第3章 スタチューフィリア

スタチューフィリア 3-1




 翌朝。午前八時過ぎ。

 僕はシノに揺り起こされた。

 まだぼんやりする頭を押さえて顔を上げると、体温計を渡される。

 水銀式の古びた体温計だ。


 微熱だから、と一度断ったがシノは一歩も引き下がらず、結局体温を測るに至る。

 五分後、水銀は何と三十八度九分まで上昇していた。

 予想外の高熱に、頭を抱えたシノから「馬鹿じゃないの」と何故か貶されてしまう。


 幸いにも、今日も明日も休日だ。

 二日の間に治してしまえば、学業に差し支えない。

 行ける行ける、楽勝楽勝。


 へらへら笑っているとタオルケットを取り上げられた。

 床で寝ていた僕は、強制的にベッドに寝かされた上、絶対安静を指示される。

 ブランチに近い時間におじやをいただいて、朝からほぼ拘束状態だ。


 昨日の夕食で余ったらしい、スズキの身がほぐして混ぜられているおじや。

 病める身体には塩加減がちょうどよく、ぺろりと平らげてしまった。


 食欲があるのだから大丈夫だとシノも判断してくれたのだろう。

 口うるささは時間の経過と共に減り、指示も無くなっていく。

 ベッド上の拘束は解いてもらえなかったけれど。


 そして昼過ぎに、買ってきてもらった市販の風邪薬を飲む。

 静かに横たわっている僕と、学生カバンから教科書を出して勉強するシノ。

 いつもは台所のテーブルで勉強していると言うので、今日から僕の勉強机の使用許可を出した。


 平日には見られない姿が新鮮で、横になったままじっと観察する。

 面白い。


 土曜日曜と、おじやをはじめとする身体に優しいものを摂取し続ける生活を送った。次第に僕の体温は正常な値へ戻り、月曜を迎える。


 日曜なんて、学校から帰ってすぐに、シノは温かいうどんを作ってくれたのだ。

 学業で疲れているだろうに、甲斐甲斐しく世話を焼いて疲れを見せない。

 それに二日間、我慢して僕と同じものを一緒に食べてくれた。

 きっとシノはいい奥さんになれるだろう。


 日曜の夜に食べたうどんは、インスタントのものとは比べ物にならないくらい深い味がした。

 見た目は何の変哲もないのに、だ。

 だしから取ったつゆに艶のある乳白色のうどんと薬味が浸かっているだけなのに。

 インスタントだって僕が作れば似た見た目になるだろう。


 しかし、かつお節や昆布でとった、薄味ながらもうまみの効いたつゆは、僕の知らない未知の味だ。

 食べたことがない、とカップ麺と比較して褒めた僕に、シノはあきれながら「ありがとう」と微笑む。


 結論として、熱を下げたのは風邪薬ではなく、シノが作ってくれた料理の数々だった。月曜の朝には、もう一日休養するべきだと心配しつつも弁当を作ってくれた。

 あまりに心配するので「平気平気。もう全快で、元気いっぱいだよ」と笑っておく。


 その朝の食事は、おじややうどんではなく、純和食の献立だった。

 ご飯にかきたま汁。

 温野菜の添えられたますの塩焼き。

 オクラの和え物と、かぼちゃの煮物。


 気遣いの表れたそれらに、わずかに残っていた倦怠感も吹き飛ぶ。

 今日こそ、弁当の中身を覚えていよう。

 ちゃんとどれが美味しかったか、シノに教えよう。

 これだけ清々しい気分でいられるのだ。夢遊むゆう病も起きるはずがない。


 心配するシノに見送られ、僕は離れを出た。



*****



「あのへんってさ、春先に不審者が出なかったっけ? ニュース見たような気がする」

「マジで? じゃあ犯人そいつ?」

「知ってる知ってる! 金髪で、顔中にピアスしてる男だろ? 夜中に奇声を上げながら走り回ってるっていう」

「俺が聞いたのは、金髪のピアス男が女子高生をいきなり突き飛ばしたって話だ。目つきがヤバかったらしいぜ」

「うわ、怖いなそれ。怪しすぎ!」

「いやでも、人間が犯人だと説明がつかない火事もあるし……」


 僕が学校へ到着すると、同級生たちはまたあの話題で盛り上がっていた。

 金曜の夜、富灘町で八件目の火災が発生していたらしい。


 今回は規模が小さく、燃えたのはゴミ捨て場のゴミ袋だそうだ。

 赤く燃えるごみ袋を巡回していたお巡りさんが発見。

 その場で消火された。


 誰かが火をつけて燃やしたのか、はたまた祟りなのか。

 朝のホームルームが終わってもそんな議論が続く。


「じゃーん! るったん登場!」


 いい加減うんざりしていたところで、例のカップルに机を囲まれるのだった。

 余計うんざりだよ、くそ。


「見て見てゆーゆー!」


 ルカは胸の前で目に優しくない色合いの雑誌を掲げる。


「この中のどれがるったんに似合うと思う? るったんの可愛さが一億倍になっちゃうのを選んで!」


 僕の机に、ばんっと広げられたのは女性向けのファッション誌。

 金髪でメイクの濃いモデルが何人もポーズをとっているページだ。


 全員が派手な浴衣を着て、同じような笑みを浮かべている。

 暈のする不気味さだった。


「浴衣を僕に? シュンに聞けば?」


 目の前にいるだろ、彼氏が。


「えぇー! だってだって言いだしっぺはゆーゆーだよ? ゆーゆーが今年の夏は二人で浴衣デートしたら? って言ったからるったん雑誌まで買ったんだよ?」

「僕が?」


 覚えが……ああそうか。


「そう、ゆーゆーが! まさか忘れちゃったの? ゆーゆーったらもう認知症?」

「いや。そうだった。今思い出したよ。だけどさ、デートする当人たちで決めたら? 僕よりシュンの意見を優先すべきだと思うんだけど」


 シュンは苦笑いをしながら頭を掻く。


「俺、この類は違いが分からないんだよ。別にどれも変じゃないって言ったんだがな……」

「そうなの! しゅーたんね、るったんならどの浴衣も可憐に着こなしちゃうから、決められないんだって! だーかーらっ! ゆーゆーに決定権譲渡じょうとなの!」

「頑張れユイ」

「あーもう、二人揃って……」


 僕が言いだしたとしても、どうしてこっちに振るんだ。

 僕だってファッションには明るくないのに。


 いや、それ以前に僕はデートに同行しないし、浴衣姿も直接見ないし。

 しかし二つの目玉焼きはぎらぎらと輝き、僕を逃がさない。


 唐突に、離れに帰りたくなった。


「それならこの赤いのは? ルカは派手なの好きだし似合うんじゃないの?」


 腹をくくって、笑うモデルを指す。

 鮮血のような深紅の布地に、白い彼岸花ひがんばなが咲き誇る浴衣。

 モデルの髪色がルカの髪色と近いので、悪くない気がするのだが……。


「えー、るったんお墓の花より薔薇が好きだなぁー」


 知るか。


「じゃあこれは? 薔薇でしょ、多分」


 一瞬で却下されてしまったので次を指す。

 白地に青や水色の薔薇が散らされた浴衣だ。


「えー、色が子供っぽくない? るったんは大人なんだよ? 立派なレディなんだよ? もっと大人の色香漂う感じの柄にしてよぉ」


 中身はまだ三歳児みたいな奴が、よくもまあいけしゃあしゃあと。


「はいはいさようでございますか。なら、この紫色のは?」


 面倒臭くなってきた。

 次に指したのは、モノクロのストライプ柄に、様々な大輪の花がひしめき合うもの。いかにも若くて、ルカみたいな女の子が好きそうな派手な柄だ。


「うーん、これぇ? ねーねーしゅーたんどう? これるったんに似合うかな? フェロモンむんむんになっちゃうかな?」


 首を傾げてシュンを見上げ、舌足らずな声で甘えてみせる。


「んー、ま、似合うんじゃね? いけるいける」

「きゃー! しゅーたんがイケるならるったんもイっちゃう! これに決まりだね! ゆーゆーさんきゅーっ!」

「どうも」


 結局最終決定権はシュンにあるじゃないか。

 僕を構ってどうしたいんだよ。

 僕はルカと関わりたくないのに。話すだけでも調子が狂うんだ。


「これで今年の夏もばっちり完璧だね!」

「へえ」


 ファッション誌は閉じられ、ルカの手に戻った。


「ゆーゆーあのねぇ、るったんとしゅーたんはいっぱいいっぱい花火大会デートの予定を立てたのだ! 境港さかいみなとのお祭りと、米子よなごのお祭りと、ちょっと遠出して島根の松江まつえのお祭りも! どうどう? 羨ましい? るったんとしゅーたんはラブラブデートを三回もするんだよ! ねぇねぇ羨ましい!?」

「さぁ。どうだろうね」

「ややや! もしかして、るったんたちが花火を見ながらちゅーしてる間、ゆーゆーはお勉強タイムなのかな? もぉー、ゆーゆーってばガリ勉?」


 ルカは勝手な妄想に声を出して笑う。

 不愉快だが本当にそうなりそうだな、とため息をついた。


 花火大会なんて一度も行ったことがない。

 宮脇の家に引き取られた後、むなしくとどろく破裂音だけを耳にすることはあった。

 わざわざ会場で花火を見たいとも思わないし、破裂音を気に留めた夏はない。

 人混みに揉まれてクタクタになるくらいなら、寝床のある場所で休息を取りたい派だ。

 季節行事に興味がないので、毎年話を小耳に挟むだけでお腹いっぱいになってしまう。


「今から楽しそうで本当、おめでたいよねルカって」

「でしょでしょぉー? るったんのこともっと褒めて褒めて! 花火ってロマンティックだし、豪華だし、綺麗だし、るったんにピッタリでしょ?」

「ルカの前じゃ、花火もくらむけどな」


 突然、シュンが火に油を注いだ。


「やーん! しゅーたんったら男前! 二枚目! イケメン! ますます恋が燃え上がっちゃう! しゅーたんがるったんをいっぱいいっぱい好きでいてくれると、その分ラヴパワーでるったんは綺麗になっちゃうのだ! もしかしたら、もっともぉっとおっぱいが大きくなるかも! これ以上膨らんだら、しゅーたん花火よりもめらめらだよね! るったんの魅力マシマシ!」


 飛び跳ねて胸を揺らしながらシュンに抱き着く。

 抱き着かれたシュンは「よしよし」と彼女の頭を撫でて笑った。

 今日も見せつけてくれてありがとうございます。


「花火大会っていつあるの? 夏休み?」


 素朴な疑問をシュンにぶつけた。


「んーと、そうだな。休み中だ。境港が一番で、米子、松江の順に開催予定なんだと。今年の夏は交通費がエグイことになりそうだよ」

「頑張れ」

「同情より金が欲しい」

「残念だけど、僕も金欠でね」

「だと思ったよ。お前も行く相手捕まえれば? 日程を聞くくらいには興味あるんだろ?」

「いや別に? 音だけ聞いて楽しむよ。課題も出るだろうし、人混みは苦手だし」

「またまたぁ、行きたいくせに」


 ルカを抱いたままシュンはにやつく。

 面倒臭くなってきた会話はチャイムで中断された。

 タイミングの良さに心の中で喜びつつ、教室を出ていくルカをせせら笑う。

 暫くは抱き着けまい。

 残念だったね。


 さあ、今日も授業が始まる。

 お弁当の中身は早々にチェック済みである。


 メモ帳によると、ごはんはゆかりごはん。

 ささみの大葉チーズフライ。

 玉ねぎ入りたまご焼き。

 たこさんウインナー。

 にんじんとピーマンの炒め物。


 美味しそうだ。

 昼休憩まで、耐えなければ。

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