ゼロフィリア 2-8
花の金曜日。午前六時過ぎ。
シノを離れに招いてから三度目の朝が来た。
数えてみて、改めてまだ三日なのかと驚く。
がらりと変化した日常は、シノがもたらしてくれたものだ。
変わり過ぎて目を回しつつも、楽しんでいる自分がいる。
今朝も身支度を終えて台所へ行くと、ポニーテールのシノが朝食をこしらえていた。
「私が食べたかったの。朝からこんなものは嫌かしら」
出所不明の花柄の皿。
青色の
「これ、甘いの?」
未知との
鼻を近づけてみると、わずかに甘い香りがした。
「座ったら説明してあげる」
「助かります」
クエスチョンマークまみれのまま、イスに掛けた。
お菓子みたいな甘い匂いのする立方体。
クレープとは違うし、この前のオープンサンドとも違う。
うーん。分からない。
「黄色の四角の食べ物、知らないでしょう?」
「はい、まったく」
僕の無知にも慣れたらしく、シノはため息を吐かなかった。
「フレンチトーストっていうのよ。食パンを卵や牛乳や砂糖で作った液に浸して焼くの。昨日から準備していたから味は悪くないと思うけれど……確かめてくれない?」
「謹んで味見させて頂きます」
フレンチトーストなるものの乗った皿に加え、今日はコーヒー代わりにスープもついていた。
乳白色に、緑色が溶け込んだ不思議な色のスープだ。
「シノ、こっちの緑色は?」
「あら、ごめんなさい。説明が足りなかったわね。それは枝豆の冷製スープ。夏にはおあつらえ向きだと思って」
「ほー、枝豆かぁ」
酒の
枝豆も侮れない。
朝から甘いもの。そして冷たいスープ。ハズレの予感はしない。
願わくば、毒見になりませんように。
「では。いただきます」
わくわくしながら手を合わせて、フォークとナイフを取った。
食パンを加工したものだから、ふわっとした感触なのだろう、と想像する。
しかし、ナイフを入れてみると意外に弾力があり緩いゼリーのようだった。
他にもうひとつ例を挙げるとすれば、プリンか適当かな。
驚きつつ一口大に切り分け、口に運ぶ。
味について一言で述べるのなら、甘い、だ。
とろとろになるまで砂糖を含んだ液を吸い込んだパンは、強烈な甘味を残して崩れていく。
女の子が好きそうな味と食感に、シノが好むのも当然かな、と頷けた。
もったりとした甘さと粘度に、脳の覚醒が促されているのだろう。
舌ですり潰して崩すと、じんわりと濃い甘みが広がり、眠気が吹き飛んでいった。
「シノが好きになる気持ちは何となく分かるよ。これ系って女の子好きでしょ?」
「ふ、普通のトーストの方がよかったかしら……」
動揺にシノの目が泳ぐ。
はい、地雷踏みましたー。
「違う違う。嫌いとか気に入らないとかじゃないよ。フレンチトーストはフレンチトーストで美味しいから。ただ、食べたくて作ったっていうシノの言葉に同意しただけ」
「そ、そう。不味く、ない?」
「不味くないよ。美味しい」
淡い笑顔に胸を撫で下ろし、再び二人で食卓に向かう。
黄色の山を切り崩し、時々、サラダやウインナーにもフォークを伸ばした。
ナイフとフォークの作法を身につけておいて正解だった。
まさか、こんな場面で役に立つとは考えもしなかったけれど。
汚い食べ方ってそれだけで不味く見えるし、シノにため息を吐かれてしまいそうだ。
「ねぇ、シノ。ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
七割ほど朝食がなくなった頃、僕はシノに尋ねる。
「あら、何かしら。答えられる範囲で答えるわ」
シノの皿も四割はなくなっている。
二人でフォークを止め、視線が交錯した。
「シノってさ、学校行ってないの? いつも制服みたいな格好なのに、初対面の時も学校の話をしていなかったし」
ずっと不思議でならなかった。
中学卒業後、進学せず、そのまま社会人となる人がいるのは知っている。
個人の選択に茶々を入れるつもりも、
ただ、シノはいつも長袖のブラウスにプリーツスカートの、見たことの無い制服を身に着けている。
外見からはどこの学校に属しているかは見当がつかない。
でも、
毎日僕を見送って後片付けをしたその後、どう過ごしているのだろう。
学校に行った形跡はない。
いや、僕が知らないだけか?
「言っていなかったかしら」
「うん。全然聞いてないです」
短いながら一緒に暮らしておいて重要な情報を共有していない。
お互いの悪い部分だ。
「私も学生よ。高校一年生」
「え? いつ、学校に行ってるの?」
「週に一度、日曜に授業があるの」
「……日曜?」
ええと、それって?
「厳密にいうとスクリーニング。
「あるような、ないような、ないような、あるような、知らないような」
「はっきりしなさい」
「すみません。頭の中から消えてます」
受験時には覚えていたような、教師から勧められたような。
勧められていないような。
うん。忘れた。
「ここから汽車に乗って終着駅で電車に乗り換えて、更に進んだところにある町の学校よ。通信制と定時制だけの小さな学校。私は通信制の生徒なの」
「週一回で卒業可能なんだ」
「毎週しっかり課題は出るけれどね」
「ふうん。へえぇ。勉強になるよ」
どうやら僕の記憶からはすっかり消えてしまったが、様々な形態の学校が存在しているらしい。
「ユイがいない間に、課題も済ませていたの。静かな環境を与えてもらったから、お蔭さまで
ほう。シノは家事をこなす傍ら、課題も片付けていたわけだ。
通信制も定時制も、教師から選択を持ちかけられたような……。
昔の記憶過ぎて思い出せない。
僕に高校の選択権はなく、進学先は宮脇のおじさんが独断で決定した。
僕はおじさんの指示に従い、強制的に
当時、試験直前まで、ただひたすら偏差値を合格ラインへ押し上げることだけに集中していた。高校の選択肢がどれくらいあって、どんな選択が出来たのかは、ほとんど知らない。
高校には行け、と命じられて高校生になった。
ただそれだけだ。
「いつも着てるそれは制服?」
日曜日しか授業がないのに平日も制服を身に纏うなんて、真面目過ぎる。
「いいえ。制服は決められていないの。私服登校よ。でもせっかく学校に通えるんだもの。制服は着たいでしょう? 適当にネットで揃えたなんちゃってだけれど、気に入ってるの」
胸元で揺れていた水色のリボンをつまんで見せる。
「あるんだ、ネットに……」
ルカのピンクのリボンもネットだろうか。
世の中は便利なもので溢れているようだ。
「あ。制服の話で思い出したわ。カッターシャツにアイロンをかけておいたから。クローゼットにしまってあるわ」
「アイロンもあったんだ……」
「探したら出てきたわよ。ユイ、まさか、あなた今まで……」
「あはは、想像にお任せします」
はぐらかすと、大きなため息が返ってきた。
いや、だって元々しわの寄らない加工がしてあるってタグに書いてあったし。
大きなしわはつかなかったし。
シノからしたら信じられないだろうけど、僕にとっては普通だったんだよ。
よし。制服もアイロンも探せばある。今朝僕はまた一つ賢くなった。
僕の生活についてある程度理解しつつあるシノは、あきれ顔からすぐ元に戻る。
驚いたりうんざりしていたら、いくつため息があっても足りないと悟ったんだろう。
「まあいいわ。日曜日も朝食と昼食は作って出るから安心して。電子レンジの扱いくらいは知っているでしょう?」
「温めるくらいなら、多分」
「よろしい。温めるだけのものならユイも大丈夫ね。安心したわ。夕飯は帰ってから作るようにするから。出来る?」
「善処します。夕飯に関しては僕は待っていればいいだけだし」
「乗り換えの都合で少し遅くなると思うわ。でも、必ず、帰ってくるから」
必ず、にアクセントが置かれる。
「了解。待ってるから帰ってきてね」
ここはシノの家じゃない。
僕の家でもない。
二人とも、本来の居場所から離れて身を寄せている。
まるで世捨て人のように、ひっそりと慎ましやかに、二人だけで。
「おしゃべりはここでお終い。間に合わなくなるわよ」
シノは携帯電話を見せてくれた。
「え、うわ、結構経ってる……」
普段ならもう朝食を終えている時刻だ。
急がなければならない。
「時間がなくても、残したら許さないから」
「食べる食べる! 急いで食べます!」
僕たちは再びフレンチトーストを口にした。
甘くて濃厚な黄色に染まったパンは、口の中で甘味を放ちながらとろりとほぐれ、なくなっていく。
枝豆の緑に染まったスープは、冷たくしっとりと喉を滑り落ちた。
和やかな夏の木陰のように落ち着いた味に、すうっと身体の熱が奪われる。
食事がこんなに愉快だったなんて知らなかった。
十五年間、
シノにとっての常識も知らず、無知なまま生を貪っては
ああ、今なら。
今なら、明日の食事を楽しみに生きていける気がする。
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