ゼロフィリア 2-9




 変わらない車窓しゃそうの風景。

 学生の波。


 押しボタン式のドアを開け、汽車から降りると、急速に身体が熱を帯び始めた。

 意識が上空へ舞い上がり、足元がおぼつかない。

 違和感に侵されたまま、校門をくぐり教室へ入る。


 七月の蒸した暑さに、体温が一層高く感じられた。

 体外も体内もじわじわと熱で焼かれていく。

 次第に視界にノイズが混じっていった。


 朝のホームルームを終え、一時限目の科目の教科書を机の上に並べる。

 チャイムが鳴り、授業が始まろうとしていた。

 席に座ったまま、喋る女子生徒の声がハウリングを連れて頭の中で反響する。


 朝、シノと一緒に朝食をっていた時には何ともなかったのに。

 身体が熱く、意識が遠のいていく。

 まるで身体の中で炎がくすぶっているかのような熱。

 もうすぐ炎は僕を飲み込み、意識も身体も灰にしてしまうのだ。


 熱くてたまらないのに、汗は出ない。

 寒気すら感じるおぞましい炎に、身体の自由を奪われて倒れてしまいそうだった。

 窓の外には、鮮やかな青色に入道雲が浮かんでいる。

 盛夏を告げるような白色の入道雲に、眩い太陽。


 今頃、シノも離れからこの景色を見上げて――



「ゆーゆーばいばーい! ありがとねぇー!」



 ルカの甘えた声に、はっとする。

 廊下に立つ僕は、腕組みしたシュンとルカに笑顔で手を振っていた。

 密着した二人は、背を向けて廊下の先へ消えていく。

 その廊下は生徒で溢れ、皆がカバンを提げて階段へ吸い込まれていった。


「あ、れ……?」


 さっき一時限目が始まろうとしていたはずなのに。

 慌てて教室の自分の机へと戻る。

 広げていた教科書は机上にない。

 黒板にも授業の内容は書かれていない。


 顔を上げ、時刻を確認する。

 黒板上に掛けられたアナログ時計は四時過ぎを指していた。


 午前、じゃないよね。まさか、午後?

 机の引き出しに手を突っ込んで中を漁ると、数学のノートが出てくる。

 後ろからめくって、最新の記述があるページを睨んだ。


「あーもー、またかぁ」


 習った記憶のない、解いた記憶もない数式が、丁寧に書き込まれている。

 記憶は手放しても、昼間の僕はノートを取っていたらしい。


 久々に昼間に記憶が飛んだ。

 今日一日、僕は一体どう過ごしていたのだろう。

 同級生達にどう接していたのだろう。

 授業中当てられて、どう答えたのだろう。


 何よりどうしてさっき、ルカとシュンに手を振っていたのか。

 ありがとうとは。


 思い出せない。


 そうだシノが作ってくれた弁当はどうなったのだろうか。

 イスに座って、自然な動作を心掛けつつカバンから弁当箱を取り出した。


「軽い、ってもしかして」


 青色のモダンな手ぬぐいをほどいてふたを開ける。

 中身は見事に空っぽ。米粒一つすら残っていない。

 昨日はメモ帳が入っていた。今日も、もしかして、と探る。

 するとすぐに見つかった青色のメモ帳にはこう書かれていた。


 そぼろごはん。

 スコッチエッグ。

 キャベツとベーコン炒め。

 にんじんのラペ。

 かぼちゃサラダ。


 参ったな。覚えてないのに。

 読み終えて、弁当箱を元通りにしまう。

 一切覚えていない。どれも食べた記憶がない。

 これでは感想も質問も無理だ。


 どうしよう、怒られる。シノを悲しませてしまう。

 そう思った瞬間、身体中を悪寒が駆け巡った。

 極寒の震えは思考まで瞬く間に奪っていく。

 寒くてたまらないのに、頭の中だけが熱い。

 まるでそこだけ火を燃やされているような恐ろしい熱に苛まれ、また意識が――



『次は、夜浜よはま駅、夜浜駅』



 車内アナウンスに覚醒を促され、車窓に目を凝らす。

 かたんかたん、と身体が揺れ、景色が過ぎていく。

 見知った景色が赤紫色に染まっていた。


 今度はいつのまにか、汽車に乗っているらしい。

 僕が立っているのはちょうど一両目の中ごろだ。

 車内は混雑している。

 恐らく座れずに立ったまま揺られていたのだろう。

 カバンを肩に掛けたまま、一人ぼうっとしていた。


 汽車は駅に近づき、徐々にブレーキをかける。

 金属の擦れ合う騒音と、停車の反動で、僕は完全に我に返った。


 降りなければ。

 ここは最寄りの夜浜駅だ。


 誰かが押しボタン式のドアを開ける音がした。

 移動する学生の波に混じりながら、車掌に定期券を見せて下車する。

 悪寒と頭の中の炎は相変わらずだ。

 学生たちは次々と自転車に乗って帰っていく。

 彼らをぼやけた視界に捉えながら、ゆっくり駅舎を離れた。


 空の紫色の様子と、学生の乗車具合から、いつも利用している時刻の汽車に乗ったのだろうと推測した。

 時折、視界に強くもやがかかっては、元に戻り、またもやが、を繰り返す。


 いつ僕が僕でなくなるか、予測がつかない。

 せめてシノの前で粗相をしませんように。


 重くなっていく身体を引き摺り、住宅地を進んだ。

 ゆらゆら揺れながら裏口に辿り着き、かんぬき錠を外す。

 暗い森を潜り抜けて明かりのつく離れのドアに手を伸ばした。



*****



 今日は本当に絶不調だ。

 毒づいたのは、夜の十一時を少し過ぎた頃。


 離れの玄関を開けたところまでは覚えている。

 玄関から一歩足を踏み入れたところで記憶は途絶え、今までを覚えてないかった。

 シノとどんな会話をしたのか、夕食が何だったのか。

 そもそも夕食を食べたのかさえ定かではない。


 現在僕は一人で洋室に突っ立っており、目の前の時計が先程の時刻を指している。

 シノは風呂に入っているのか、台所にいるのか。現在時刻は夜の十一時。

 多分、風呂にいるのだ。間違いない。


 僕の格好は上下ジャージの就寝仕様。

 髪はしっとりと濡れ、風呂に入った後らしいことは理解した。

 明日は土曜日だからまだ課題の心配はしなくても平気だ。

 未だ燃え盛る炎に、眩んだ思考を働かせる。

 今しなければならない行動を模索し、導き出さなければ。


 部屋には僕一人。

 時刻は深夜一歩手前。

 さて、すべきことは……。


「あー、そうだ。シノに声をかけないと」


 思考の末に、昨晩の約束に行きつく。

 ふわふわと揺れる床を踏んで、廊下に出ると、反対側の風呂場から明かりが漏れていた。


 一時間経ったら声を掛けるんだった。……一時間経ってるかな、経ってるよね。

 もう十一時だし。


 これまでシノは九時過ぎには入浴していた。

 十分身体を洗えているはずだし、湯船も満喫した頃だろう。

 念のためノックしてから脱衣所へ入る。


「シノ」


 脱衣所で、霞んだガラス越しに名前を呼んだ。

 ちゃぷん、と水の揺らぐ音がして、肌色が動く。


「もう時間?」

「うん。約束の一時間は経ってるよ」


 憶測でものを言っているけれど。


「そう。分かったわ、今出るわね。ありがとう、約束を守ってくれて」

「感謝されるようなことじゃないよ」

「私にとっては感謝に値する事柄なの。――ねえ、ユイ」


 もしかしたら、熱があるんじゃないか。頭の中の炎も消える兆候はない。燃え盛って僕の芯を溶かし尽くす勢いだ。

 体調を崩すと記憶も飛びやすい。その事実はこれまでの経験で痛いくらい思い知っていた。


「うん」

「私の……いいえ、ユイが呼んでくれたんだから、綺麗になったわよね」

「そうだね。シノは汚くなんてないよ」


 くすり、と笑い声が反響する。

 今日は少し質問が変わった。ここは変化を喜んでおこう。


「先に寝ていて。疲れているでしょう? 一週間お疲れさま」

「うん。じゃあ」


 任務を完遂かんすいし、脱衣所を出た。

 三度目となると、畳んで置いてある衣服にも慣れる。

 今日はお言葉に甘えて、先に眠るとしよう。

 どうも体調がすぐれないし、意識が保てない。


 部屋に戻り、ベッドに背を預けて座った。

 タオルケットをぐるりと身体に巻き付けて目を閉じる。

 部屋の明かりはつけたままだ。

 眠ってしまえば、意識も記憶も関係ない。


 また、知らない街に一人なんてことにならないと嬉しいけど。



「――イ! ユイ!」



 燃え盛る炎が皮膚を焼き、肉をただれさせる。

 痛い。

 熱い。

 冷たい。

 怖い。

 四肢を焼き、胴に迫る炎は容赦なく僕を包んだ。



「ユイ! ねえ、どうしたの!? ねえ!」



 業火。

 煉獄。

 紅蓮。

 セクメトの息。

 喘ぐような苦しみの中で、少女の声が漂う。

 息が、出来ない。



「ユイ!」


 ふいに火炎が掻き消え、声の主の姿が目に映った。


「……シ、ノ? あ、れ?」


 シノは長袖の青色のパジャマを身に着け、僕を心配そうに見ている。


「私が分かる?」


 袖を掴まれながら一度、首を縦に振った。

 喉がひゅうひゅうと悲鳴を上げ、息苦しい。

 全力疾走後のようだ。


 夜闇の中、静寂が息の上がった僕を侵していた。

 息苦しさに取り残された僕は、正常な呼吸を取り戻そうと精一杯空気を取り込み続けた。


「よかったぁ……」


 シノは安堵に息を吐き、胸を押さえる。

 怯えとは違う、恐怖と不安の入り混じった表情で僕を見ていた。

 初めて見る顔だ。


「ここって、裏口の……?」


 ゆっくりと整ってきた呼吸の合間に言葉を紡ぐ。

 振り返ると見知った漆喰しっくいの塀に、裏口がぽっかりと口を開けていた。


 今日は月が見えない。


 ぐるりと辺りを見渡す。

 どうやら意識のないうちに屋外に出てしまったらしい。


「そうよ。あなた、夜中にいきなりぶつぶつ言いだして外へ出ていってしまったの。びっくりしたんだから」


 遠くに行くまでに引き留めてもらえたのか。

 今回は珍しく着替えずに離れを出てしまったようだ。

 ジャージ姿の上、裸足で徘徊はいかいするとただの不審者でしかない。

 ここで目を覚まし、我に返れたのは不幸中の幸いだろう。

 しかし、シノの言葉が引っ掛かる。


「ぶつぶつ、って僕が?」


 まったく記憶にない。


「覚えていないのね。寝ぼけていたの?」

「うーん。そうじゃないかな?」

「裏口をくぐったら急に静かになって、空をじっと見上げて微動だにしないの。何度も何度も名前を呼んで身体を揺すったのに、私を見てくれなかった」


 困ったなぁ。シノを驚かせてしまった。

 意識のない間、僕は誰に乗っ取られて操作されていたのか。

 改めて今、わずかに背筋が凍る。


「僕が……」


 ぼんやりしたまま呟くと、シノが続けた。


「ユイね、私が来た日からずっと、朝の五時になると突然立ち上がって一人でぶつぶつ唱えているのよ。内容は聞き取れないけれど、お坊さんの念仏みたいに、延々と」


 初耳だ。


「あ、悪夢を見ていたのかな。ほら、僕朝起きるの苦手だし寝ぼけてたんだよ」


 はぐらかしを開始した僕の額に白い手のひらが伸びる。

 小さな手のひらは僕の額を優しく包んだ。

 冷たくて心地良い。


「やっぱり。この熱さ、絶対熱があるわ。もしかして熱の菌が悪さをしたんじゃない? 一度病院に行くべきよ。頭に菌が回ると命に関わるもの」

「えぇー、病院は大袈裟だよ。あるとしても微熱だろうし、平気平気」


 笑ってごまかす僕に「でも!」とシノは引き下がらなかった。


 病院なんて、まだ幼い子供だった時代に一度行ったきりだ。

 あの一度以来、白衣の人間とは繋がりの途絶えた生活が続いている。


 僕を引き取った人々は総じて、医療やそれに近しい存在から、幼い僕を引き離した。そもそも保険証があるのかも怪しい。

 関わりが少なかったため、成長した今ですら、病院は縁遠い未知の領域の存在だと思っている。


 病院には行かせるな、と言われたことは星の数ほどある。

 しかし、病院へ行くべきだと言われたのは初めてだ。


「夜中に出歩くのはよくある事なんだ。気にしないで。公園でシノと会ったあの夜も、直前まで夢遊病みたいに彷徨っていてさ。帰り道が分からなくてシノに助けを求めたんだよね。本当に日常茶飯事なんだ、こういうのって」


 話すつもりのなかった台詞が溢れていく。


「よくあるなんて益々おかしいわ!」


 シノは一向に引き下がらない。手強い相手だ。


「だからね」

「怖かったの! すごく怖かったの。ユイがユイでないみたいで、私の知らない人みたいで恐ろしかったの。帰ってきてからいつもより饒舌で明るくて変だと思っていたけれど、こんな……」

「大丈夫だから。戻ろう?」


 僕が僕でないみたいで怖かった。

 じゃあ、一体僕とは何者なのだろう。

 ユイと名のついた少年はどんな生物なのだろう。

 当人である僕ですら到達しえない領域に、シノが足を踏み入れられるとでも?


 分かったような口を利くな。傲慢だよ、シノ。

 君は僕の、重要な部分を一欠片すら知らないじゃないか。

 きっと、僕が知らないシノだっているだろう。

 その点については踏み込まないし、荒らさないし、根掘り葉掘り聞くつもりもない。

 だから僕からも、僕の情報を教えるつもりはないんだ。

 面倒だしさ。


「……心配しているのだけは理解して」

「ごめん。夜中に起こした挙句、心配させて。心の底から申し訳ないと思ってる。でもあまり聞かないでほしいんだ。自分でも分からないことは、答えられないから」


 シノは静かに頷いた。もう、でも、とは言わなかった。

 二人で無言のまま裏口をくぐり、離れへ。


 再びシノが安らかな眠りに誘われますように。

 俯きながら考えて、わらった。

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