スタチューフィリア 3-6




 翌日も翌々日もその次も。

 いくら待ってもシノが帰ってくる気配はない。


 見捨てられたのだ、と諦めたいが、ボストンバッグはまだ洋室にどっかりと座り、いなくなってくれない。

 焦燥感で吐きそうになった四日目も、コンビニ弁当が苦痛になり始めた五日目も、シノは帰ってこないままだ。


 ついに一週間が経過し、真面目に気がれてしまいそうになる。

 何度も消息を掴もうと富灘町とみなだまち徘徊はいかいしながら探し回った。

 蜘蛛くもの巣のように広がる道路を歩き回り、シノの姿を見つけようと目を凝らした。

 毎日ラジオのニュースを聞いて情報を入手しようと足掻いた。


 しかし、手掛かりはなく、時は無情に過ぎるだけ。

 夜浜町よはまちょうではその間に空き巣が複数回発生し、不審者の注意喚起が広まっていた。


 新たな火災の発生を恐れた住人達は自主的にパトロールを行い、不審人物の特定に全力で取り組んでいるらしい。

 僕にとっては、空き巣の犯人が誰なのかなんて些細ささいな事象でしかなかった。


 消えてしまったシノのことが頭から離れず、片時も忘れられない。

 生命維持のためにコンビニ弁当やカップ麺を摂取するも、ビリビリと舌がしびれるばかりで吐き気をもよおしてしまう。

 シノの味に慣れつつあった舌は強烈にそれらを拒絶し、ゲテモノへと変貌させる。


 何を食べても美味しいと感じられない。

 シノに出会うまで普通に口にしていたものの味に耐えられない。

 シノが僕だけのために作ってくれる料理が恋しくて堪らない。


 せめて一言、さようならと言ってくれたのなら。


 自らの女々しさに奥歯を噛み締めながら、シノの帰りを祈る。

 季節はとうとう真夏へ差し掛かり、夏休みの影がちらつきだした。


 長そでのシャツを愛用し、決して腕まくりしない僕には酷な季節の到来だ。

 数日後には期末テストが控え、同級生たちは課題とテスト勉強に追われている。


 何ら変わりのない日常を過ごす予定だったのに。

 シノを失って僕はがらんどうになってしまった。


 寂しいとか恋しいとか、この気持ちはそんな簡単な感情ではない。

 例えようのない虚無感は空に浮かぶ入道雲を黒く変え、陽の光を腐らせる。

 毎日毎日、シノがいなくなってから考えさせられ続けた。


 僕はシノを愛しているわけでも、抱きたいわけでもない。

 恋愛感情の欠落した僕には、愛の定義は理解不可能だから。

 しかし、隣にシノにいて欲しいのは本心だ。


 僕は杖を欲している。

 僕のためだけにあって、僕だけのために動いて、僕だけを見る“物”が欲しかった。ずっとずっと夢幻だと知りながら、飢えていた。


 シュンに負けないくらい僕も歪んでいるのだ。

 愛を知らない人間が、突然施しを受けて勘違いしてしまった、憐れな典型例。

 今なら嗤われても構わない。

 今の僕はシノのためなら恥もかけるし、傷つけられても気にならないだろう。


 シノがいなくなって七日目の夜。

 積もり積もった感情のせいで一睡もできなかった。

 鳥のさえずりを聞いて朝を知り、日常がスタートする。


「行ってきます」


 制服に着替えて、静かなままの離れを飛び出した。



*****



 くそ。眠たいな、もう。


 真面目な生徒である宮脇ユイは授業中に居眠りなどしないが、本当に眠たい。

 名前を覚えていない同級生たちと話すのも億劫なほどの睡魔だ。


 購買で買った菓子パンを無理やり胃に詰めたあと、僕は机に突っ伏した。

 やがて、ぎゃあぎゃあと煩い教室内で、一組の男子生徒の会話が耳に入る。


 一人は名を覚えているシュンの声。

 もう一人は……分からないのでAとしておこう。

 二人は楽しそうにテスト勉強の進捗しんちょくを報告した後、世間話を始めた。


「あーと。あのな、夏休みの間に東京の友達をこっちに招待するんだ。遊べそうなところ、どっか知らないか?」


 東京からの移住者であるシュンがAに尋ねる。


「遊ぶところ? んーそうだな……映画鑑賞、なんてのはどうだ?」

「あー、映画はあっちの方が本数多くて充実してるんだよなぁ。わざわざこっちで観るってのはちょっと」


 ごもっとも。


「んじゃ、海水浴とか釣りとかはどうだ? 夏だし」

「呼ぶ予定の友達、金づちなんだよ。死にかねないから却下。他は?」

「他? 他なぁ。水木しげるロード」


 でた。鉄板の観光地。


「観光ガイドブックの常連だな。ま、選択肢に入れとくし、行くだろうけどさ。もっとこう、穴場的なの知らないのかお前」

「穴場……うーん穴場……。ない。ないな。ここ鳥取だし」


 若者が好みそうなテーマパークやアパレルショップは無いに等しい。

 特に前者は顕著けんちょだ。

 ここは田舎なのである。

 自然が豊かとか、海の幸が豊富で美味しいとかで売るのが妥当だとうであり、限界だ。


「ないのかよー。じゃあこの辺で話題になりそうなものは? ここ最近の出来事で何かないか?」

「話題ねぇ。……全国報道された例の連続火災? ほら、シュンの家からなら現場近いし」

「縁起が悪いうえに陰気だな。さすが山陰さんいん

「うるせぇ、どうせ山の陰だよ。よーし、なら逆にシュンに聞くけど、鳥取のイメージってどんな感じなんだ? 生まれも育ちも鳥取だとよくわかんねぇよ」


 恐らくまともな例えは出ない、と先読みする。

 砂漠って言ったら静かに笑っておこう。


「鳥取のイメージ? そうだな……。衝撃的だったのは犠齎ギセイ会?」

「うっわぁ、重たいのきた。何年前だっけ、あれ」


 五年前だよ。発覚したのは。


「俺が十歳の時だったから約五年前?」

「もう五年も経つのか。全国ニュースになった挙句昼のワイドショー席巻せっけんしたんだよな、あの事件」

「そうそう! ちょうど夏休みで滅茶苦茶テレビ観てた!」


 シュンはどこか楽しそうだ。


「シュンが見てたってことは本気で全国区に知れ渡ってるんだな。センセーショナルっていうか、えげつないっていうか、ぞっとするというか」

「ヤバイよな」

「ヤバイ以外の言葉見つからないレベルだよ、マジでヤバすぎ。自分の子供を十年監禁するって常軌を逸してるよな、冗談抜きで」

「子供を生贄いけにえにしてヤバい儀式やってたとか、もう無理! 怖すぎるって。当時自分の母親もそうなるんじゃないかって考えすぎてさ。胃に穴開きそうだったんだよ俺」

「ナイーブだなシュンって。あそこまで異常な人間もそういないだろ。あれ、儀式の理由って何だったっけ?」

「忘れんなよ現地人が。死んだ旦那を蘇らせるためだよ。あーもう無理無理! 思い出したくない。トラウマレベルなんだってあの報道」


 Aは「お前、友達とお化け屋敷でも行けば?」とケラケラ笑った。


 五年前、お茶の間を騒がした、らしい事件。

 それが鳥取県の港町で起きた犠齎会事件だ。


 僕自身、五年前にはテレビのニュースを見る習慣がなかったので、事件情報は八割伝聞だと先に述べておく。


 ある田舎町に一組の恋人がいた。


 二人は愛を深め、間もなく結ばれた。

 夫婦として暮らし始めた二人はすぐに子宝に恵まれ家族が増える。

 何一つ不自由のない幸福な生活。

 ありふれた夫婦であった彼らは、幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。


 しかし、子供が二歳の誕生日を迎えてから数日後。悲劇は起きる。


 突然父親が交通事故に巻き込まれ、帰らぬ人になってしまったのだ。

 突如襲った別れに、母親は嘆き悲しみ毎日涙を流した。

 そして否応なく、子供と二人きりでの生活を余儀なくされた。

 孤独と悲壮に耐えられなくなった母親は次第に精神を狂わせていく。


 夫にもう一度会いたい。

 夫と幸せに暮らしたい。

 夫をどうにかして蘇らせたい。

 夫を、夫を、夫を。


 夫のためなら、何だって捨てられる。

 夫のためなら、どんな犠牲も厭わない。


 最愛の人への想いに狂った母親は、ある日一つの光に出会う。


 神々しい光は母親を優しく諭した。


『夫を蘇らせたいか? 夫を蘇らせるためには、“ニエ”が必要だ。ニエを差し出すのならお前の望みを叶えてやろう』


 光は、ニエと蘇りの儀式について、母親に知恵を与える。

 儀式が成就すれば最愛の男は冥界から還るだろう、とそそのかしたのだ。


 光の伝える儀式はこうだ。


 ニエに傷を刻み、その傷跡がある数に達した時、奇跡が起きる。

 瞬間、ニエを代償に蘇りは達成される。


 あまりに突拍子もない話だが、衰弱した母親の精神は光の言葉を受け入れた。

 狂った母親は迷うことなく、最も身近にいた自分の子供をニエにして儀式を開始する。


 まず始めに、意味もなく子供を殴り、蹴り倒した。

 食事を与えず、縄で柱に縛り付けた。

 煙草の火を押し付けた。

 熱湯を浴びせた。

 その後、眠らないようにきつく拘束し、冷水を浴びせ続けた。

 終いには、泣き叫ぶ子供の爪を剥いだ。


 子供は毎日毎日繰り返し暴力に晒され、狭い物置部屋に監禁される。

 何年もの間儀式は続き、子供が八歳になった時、母親は同志を集め始めた。


 愛する人を失った女を言葉巧みに誘い、光について説く。

 熱心な勧誘の末に、女たちは母親の言葉を信じてしまったのだ。


 後にカルト教団として名を馳せるとはつゆ知らず。

 集まった数人の女たちと共に母親は犠齎会なる団体を立ち上げる。


 彼女たちの崇高すうこうな願いと祈りは暴力として子供に降りかかった。

 まず、拘束した子供と共に女たち全員で経典を読み上げる。

 祈り終われば子供にこぶしを浴びせ、更には金属の棒で叩いた。

 過激になっていく儀式は、次々と子供を飲み込む。

 経典の文言を刃物で子供の身体に刻んでは、子供に唱えさせた。

 油をしみこませた布を腕に巻き付け、火をつけた。

 焼けただれた腕には、更に刃物で文言を刻む。


 子供が意識を失うまで行われる儀式はエスカレートする一方だった。


 母親を信じていた子供は、自らが受ける仕打ちにまったく疑問を持たないまま育つ。

 顔も知らぬ父親を蘇らせるための儀式は、子供にとって日常だったから。


 子供は外の世界から隔絶かくぜつされ、異常な日々を当たり前のように肯定していた。

 無知だったが故に逃げることもなかった。

 子供にとって狭い物置部屋だけが世界だった。


 しかし子供が十歳になった頃、一人の会員の目が醒めた。

 女は犠齎会の行う儀式が狂っているとようやく思い至ったのだ。


 何度子供を傷つけても最愛の人は還ってこない。

 子供を切りつけながら女は絶望していた。


 女の告発により、たちまち犠齎会には警察が介入。

 教徒たちは逮捕され、子供は保護された。


 精神鑑定の結果、犠齎会教祖の母親は気が触れており、罪には問われなかった。

 どこかの病院に送られ、その後報道は途絶える。

 保護された子供は、適切な治療を受けて回復。

 父方の親戚に引き取られ生活しているらしい。


「保護された子供って、確か俺らと同い年だったような……」


 僕がぼうっと考えている間に二人の会話は進行していた。

 シュンは事件を思い出し、子供について話を広げている。


「多分そうだったはず……。よく覚えてるなぁ」

「だからトラウマレベルで焼き付いてるんだって。鳥取のイメージでまず思い浮かぶのが犠齎会なんだよ」

「ふーん。あの子供、今頃どうしてるんだろうな。シュン知ってるか?」

「さあ。死んでるんじゃないか?」

「いやいやいやいや、テレビではどこかで幸せに暮らしているって言ってたぜ?」

「……ワイドショーのおっさんが言ってたけどさ、あんな異常な世界で生きていた子供が、果たして普通に順応できるのか、だよな」

「あー! こんな話でしか盛り上がらないくらい鳥取ネタがねぇ!」

「本当にな」


 二人はゲラゲラ笑っていた。

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