スタチューフィリア 3-3




 暗い暗い森に、だいだい色が散る。

 紅葉こうようしたかえでがはらはらと落ちるような、焼けた橙色だ。


 本宅からの死角。離れの裏側の樹木の根元。

 僕たちはしゃがみこみ、季節外れのかえでの落葉らくようを観賞していた。


 幸いにも今日は風が弱い。

 最初の一本は二人して早々に火の玉を落下させてしまったが、二本目からは長く生き延び、かえでは散り続けた。


 物置に有ったらしいブリキのバケツには水がなみなみと入れられ、紅葉の死骸が浮かぶ。

 シノがコンロから火をもらってきた短いロウソクも物置産だ。

 真夏の秋色に見惚みとれる発案者は、うっとりと目を細め、箸も転んでいないのにくすくすと笑う。


「私、線香花火って初めてなの」


 僕は「へぇ」と相槌を打った。こちらも玉を落とさないよう必死だ。

 わずかな揺れすら許されない紅葉に、じっと動きを止める。コツは掴めてきた。


「したことがないから、ずっとずっと憧れていてね。いいえ、花火自体あまり楽しんだ記憶がないかもしれない。まだとても小さい子供のころに数回程度、かしら」

「うん」


 また、取り敢えず相槌だ。

 花火は勢いを衰えさせず散り続ける。


「花火って、幸福の象徴だと思わない? 幼い子供がお父さんに肩車をしてもらって、大輪を眺めながら温もりを感じるの。あるいは心を許した誰かとロウソクを灯して、暗闇で肩を並べながら笑い合ったり、ふざけ合ったり。ありふれているはずの愛おしい夏の遊び」

「うん」

「中でも線香花火は特別だわ。言葉を交わさなくとも離れてしまわない人としか楽しめないんだもの。じっと黙って隣り合って、静かに静かに炎の最期を看取るの」


 橙色はゆっくり弱弱しくなり、舞い落ちるかえでは小ぶりになる。


「僕にその役目が務まるならいつでも付き合いま――」


 ぽとり、とシノ火の玉が落ちた。


「あ。落ちちゃった」

「落ちたね。あっ」


 僕の火の玉も続けざまに地面へと吸い込まれて色を失う。

 あまりにあっけない最期に、二人で顔を見合わせる。


「次いきましょう。今度は私が勝つんだから」

「えー、いつから勝負になったの?」

「今! 今ここから勝負よ。先に玉を落としたら負け。絶対勝ってみせるんだから」


 シノは袋から新しい線香花火を取り出し、僕に渡した。

 闇の中で、ロウソクに照らされた顔が月のように輝き、僕に向けられている。


「楽しそうだね」

「楽しいわ。だってユイと一緒なんだもの。楽しくて幸せで、叫んでしまいそう」

「叫ぶのはやめて欲しいなぁ。見つかるから」


 仄明るく照らされた美しい顔は、目を細めて笑う。

 二人同時に花火に火をつけると、シノはしっとりと話し始めた。


「ユイは高校を卒業したらどうするつもり?」

「就職、かな。大学には興味ないし、行けるわけがないし。さっさと働いてお金を貯めて、一人で暮らそうって昔から考えてる」


 もしくは大山だいせんの樹海で首を吊るか。


「今も一人暮らしみたいなものじゃない」

「違うよ。今の僕は生活費も住処も他人から与えられて甘えている。甘んじている。自立したいんだ。自分の足で立って歩きたい。どんなに荒れた獣道けものみちが待っていようと、ね」


 弾けては散る橙色。

 幻想的で雅な色合いは、二組の双眸そうぼうを釘付けにしていた。


「獣道を歩くのなら、――杖はいらないかしら」

「杖?」

「足を挫いた時や、険しい坂道を登るときに体重を預けられるもの。一本あると便利な棒切れよ」

「すぐに折ってしまいそうだなぁ。僕は平坦な道を進めないだろうから」

「折れたら捨ててしまえばいいわ。ユイなら次の杖をすぐに見つけられるでしょうしね。折れてしまうまでの間、利用するの」

「使い捨ての消耗品なら、代替物がいくらでもある、ってこと?」

「ええ。悲しくともそれが真実だわ。いつか捨てられる運命だとしても、ユイが杖を必要としてくれるのならあなたに尽くしてあげる。毎日掃除して洗濯して食事を作って、仕事の愚痴だって親身に聞くわ。望むのなら肉体的な関係を結ぶのだっていとわない。好きなように扱ってぼろぼろになるまで扱き使うのよ。折れてしまう最期の時まで」

「シノはそれで幸せなの? あ」


 ぽろり、と僕の玉が先に落ちた。

 残念、勝負に負けてしまった。


「私の勝ちね」

「負けたぁー。結構悔しいなぁ、これ」


 落葉の続くシノの線香花火も間もなくして落ちた。

 微かに風が吹き、ロウソクの火を揺らす。


 今日は月が出ているだろうか。


 僕をじっと見るシノの穏やかな顔が、ロウソクに照らされて揺らぐ。


「私ね、私、ユイの“物”になりたいの。ユイの所有物に」

「僕の、物?」


 一人の人間としてでもなく、少女としてでもなく、女としてでもなく、物になりたい。

 さしずめ性欲処理用のラブドールや、家事を担うお手伝いロボットといったことろか。


 感情も意思もない、僕だけを見る、僕だけの“物”。

 想像して、高揚感を連れた悪寒に身体が震える。

 また熱がぶり返しそうだ。


「勝負に勝った私の望みを、叶えてくれないかしら」


 仄明ほのあかるいロウソクの火は、僕たちを照らし続ける。

 シノの強気な瞳が柔らかい光沢を帯び、宝石のように煌めいていた。


 あんなに嫌だったのに。


 仕方なく連れ帰った少女は、いつの間にか存在を肥大化させ日常に溶け込んでしまった。

 シノには敵わない。

 これからもずっと死が訪れるまで。


「シノが望むのなら、シノが願うのなら、僕は杖が欲しい。ずっと僕を見てくれる杖が欲しい。僕だけのものが欲しい。……何度折れても修復して、ばらばらになるまで扱き使うから、覚悟してよ?」


 くすくすとシノが笑う。


「ありがとう。そうと決まったら、もうこれは要らないわね」


 そう言ってスカートのポケットから取り出したのは携帯電話だ。


「見て」


 起動して明るくなった待ち受け画面を僕に向ける。

 画面を覗くとシノは楽しそうに口角を上げた。


「着信が二千件を超えているの。一昨日から急にかかり始めて三日でこの有り様。電源を切るか、マナーモードにしておくかしないとうるさくて大変」


 指先が受話器のマークを叩く。

 表示された着信履歴をスクロールすると、ほとんどが“お兄ちゃん”なる人物からの着信だった。

 五十件に一度の割合でお父さんが混じり、またすぐお兄ちゃんの大群が画面を埋め尽くす。


「帰らなくて大丈夫なの?」

「帰らないつもりで飛び出したんだもの。もう知らないわ」


 着信履歴の画面が閉じられると、携帯電話がぶるぶると震えた。


「こっちも見せてあげる」


 素早くシノの指が動き、携帯電話を操作する。

 すると今度はお兄ちゃんからのメッセージが表示された。


「うわ……」


 届いたばかりの新着メッセージは、一言『ぶっ殺してやる』と書かれていた。


 シノの指が画面をゆっくりスクロールする。

 下方から現れる他のメッセージも、殺す、死ね、ふざけるな、クソ女が、ただで済むと思うなアバズレ、などの罵詈雑言ばりぞうごんで構成されている。


「怖いでしょう? これ全部、お兄ちゃんからなの」

「随分物騒なお兄さんだね」

「そうね。……顔中にピアスを開けて、刺青いれずみだらけで、乱暴で、薬漬けで、何もできない男の人」

「ほ、本当に帰らなくても大丈夫なの?」


 ぶっ殺す、は犯罪予告並みの脅迫だ。


「私はユイの杖になるんだもの。永遠に帰らないわ」


 シノは携帯電話を持ったまま、右手をバケツの上に移動する。


「えい」


 ぼちゃん。


 手から離れた携帯電話は水の中へと吸い込まれていった。

 驚き過ぎて、言葉が出てこない。


 何度かバケツから光の点滅が溢れ、無音の断末魔だんまつまをあげる。

 しばらくすると明かりは完全に消え、再びロウソクだけが僕達を照らしていた。


「これで繋がりは無くなったわ。さ、花火の続きをしてしまいましょう?」


 笑顔のまま、シノは次の線香花火を取り出す。


「……そう、だね」


 笑顔を返すと、シノはとても嬉しそうに目を伏せた。

 それから、渡された線香花火に二人で同時に火をつける。

 はらはらと落ちるかえでは、より一層鮮やかさをまとい、無言の隙間に散っていく。


 なんてみやびな遊びだろうか。

 あの二人がいつか見る大輪よりもずっと優雅で扇情的で、なまめかしい。


 僕だけを見てくれる人が隣にいて、僕とだけ共有する記憶を作っているのだ。

 これ以上の幸いは願うべきではないだろう。

 ダメだと分かっているのに、この瞬間が愛おしい。


 こうして、夜はゆったりと更けていくのだった。

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