつ、更に進む。

 今は何時だろう。

 濃い紺色だった空は今や漆黒の闇に染まっている。

 ぽつぽつ立っている街灯と、月明かりのみの世界だったあの日と違い、今日はまだ家々から溢れる光があった。


 不審者として通報されませんように。

 お巡りさんに見つかって補導されませんように。


 祈りながら細い道を巡り続けた。

 広場や畑に到着しては来た道を引き返す。

 二桁は引いたハズレに疲れを感じながらも、歩みを止めはしない。


 必ず見つけるんだ。

 もしも僕との生活に嫌気がさして逃げ出したのなら、最後にさようならをして別れるだけ。

 他の事情で姿を消し、帰って来られなかったのなら、また一緒に蜘蛛の巣を抜け離れに戻るだけ。


 二つの道を考えながらひたすら歩き続けた。

 その内に家々に灯っていた明かりが一つまた一つと消えていく。

 月明かりばかりが暗闇を照らし、心もとない。



 繰り返し続けた失敗の末、ようやく見た事のある広い道に出た。

 漆喰の塀が闇に白く浮き上がり、片側一車線の道路が真っ直ぐ続く場所だ。

 知っている。

 夢遊むゆう病で彷徨い、目が覚めた場所で間違いない。


「よしっ」


 静かにこぶしを握り締めて、公園へとしっかりとした足取りで歩いた。

 僕はもう一人では立ち上がれない。

 杖のない日々は僕の精神をすり減らし、摩耗させる。

 それでも少なくなった気力を奮い立たせて、道を進んだ。


 ほら、もうすぐあの十字路が見える。

 奇跡を信じて公園へと近づく。

 すると、かすかに何かが軋む音が聞こえた。

 十字路を視界の先に捉えると、謎の音がしっかりと聞き取れる。


 ぎいぎい、きいきい。

 まやかしではない、金属がきしむ音。


 規則的に続く金属音に僕の心は温度を上げた。

 音の正体を知りたい。

 もしかしたら。もしかすると。


 早足で進むと街灯に照らされた公園の様子が見えてくる。

 誰もいない砂場。

 鈍色に光る滑り台。

 揺れるブランコ。


 揺らしているのは――


「……シノ?」


 ブランコの上には、長い茶色の髪を垂らして俯く少女の姿があった。

 腕と脚を剥き出しにした露出の高い格好で、少女は静かにブランコを揺らす。


「シノっ!」


 たまらず叫んで僕は十字路を走った。


「ユイ……?」


 叫び声に反応した少女はすっと顔を上げた。


 赤黒く腫れた目元。

 切れて血の滲む幼い口元。

 痣に隠された強気な瞳は僕を捉え、大きく見開かれる。


 シノに違いない。

 走り寄った僕は目の前で足を止め「探したよ」と笑った。


 ブランコに座ったままのシノは、僕を呆然と見上げて固まる。

 数秒後、黒々とした殴打のあとの残る脚を震えさせて、シノは言葉を紡いだ。


「ユイ……ユイっ!」


 長く見つめ合い、急にブランコから立ち上がる。

 腫れた目に涙を滲ませて、流れるように僕に抱き着いた。


 シノは腕をきつく回し、胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

 わんわん声を上げて、僕のシャツの胸元が濡れる。


 ええと、こういう時はどうすれば。

 この気持ちを伝えるために、どんな行動をとるべきなのか。


 戸惑いながらも僕はシノの華奢きゃしゃな身体に腕を回して抱き締めた。

 何も発さず、ただ抱きしめる。


 逢いたかった。逢いたかったよ、シノ。


「お、お兄ちゃんが、がっこ、うの、前で、まちぶ、せ……しててっ」


 泣き続けるシノの涙を受け止めながら、時は過ぎていった。


 たおやかな時間。

 泣き続けるシノを抱いて経過する甘ったるい時間だ。

 いつか食べたフレンチトーストみたいに、甘くてとろとろでまろやかな時に僕の精神は少しずつ形を取り戻していく。


 ずっと望んでいた現実を手に入れた。シノとようやく出会えた。

 これ以上の幸せがあるだろうか。

 いや、無いに決まっている。


 十五年の人生の中で、人並み以上に色々な経験をしてきた。

 しかし、これ程までに穏やかな心を僕は知らない。

 シノの身体は細くて折れそうだったが、温もりを感じた。

 受け止めた身体が焼けただれてしまいそうなくらいに、熱かった。


 僕の心が回復していくにしたがってシノの泣き声は小さくなっていく。

 何十分も何時間も泣いていたような、たった数分だったような。

 どちらにせよ、シノは僕を見て拒絶しなかった。


 シノが僕を求めてくれるのなら、僕はそれに応えるだけだ。

 最後の涙が落ち、目元を拭うシノをブランコに座らせる。

 足元に跪いた僕は彼女の右手を握って笑顔を向けていた。


「落ち着いた?」


 シノはこくりと頷く。


「遅くなってごめん」


 また、こくり。


「寒くない?」


 気温は高くとも下着と変わらない服装だ。

 ほら、女の子はお腹を冷やしてはいけないっていうし。

 僕の心配をよそに、シノは静かに頷いて「あまり見ないで。汚いから」と小さく呟く。


 汚くなんてないよ。

 シノは綺麗だ。

 まるで月みたいに美しい。


 手のひらで隠そうとする二の腕にはいくつものクレーターが空き、うみをもって輝いていた。

 新旧様々なクレーターは腕全体に無数に広がる。

 真新しいものは光を受けて、てらてらと煌めき、とても美しかった。


 その輝きが、望遠鏡で覗いた幻想的な月面を想わせたから。


 汚くなんてない。

 芸術品みたいに繊細で、綺麗で、麗しい。


 でもきっと女の子は傷を嫌うだろう。

 これくらいは僕でも分かる。

 首を横に振りながら僕はパーカーを脱ぎ、シノに羽織らせた。


「一緒だよ」


 苦笑しながら長そでのシャツをまくり上げる。

 するとシノが息をのんだ。


 ずっとずっと永遠に隠し続けるつもりだったものを曝け出す。

 躊躇ためらっていたはずなのに、シノの前なら許されるような気がしてしまったのだ。


 シャツの下から現れた僕の右腕は、醜いケロイドに浸食されていた。

 すべてが焼けただれて、正常な皮膚は残っていない。

 引きったケロイドに重なるように切り傷の痕や抉った痕も混在し、腕全体が紫や赤や青に変色している。


 バケモノ染みた色とかたち。

 醜くてグロテスクで、不気味で異常な身体。これを、僕は今日まで隠して生きてきた。

 僕は汚い。でもね。


「シノだけじゃない」


 でも、シノは汚くないよ。

 シノは綺麗だ。


「さ、帰ろう?」


 涙を一筋流しながらシノは首を縦に振った。

 ブランコからゆっくり立ち上がり、僕たちは歩き出す。

 十字路を渡って、漆喰しっくいの塀を過ぎ、細い蜘蛛の巣へと二人で踏み込んだ。



 蜘蛛の巣を抜ける道中、シノはぽつりぽつりと話し始める。


「お母さんがね、いなくなったの」


 僕は肩を抱き、黙ったまま次を待った。


「……とても、とても、幸せで不自由のない家族だったの。ずっと幸せが続くと信じてたの。疑わずに生きていたの。でも、ある時からお父さんがお酒をやめられなくなって、お兄ちゃんが危ない人と関わるようになって……」


 幸せは脆くも崩れ去る、か。


「私が十歳になった誕生日の日にね、お母さんが消えちゃったの。お父さんの代わりに毎日毎日昼夜を問わず働いて、頑張って、頑張り過ぎて、いなくなっちゃった」


 酒浸りの父親と、まともな道から外れた兄。

 残された娘。

 悲劇は目に見えている。


「だから私が頑張って掃除をして、洗濯をして、ご飯を作って、お母さんの代わりになって……。お父さんとお兄ちゃんのために、毎日いっぱい家事をこなして働いたの。そのせいで、学校に行く暇がなくなっちゃったけどね」


 出席日数が足りなかったの。

 シノが話したあの日の言葉を思い出した。


「ようやく暇を見つけて学校に行っても、仲良しだった友達はみんな、私のあざや傷が汚いからって避けられて……。悲しくて寂しくて、学校が怖くなって。一人の時が一番気持ちが落ち着いたの」


 シノは零れる涙を手のひらで拭う。


「私の身体、気持ち悪いでしょう? 汚いでしょう? こんなけがれた身体で戻ったら嫌われると思って、ずっと帰れなかったの」


 痣だらけの顔が僕を見上げる。

 無理やり作った笑顔が痛々しい。


「シノは気持ち悪くなんてないよ。汚くもない。僕が知っているシノはずっと綺麗なままだ」


 これは嘘じゃない。

 僕の本当の感情だよ。

 どうか、知ってほしい。


「……ありがとう」


 笑顔を交わすと視線が逸れ、静寂が訪れる。

 澄んだ夜空には月が浮かび、いつの間にか星が瞬いていた。

 あの日見えなかった星が今日は鮮明に見える。

 幸運に感謝し、シノへと視線を戻した。


「生まれてからずっと、ユイに出会うまで私ね、自分の作った料理を美味しいって言ってもらったことがなかったの。お父さんもお兄ちゃんも、一口食べただけで不味いって怒鳴るから。不味いとね、皿ごと床に払い落とされるのよ。一口も食べずに投げつけられたこともあったわ」

「あんなに美味しいのに?」


 シノは頷く。


「ユイが私の料理を褒めてくれた初めての人。掃除や洗濯をして、すごいねって喜んでくれた初めての人」


 蜘蛛の巣から川沿いの道へ出た。

 コンクリートの橋を渡り、二人で畑道を行く。

 遮るもののない畑道では、より一層美しい夜空が拝めた。


「ユイのために家事をするのがとても楽しかった。だってユイは褒めてくれるんだもの。パフェも買ってくれたし、いつも怒らなかったし、私ね、幸せだった」

「だから杖になりたいって言ったの?」

「そうよ。ユイと一緒にいられたら、きっととても幸せだろうから。ユイの物になれたら、私は満たされるから」


 生暖かい風がシノの髪を揺らす。

 ちらりと見えた首筋には、引っ掻いたような傷と手形が、いくつも残っていた。


「もう一度、杖になってくれる?」

「もちろん。ユイが望むのなら死ぬまで杖でいてあげる」


 腫れた目を細めた笑顔が、僕にも伝染する。

 おかえり、僕の杖。

 これからもよろしく。


 彼方かなたの空をだいだい色に染め上げた住宅地は、無言のまま僕たちを飲み込んだ。

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