スタチューフィリア 3-5
待って待って待って、待ちぼうけ。
学生カバンを持ち学校へと出掛けていくシノを見送った朝。
朗らかな笑顔で別れ、背中を見ていた。
あれから何時間経ったのだろう。
深夜二時を過ぎても、シノは帰ってこない。
なるべく早く帰るようにするから。帰ったら少しだけ教科書を見せて。
シノは支度をしながら言っていた。
なのにどうだ。一向に帰ってきやしない。
そもそもここはシノの家ではないから、帰ってくるなんて表現はおかしいかな。
いや、しかしだ。
元々住んでいた家には一生帰らないとか、繋がりは無くなったとか本人が口にしていたし……。
まさかどこかで凶悪事件に巻き込まれていたりして……。
何巡目かも数えたくない、ループする思考に不安が募る。
洋室で頭からタオルケットをかぶり、悶々と考え続けた。
もしかしたら、いや、有り得ない。
繰り返すたびに不安は膨らみ続け、頭を抱える。
自分以外の気配のない離れが、やけに不気味で落ち着かない。音が欲しい。
欲求のままに、不安ごとタオルケットを脱ぎ捨ててラジオをつけた。
流れてきたのはクラシックだ。
重厚なヴァイオリンが奏でる物悲しい旋律。
重なり合う音は、さっき捨てたはずの不安を連れ戻し、一層心を掻き乱す。
短調の調べは次第にどす黒い暗雲に変わり、僕の心を淀ませた。
耐えられなくなって悲しい一曲が終わる前に部屋を出た。
その足で台所へ向かう。
シノの姿のない台所。
いい匂いもしなければ、温かな湯気もない寂しい場所だ。
ポニーテールを揺らす、シノの後ろ姿を思い出しながら冷蔵庫を開けた。
確かに彼女が存在していたのだと確かめるために。
ふんわりと広がる冷気に包まれても、気分は晴れない。
ほんの少し前にはミネラルウォーターしか入っていなかったそこには、ラップのかかった皿や、密閉容器が収まっている。
昼にはここから温めるだけのワンプレートランチを出して食べた。
美味しかった。
後で料理名を聞こうと考えていた。
夕食を楽しみにしていた。
本気で美味しかったんだ。
冷蔵庫内に広がるシノの聖域。
あまりに神々しく触れてはならないように感じて、そっと扉を閉める。
僕には触れられない。僕には創れない。シノだけの世界は
とぼとぼと洋室に戻るとボストンバッグが視界に入り込んだ。
これがあるから僕は寝られないのだろう。
ボストンバッグを置いたままにしたのだから、きっと帰ってくる。
あの日、ボストンバッグはとても重くてぱんぱんに膨らんでいた。
目まぐるしく変化する日常に追われて、何が入っているのか今の今まで確認していない。
一体何が詰められているのか。
好奇心に駆られて、床に腰を下ろした。
ファスナーに手を伸ばし、ゆっくりと右へ滑らせる。
現れた中身は、全てを合わせても三分の二ほどしか入っていなかった。
きっちりと畳んで丸めた衣服。辞書や辞典に何冊もの料理本。
そして、青い水玉模様のペーパーボックスが一箱。
小物を収納するための縦二十センチくらいの長方形の箱だ。
罪悪感を感じつつ、カバンから出して床に置く。
持ち上げる際、大きさに見合わない重みを感じた。
カバンの重量の原因を担っているだろう重さだ。
シノ、ごめんね。
口に出さずに謝って、ふたを開けた。
出てきたのは。
「……写真?」
箱に入っていたのはおびただしい量の写真だった。
乱雑に重なる大量の写真。
一番上にあるのは、四人の人物が写る、色褪せた写真だ。
花畑を背にして写っているのは、三十代前後の男女と幼い男の子と女の子。
活発そうににっこりと笑う女の子を囲んだ温かな風景に、心を乱される。
赤や黄色の花々は、四人の幸福を祝うために咲き誇っているようにも見えた。
家族写真だろうか、と裏返すとシノの字で『お父さんとお母さんとお兄ちゃんと一緒に』と書かれている。
長い髪を二つ結びにした女の子の笑顔は、先日の花火の時にシノが見せたものとよく似ている。強気な目つきもそっくりだ。
水色のワンピースを纏った姿は現在のシノにも受け継がれ、面影を残している。
シノとお兄ちゃんと両親。
永遠に帰らないと繋がりを絶った家族の姿を、まじまじと見つめた。
ぶっ殺してやるなどとメッセージを送ってきたお兄ちゃんは、シノの手を握って精悍な顔をこちらに向けている。
お兄ちゃんらしい、頼りがいのありそうなしっかりした顔だ。
両親も愛おしそうな表情で子供二人により添う。
幸せな家族。
その言葉がぴったりと当て嵌まる一枚に、心臓が握り潰されそうだった。
幸福な一枚を床に置き、膨大な量の写真に一枚ずつ目を通していく。
母親に抱かれた赤ちゃん。
手を繋いで夕日に照らされる兄妹。
父親に肩車されたシノと、夜空に咲き誇る大輪の花火。
ピクニックだろうか。
広い原っぱにレジャーシートを広げ、お弁当を食べる一家の姿もある。
赤色に花が散る着物を着てお澄ましするシノの姿も。
七五三のオフショットと思わしきものはそれから何枚か続く。
次に出てきたのは、ロウソクの灯ったケーキの前で上機嫌に笑うシノだ。
四本のロウソクが暗い部屋を
線香花火の夜を思い出して、写真から手を離した。
絵に描いたような幸せな一家じゃないか。
こんなにも愛されて、どうして逃げ出したんだ。
どうしてぶっ殺すなんて言葉を向けられなければならないんだ。
そっと箱を閉めて元通りにボストンバッグに戻す。
ファスナーを閉めてから、ふと気がついた。
重苦しいクラシックは終わり、ラジオからは洋楽が流れている。
知らない曲だ。シノなら知っているかな。
聞きたいのに、聞けない。
「どこ行ったんだよ」
いなくなるなら、せめて一言残してほしかった。
置手紙すらなく消えた杖。
連絡も取れず、元々住んでいた家も知らない。
完全に繋がりは途絶えてしまった。僕は独りぼっちだ。
「シノ……」
夜が明け、朝日が昇ってもシノは帰ってこなかった。
これじゃあ立ち上がれないじゃないか。
僕には杖が必要なのに。
制服に着替えながら、ただただシノの無事を祈った。
*****
「ゆーゆーに元気注入ぅー!」
登校後の休憩時間中。
睡眠不足が祟ってうとうとしていた僕の後頭部へ、柔らかい塊が押しつけられる。
軽く殴られたような衝撃に目は一瞬で覚め、ため息をかみ殺した。
「やめろ。僕の頭は胸置きじゃない」
「きゃー! ゆーゆー今日も冷たいねぇ―! バナナで釘が打てそう!」
勝手に打ってろ。
「おー? ルカ、またユイ構いに来たな? 俺も混ぜろ」
ルカが僕の前方へ移動すると同時に、彼氏まで寄ってくる。
今は本気でそんな気分じゃないのに。
今日も否応なく巻き込まれてしまった。
「あーんもぉー、しゅーたんもキてキてぇ!」
二人に包囲されて、僕は仕方なくルカに尋ねる。
「今日はどんな御用ですか。もう使い走りはしないからな」
するとルカはにぃっと笑い、顔を近づけてきた。
「ゆーゆーにはねぇ、るったんとしゅーたんの神父様になって欲しいの!」
「神父?」
「うーんとねぇ。あれぇ? 神父様はちょっと違うかなぁ。ええとねぇ、言い換えると立ち合い人みたいな?」
「僕がですか」
「もしかして昨日のあれか?」
シュンが聞くとルカは大きく首を縦に振った。
「うん! ゆーゆー聞いて聞いて! るったんとしゅーたんはね、昨日愛の誓いを立てたのだ! これからもずっとラヴラヴでメロメロでキュンキュンで一生一緒にいようねって! でねでね、しゅーたんが十八歳になったら結婚するの!」
また気の早い話だ。
「へぇ。学生結婚って流行ってるの」
「鋭いねぇゆーゆー。るったんたら流行の最先端なの! 高校三年生になったら
鬼が笑うどころじゃない急ぎようにまたため息をかみ殺す。
ルカは僕に見せつけて楽しんでいるのだ。
いかに自分が幸せか、を。
四月に翻弄されて僕も懲りた。
彼女は僕に悪意しか向けない。好意は全て見せかけだ。
「愛を証明するって、具体的にどうしろっていうの。形のないものの証明って簡単じゃないでしょ」
「それがな――」
説明してくれようとしたシュンの声にルカが重なる。
「簡単だよ! これからずっと、るったんとしゅーたんのラヴラヴっぷりを目に焼き付けるだけ!」
ルカは胸を揺らしながらシュンに抱き着いた。
「るったんがこうやって、いつどこでどうやって愛し合っていたか記憶するのだ! で、最後は同級生代表として結婚式の披露宴でお手紙を読むの! 二人は高校一年生の頃から
「要するに俺達の結婚式に出てくれって気の早い話だよ。いつになるかは未定だけどな」
「気が早すぎてこっちは目が回りそうだよ」
シュンはがりがりと頭を
「悪いな。俺も現在進行形で目を回してんだ。ま、何年か後には招待状が来るから覚悟しておけ」
「一張羅で来てね? ハレの日に会う格好を今から考えて準備しなきゃだよ!?」
今からは早すぎるだろうに。
「はいはい、承知しました」
「ふっふーん、よろしい!」
腰に手を当ててふんぞり返る。
これで気が済んだか、ルカ。僕の気も知らないでよくも――
あー、やめておこう。学校にいる間は考えたくない。
シノの失踪でパンクしそうなのに、ルカへの怒りまで追加されたら爆発しかねないよ。
それからしばらく、他愛のないのろけ話が続いた。
間もなくして、ルカは友人らしき女子生徒に呼ばれて自分の教室へ戻る。
過ぎ去った嵐にシュンと苦笑いして、疲労を分かち合った。
よく嵐と付き合ってられるよ。
「お疲れ、いつもありがとよ。あいつ猪突猛進型だから許してやってくれ。悪意は……多分に含まれているだろうけど」
「知ってる。シュンのメンタルには感服するよ。イノシシの彼氏やってて胃に穴が開かないんだから」
僕なら三日でギブアップだ。
むしろ殺して欲しい。殺してくれ。
「いやぁ、あいつさ、俺と結婚するために料理を覚えるとか、掃除は任せてとか言い出すんだぜ? 俺が恥ずかしくないように最高の嫁さんになるんだと。野菜炒めすらゲテモノに変身させるヤツが」
「ゲテモノって……。そんなに酷いの?」
「マジでクリーチャーだった。味はまぁ、食えなくはないんだけど、見た目が料理じゃない。泥団子を目の前に突き出されてるんじゃないかってくらいヤバイ」
「うわぁ……」
料理経験ゼロの僕が意見するのもおかしいが、泥団子は……。
「でもな、頑張るって張り切ってるし、味はぎりぎりだから伸びしろに期待してる。んーとなぁ、なんつーかさ。ルカといると愉しいんだよ、俺」
「愉しいの? あれで?」
僕の問いに、シュンは「おう」と頷いて
「盲信的な女って、ゾクゾクするだろ? 俺だけしか見えていなくて、俺以外を敵とみなして、俺以外への好意はハリボテの偽物なんだ。考えると震えが止まらないのが気持ち良すぎてな」
「……ふーん。またマニアックな嗜好をお持ちで」
気持ち悪い。
「そうか?」
「否定はしないけどさ、相当純愛からかけ離れているよ」
「純愛なんざ端から目指しても望んでもいないし? 愛の形は人の数だけあるってことで」
「上手く
自慢なんて聞きたくない。彼らはただの同級生だ。
ほんのわずかな間、時を共有するだけの他人に過ぎない。
情は要らない。
持ちたくない。
他人と僕は違うのだから。
「いやいや、十代結婚はないわ」
シュンはからからと笑う。
いつもの笑い方に少しだけ気が緩んだ。
「あちら様は本気だったけど?」
「せめて大学を出て仕事が軌道に乗らないと無理。ルカはああだけどな、俺は生涯設計しっかりしてる男だし? 無謀な挑戦もしないし、安定を望んでるつまらない男だよ」
「あーもーはいはい、どうぞお幸せに!」
もう聞きたくない。
うんざりしているんだ。
のろけなんてもうたくさん。
二人の関係が壊れてしまえばいいのに。
二度と会えなくなってしまえ。
絶対に口に出せない呪いを込めて、シュンを睨んだ。
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