ゼロフィリア 2-7




 昨日よりも帰りが遅かった僕を、シノはとがめなかった。

 玄関ドアを引いた音で台所から出てきたシノは「おかえりなさい。夕飯温めるわね」と穏やかに迎えてくれる。


 ついさっきまでやかましい騒音メーカーと一緒だったので、落差にどっと疲れが襲い掛かった。

 同じ年の女の子でも色々と違いはあるんだよね。

 今日はそれを身を持って経験した。


 騒音メーカーと比べると恐らく、シノと一緒にいる時の方が素に近い。

 物静かな人種は落ち着くから付き合いやすいのだ。


 私服に着替えた後、空の弁当箱と買ったばかりのパフェ入りの袋を持って台所へ。

 今日もいい匂いに包まれた場所で、シノは手際よく鍋を温めたり、料理を盛り付けたりと忙しなく動き回っていた。


「お弁当、美味しかったよ」

「量は足りたかしら」

「ちょうどいい塩梅あんばいだった。小食の部類なもので」

「あらそう。今後の参考に一番好みのおかずを教えてくれない? 貴方だって好みはあるでしょう?」


 難しい問題だ。テーブルに弁当箱とビニール袋を置いて「うーん」と唸る。

 好きという感情が、僕にはぴんと来ない。

 この場合は、箸が進んだものを挙げるべきなのか。


「そうだなぁ、照り焼きチキンとウインナーを炒めたやつは好き、かも?」

「肉派なのね」

「いや? 今回は好きなおかずに肉類が入っていただけだよ。魚も野菜も分け隔てなくいけるタイプだから」

「じゃあ次は魚料理にしようかしら」


 会話をしながら、次々と皿や椀に盛られた料理が並べられていく。


「よろしく」


 シノは微笑んで頷いた。

 ルカとは違う穏やかな笑みに、ある種の安堵を覚える。


「で、その袋は何が入っているの?」


 テーブル上の弁当箱を回収する際に、首を傾げながら尋ねられた。

 目で指された袋の中には例のパフェが入っているのだ。


「これ? 昨日より帰りが遅かった理由だよ。シノにあげる」

「私に?」


 袋ごと、倒さないようにシノに渡す。

 プレゼントの相手は不思議そうにしながら、中身を取り出した。


「……チョコ、パフェ?」

「正解。ラベルに書いてある通りだけど」

「またコンビニに貢いだのね」

「コンビニに貢いだというか、シノに貢物みつぎものというか。掃除も洗濯もしてもらってご飯も三食用意してくれる人への……一種の労い?」

「ね、労われるようなことはしてないわ。ただ、当たり前の行いをしているだけよ」


 どこか嬉しそうな顔でシノは謙遜けんそんする。


「その当たり前が僕にとっては当たり前じゃないんだよ。パフェは好きな時に食べて。賞味期限早いから注意ね」

「ええ、お風呂上りにいただくわ。……夜に食べると太っちゃうかしら」

「一回くらい平気だって。シノ痩せてるし」

「そうかしら。でも、ありがとう」


 手の中でカップをくるくる回しては止めて見つめる。

 くるくるくるくる、と回してははにかんでまた。

 手の熱で溶けてしまいそうだと思っていた時、ようやくカップはテーブルに着地した。


「お弁当の片づけは後にして、温かいうちに食べてしまいましょう。今日も説明させてもらえる?」

「お願いします」


 目の前には二つの皿と二つの茶碗。

 シノの楽しみを奪うつもりもなく、了承する。

 わずかな期待を抱きながら、お互い椅子に座り、姿勢を正した。

 シノは目を伏せながらゆっくり説明を始める。


「今日のメインはメンチカツ。一緒に千切りのキャベツとトマトを添えさせてもらったわ。ドレッシングも作ったからお好みでどうぞ。トマトのそばにあるのはパプリカのピクルス。汁椀に入っているのがキャベツとお豆腐たっぷりのおみそ汁。最後に、小鉢がいんげんの胡麻和ごまあえ。分かるかしら」

「うん、まあ。分かるかも?」


 あんまり分かっていないが、きっと味は悪くない。

 手前にご飯とみそ汁。

 中央の平皿にはどん、とメンチカツが三つ。

 右上の位置には胡麻和え。


 僕とシノの間を隔てるようにスプーンが入った小皿が三つ並んでいる。

 これが手作りのドレッシングとやらなのだろう。

 よし、照合完了だ。


「ならいただきましょう? 早く食べてあげなきゃ料理が可哀想だわ」


 伏せられていた視線が合い、二人揃って「いただきます」をする。

 メンチカツといえば、よくコンビニのレジ横で売られているアレだ。

 だが、今目の前にあるのは既製品ではなく手作りのメンチカツである。


 意気込んで箸で割れば、さくさくと小気味よい音がたつ。

 衣を割って現れたのは緑の混じる粒状の肉だ。ひき肉、だったっけ。

 多分そんな種類であろうそれは、しっとりと肉汁を含み、潤っていた。


「この緑色って何が入ってるの?」

「刻んだキャベツよ。今日はキャベツ尽くしなの。スーパーで安売りしていたから」

「へぇ」

「大変だったのよ。おばさんたちと押し合いへし合い、争奪戦で。どうしてあの人たちはあんなにパワフルなのか、いつも不思議なの」

「同意だよ。あの年代の女性って、とんでもない人いるよね」


 くすり、とシノが笑う。

 メンチカツにも、付け合せのサラダにも、みそ汁にも。

 確かに尽くしかもしれない。

 同じ食材で違うものが作れる発想力に感服しながら一口、メンチカツを齧った。


 割った時と同様、さくり、と音が鳴る。

 口の中でほぐれていく肉の塊が舌の上で舞い、続いてキャベツがしゃきしゃきとした食感を連れてきた。

 絶妙のバランスで混ぜ合わされたそれらに、夢中になる。


「お、美味しい、かしら?」


 ふと顔を上げると、シノは料理に手を付けずにじっと僕を見ていた。

 美味しい、と言葉を貰わなければ、不安が晴れないのだろう。

 目を泳がせ、口をぎゅっとつぐんで恐怖と戦っている。

 僕が料理を食べる瞬間が、シノにとって一番の恐怖なのだと理解した。

 何故かは不明だけど。


「美味しいよ、すごく」

「本当?」

「うん。話してる時間がもどかしいくらい、早く食べたいって思ってる」

「そう」


 ようやくシノの表情がふわっとやわらぎ、料理に手を付け始める。

 美味しいものの区別がつかない僕だが、シノの料理は美味しいものだと刷り込まれつつある。


 腐ったものやゲテモノが出てこない限り、食卓に並ぶものは全部強制的に美味しいのカテゴリに分類されるのだ。

 最初のクロックマダムも、夕食のチキンソテーも、クリーミーなオープンサンドも、色彩豊かなお弁当も、今日のメンチカツも。

 一つたりとも美味しいものリストからは外れていない。

 美味しくて、美味しくて、美味しいものばかり。


 自分が料理に明るくないのが最も悔やまれる点だった。

 もし万が一、不味いなどと発言したらシノは泣いてしまう。

 女の子を泣かせるのは、ちょっとね。

 紳士ぶるつもりはないが、地雷は避けて通らなければ生きていけない。


 一種の処世術かな。と考えつつ、みそ汁のお椀に口をつけたシノを確認して、僕も同じくみそ汁でのどを潤した。

 ごろごろ具が入っていて、汁物というよりおかずに近い感覚だ。

 インスタントとはまるで違う。


 歯ごたえを楽しめるみそ汁は初めてだった。

 僕の知らない世界はこんな所にも息を潜めている。

 自分が無知な自覚はあるが、シノが見せてくれる未知の世界には毎回驚かされっ放しだ。


 メンチカツやピクルス、いんげんの胡麻和えにみそ汁。そのどれもが僕の知らないものだった。

 ピクルスは酸味の中に甘味が隠れ、噛めば噛むほど彩りを変えていく。

 いんげんの胡麻和えは、舌に絡みつく胡麻が少し不気味だ。でも、それでいて不快感はなく絡みついてくる感覚すら愉快に感じる。


 メインの乗った平皿も、小鉢も汁椀も、もちろんご飯も、すべて平らげて「ごちそうさま」が言える瞬間に思った。


 明日はどんな未知と遭遇するのだろうか、と。

 ああ、今からその時が楽しみでならない。



*****



 案の定というべきか、予想通りというべきか、またかというか。

 夕食後、昨日と同じように台所から追い出され、風呂に湯を張った。

 僕が先に入り、現在、深夜の二時を回ろうとしている。まだシノは出てこない。


 僕が知らないだけで、世の女性は皆深夜まで風呂に入るものなのか、と疑問に思う。いや、でも本宅のおばさんはカラスの行水で十一時には就寝していた。

 やはりシノが特別なのだろうか。

 あるいはおばさんが特殊で、シノが普通なのかな。


 課題は学校で終えてしまっているので、あとは寝るだけだ。

 果たして先に照明を消して寝てしまっても許されるのか。

 ここは上がってくるのを待つべきか。


 起床に影響してしまう夜更かしはお断りしたい。

 徐々に脳が眠気に侵されていくのを感じながら、悩むこと十五分。

 ええい、こうなったら突撃だ、と風呂場へ向かった。


 意気揚々と廊下へ飛び出し、脱衣所に繋がるドアを三度ノックする。

 名前を呼んでも返事はなく、はめられたガラスからは人影も見えない。

 可能な限り、畳んである衣類から目を背けて、侵入を敢行した。


「シノ? 大丈夫? 沈んでない?」


 ガラス越しに名を呼ぶ。

 すると、肌色の塊がゆらりと動いた。

 まだ、身体を洗っていたのだろうか。


「大丈夫よ、沈んでないわ。……どれくらい時間が経ってしまったのかしら」

「今、深夜二時を過ぎた頃だよ。心配だったから様子を見にきたんだ」

「ごめんなさい。すぐ出るから、先に寝ていて」


 それはちょっとばかし配慮に欠ける行動なのでは、と今の今まで躊躇ためらっていたわけだが……。


「僕もさっきまで課題に掛かりきりだったからさ。ついでだし待つよ」

「ユイは優しいのね。パフェまで買ってくれたんだもの」

「当然のことをしたまでです」


 波風立てたくないんだ。

 半分くらいは嘘ではないし、ばれてもシノは傷つかない。

 差し障りのないでたらめの作り話は、得意分野だった。


「……ねえ、ユイ」


 ガラス越しにシノの身体が近づく。

 触れられそうな距離に、壊れてしまいそうな細い身体がぼんやり佇んでいた。


「どうしたの?」

「私の、わ……私の身体、綺麗になっているかしら」


 昨日とまったく同じ質問。

 シノは潔癖症けっぺきしょうなのだろうか。

 毎日何時間も風呂に入って汚かったら、そっちが異常だと思う。


「なったと思うよ。シノが汚かった時なんて一度もないし」

「そう、そうよね。ごめんなさい……。あ、あのね、ついでに、一つお願いを聞いてくれないかしら」

「なんなりと」


 頼りない、病的な痩身そうしんがぐらりと揺れ動く。


「一時間。私がお風呂に入って一時間経ったら、今日みたいに声をかけて欲しいの。そうしたらきっと、すぐに出られるから。ユイも真夜中まで待つのは迷惑でしょう?」

「迷惑じゃないけど、一時間で足りる?」


 昨日だってあんなに長風呂だったのに。


「足りるわ」

「じゃあ明日からは忘れずに声を掛けるよ」

「お願いね。必ず守って」


 声を掛けられないと風呂から出られないのもおかしい話だが、追求するつもりはない。

 僕は任された任務の遂行だけを意識すべきだから。


「了解。じゃあ部屋に戻るから」


 肌色に見送られ、脱衣所を出た。

 ファンシーな長袖のパジャマを思い描きながら、今頃ルカとシュンはお楽しみなんだろうな、と嫌悪する。


 恋愛感情の欠落した僕は、一生誰かと恋に落ちたり、愛し合ったりしないのだろう。

 もちろんシノとだって、だ。


 彼女はただの同居人。

 掃除洗濯料理と、家事全般を請け負ってくれている家政婦でしかない。

 それ以上の感情は抱きたくないし、抱かれたくもない。

 淡白な関係こそが僕の望みだった。


 悪意には慣れている。

 感情を取り繕うのにも、誤魔化すのにも、否定するのにも。

 でもだからこそ、見えない刃物は恐ろしい。

 本物の刃物でつけられた傷なら、痕を残したとしてもすぐに癒えるのに。


 あの痛みはどうしても慣れない。

 人との関わり合いを避ける最大の理由は、傷つけられたくないから、だろう。



 だって、僕は――


 いや、やめておこう。

 もう眠いし、明日も早いしさ。


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