スタチューフィリア 3-4




 休日のため、いつもより少し寝坊した土曜のこと。

 午前の早い時間にシノはどこからか古いラジカセを発掘してきた。


 離れにはテレビがない。

 その上、携帯電話は昨日沈没した。

 つまり現在僕達には、外界の情報を得るためのツールがまったく無い状態なのだ。


 ニュースも聴きたいし、音楽も聴きたい。

 ちょっとしたお役立ち情報も知りたい。

 シノはそう言いながら物置を物色していた。


 カセットテープとラジオの、必要最低限の機能しかないラジカセ。

 発見当時は沈黙していたがシノの手によって何度か叩かれ、華麗に復活を果たす。


 休日、僕は朝からふわふわのスパニッシュオムレツなるものをいただいた。

 その後、ラジオを聴きながら洋室でだらだらしていると、モップを持ったシノが現れる。


 開口一番「どいて」と言い放ち、僕はベッド上へ押しやられた。

 する事もなく身動きもとれないので、避難したベッド上でラジオに耳を傾ける。


 ゲストを交えた女性パーソナリティーの明朗なおしゃべり。

 時折入るノイズはご愛嬌といったところか。

 今日も暑いですねぇから始まり、今年の夏の注目観光スポットや、盛夏を快適に過ごすグッズについてなど、当たり障りのない内容が延々と続いている。


 耳はラジオに、目はシノに。

 隅々までモップ掛けをする制服姿に、揺れるポニーテール。

 ゆらゆら、ふりふり、とどこか楽しそうだった。


 やがて勉強机の前で、モップをかける手が止まる。

 一時停止したように動かなくなったモップとシノ。

 じっと机上を見つめ、しばらくしてから僕へ顔を向けた。


「教科書、触ってもいい?」


 勉強机には数学の教科書が置いたままになっている。


「どうぞ。触ろうが読もうが怒りませんよ?」

「本当?」

「本当です」

「本当に本当?」

「本当に本当に本当です」

「そ、そう。ごめんなさい、ちょっとだけ、だから……」


 モップを壁に立てかけ、シノは教科書に触れた。

 ぱらぱらと頭からめくり、三分の一辺りのページをじっと凝視する。

 上から下へ目だけが内容を追い続けて数十秒。

 真剣な眼差まなざしが問題を解いているようだった。


「……どう? 解ける?」


 僕にはさっぱりなんだけどさ。


「……ユイ。これ、この問題、すっごく面白いわ!」

「お、面白い?」


 数学の問題が?


「ええ! まるで知らない世界を望遠鏡で覗いているみたい! わくわくしてきちゃった」


 満面の笑みにウソの影はない。

 シノはどうやら勉強が苦ではないタイプらしい。


「勉強好きなの?」

「大好きよ!」


 熱のこもった大好きに気圧される。

 胸の前でぎゅうっと両手を握り、今にも飛び上がってしまいそうなポーズだ。


「ずっと憧れていたの! 静かな空間でノートにペンを走らせて、数式を解くことに。ずっとずっと。きっとそれはとても贅沢で恵まれていて幸せな時間だろうから。誰にも邪魔されない空間や時間なんて、夢の中でしか有り得ないって、考えていたから……」


 勉強するのが夢と来た。学生なら嫌でもしなければならない勉強が、憧れで幸せで贅沢。

 シノは今まで勉強すら不可能なほど騒がしい環境で生きていたのだろうか。

 図書館が似合いそうな静かな女の子だと思っていたけど、これも偏見だったのかもしれない。


「授業のない日ならテキスト類も置いていけるからさ、自由に使ってよ」

「本当? 勉強しても怒らない?」

「怒るも何も。僕は責めないし怒らないし、教科書も勉強好きなシノに使われたら嬉しいだろうし」


 むしろ僕の代わりに課題を解いてもらいたいくらいだ。


「夢じゃないかしら……こんな幸せが私に……」


 シノは自分の頬をつねる。


「夢じゃない……」


 痛かったらしい。

 呟いてまた、微笑んだ。

 今日は笑顔度が高い。


「そんなに勉強がしたいのなら、通信制じゃなくて全日制の高校を選んでおくべきだったんじゃないの? 月曜から金曜まで嫌になるくらい学問漬けだよ?」


 僕の言葉にシノの笑顔がしおれた。まずいぞ。


「……行きたかったわ。行きたくて行きたくて、でも」


 下唇を噛み、祈るように手のひらが胸元で組まれる。

 大きな地雷を踏んでしまったみたいだ。


「出席日数が足りなかったの。毎日通学するのも難しい状態だったし……行きたかったけれど、叶わなかった……」


 複雑な事情が絡んでいそうだ。

 踏み込むべきではない領域は荒さない。僕は会話を元に戻す。


「ごめん、悪意はないんだ。シノの夢を叶えられるだけの力は僕にはない。でも応援するよ」

「ええ。ユイは優しいもの。分かっているわ」

「あーあ、シノと暮らし始めるって予知できていたら、もっと上の学校に入っていたのに。物足りないかもしれないけど我慢してくれる?」


 嘘つきめ。選択権は無かったくせに。


「私の持ち主は信頼に値する人格ね。お言葉に甘えさせてもらうわ」

「どうぞどうぞ、お構いなく。教科書も本望だ」


 僕の言い回しにシノはくすりと笑った。


「あなたの杖になれて幸せ。ユイと巡り合せてくれた神様に感謝しなきゃ。さぁ、お掃除お掃除!」


 神様に感謝、か。

 する必要はないと思うよ。神様は総じて残酷だから。

 彼らは、僕の願いを聞いてくれなかったし。


 救済の日は訪れないまま、僕は惨めに生き続けている。

 なんて滑稽だろう。


「僕は邪魔になるのでここで見守ってます」

「邪魔したら怒るわよ。早く終わらせて教科書読むんだから!」


 意気揚々とモップを持ち、シノは掃除を再開した。

 離れの隅々まで磨き上げ、塵一つ残さない。

 普段と何ら変わりのない時間がラジオの音声と共に流れていく。



 二人で食事をして、夜には風呂場へ声をかけに行き、眠る。

 タオルケットに包まれた僕とベッド上ですやすや寝息を立てるシノ。

 次第にまぶたは重くなり、僕も目を閉じる。



 前兆は、なかった。

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