ゼロフィリア 2-5




「ゆーゆーやっほーい!」


 気持ち悪いくらい作った、舌足らずな声が紫色に漂う。

 悪寒おかんのする甘ったれた声の主はあいつだけだ。


 無視しながらうんざりしていると、後頭部から首にかけて柔らかいものが押しつけられる。


「起きないと潰しちゃうぞぉー! ゆーゆー! ねぇーゆーゆぅー!」


 ああくそ。こいつとは関わりたくないのに。


「……セクハラ反対なんだけど」


 柔らかい塊を頭で押しのけると、塊の持ち主は机の前に移動した。


「ゆーゆー。こういう時はね、喜ばないとダメなんだよ?」


 机に両手をつき、わざとらしく首を傾げた少女は満足そうに、にいっと笑う。


 美甘みかんルカ。

 宇臣高校一年の女子生徒だ。


 目玉焼きみたいに大きな目と、扇情的な唇。

 明るく染められたボブヘアに、中が見えそうなくらいに短くしたスカート。

 女子生徒はストライプのネクタイをしているはずが、彼女はピンク色のリボンに変えていた。


「希少価値のない胸はただの肉塊と同義だよ。何度も言ってるけど、不愉快だから」

「きゃー! ゆーゆーひっどぉーい! こぉーんなに可愛いるったんがサービスしてるんだから、むらむらしてよぉー!」


 誰がするか。


「はいはい」


 どんな言葉でも傷つかないからと、口を尖らせたルカを適当にあしらった。

 ルカのタチの悪いところは、自分が可愛く、胸が大きいと認識しすぎているところだ。


 世の中には女の武器なんて言葉がある。

 ルカにとって、容姿が秀でていて人より胸が大きい点は、男をたぶらかすための最大の武器だった。涙なんて霞むくらいに。


 主観が入ってしまうけど、ルカは美人ではない気がする。

 まことに申し訳ないが、僕の現在の同居人であるシノの方が美しさでは勝るだろう。しかし、ルカは可愛いとか愛らしいなどの方面では誰にも負けない魅力を持っている。

 愛嬌の差は大きい。


 いくら可愛くて胸が大きくても、セクハラまがいのスキンシップは拒絶するけどね。


「もぉー、ゆーゆーが彼女作らないからサービスしてあげてるのに! このむっつり!」

「頼んでない」

「ふえ? サービスは頼まれなくてもするものだよ? ゆーゆー知らなかった?」

「へえ。今の今まで知らなかったよ。僕って無知だから」

「やーん! やっぱりゆーゆーってむっつりだよねぇ! 素直に顔に出しても怒らないよ? むしろ嬉しいかも! だってだってぇ、るったんのおっぱいは人類の財産だから!」


 僕はげんなりしながら「そうですか」と吐き出した。

 最初のうちはウブな反応をしてみたりしたのだ。

 スキンシップ過剰なルカの行動に一々赤面したり、驚いたり。


 入学後、ルカとはすぐに知り合った。

 会った瞬間は悪い印象はなかったが、言葉を交わしてからがらりと印象が変わる。

 しかも初顔合わせから二週間にわたって、僕はルカのおもちゃとして弄ばれ続けたのだ。そりゃあ、名前も覚えるって。


 でも、その内に免疫めんえきが出来て、巨大な肉塊にエロティシズムを感じない身体になったわけである。

 希少価値って大事だよ? 本当に。


「で? 一体どのようなご用件で僕のところに来たのかな」


 おおよその予測はついているが、面倒なのでさっさと聞く。


「えっとねぇー。ゆーゆーがるったんのおっぱいをそろそろ渇望してるんじゃないかなぁって!」

「求めてない」


 渇いてもない。

 どうやらまた遊ばれている。間違いなく僕で遊びに来ている。

 とんだ災厄に巻き込まれてしまった。


「もぉー、ゆーゆーったら! やせ我慢は体に毒だゾ!」

「暇つぶしなら他の人でやったら?」


 むしろ今この瞬間に毒素が蓄積されているんですけど。


「あれ? あれれぇ? もしかしてゆーゆーとるったんったら倦怠期? えーん、どぉーしよー! 涙出ちゃう!」


 僕も泣きそうだよ。


「ハンカチは貸さないからな」

「ふふふー、冷たい! キンキンに冷えてるね! のどごし最高かも? でもそんなゆーゆーも可愛いから許しちゃったり!」


 ばちん、と目玉焼きからウインクが飛ぶ。

 嬉しくない。本気で嬉しくない。


「今日も元気で何よりだよ……」

「んぅ? るったん褒められてる?」


 もうため息しか出てこなかった。

 ルカはどんな言葉や行動でもあしらえない強敵だ。

 心臓に毛が生えているのか、ステンレス製なのか。

 とにかく傷つかないし、落ち着きがないし、僕を構いたがる。

 積極的に人に関わりたくなくて演じている人格に物怖じしないので、困り果てている最中だった。


「そんなにため息ばっかりってことは、ゆーゆー疲れてるんだよ! もう一回乗せとく? るったんのおっぱい。ストレスなんてぼよよん、って吹っ飛ばしちゃうよ?」


 二つの肉塊を手のひらで揺らす。


「やめて、余計に――」



「あれ? ルカ。ここにいたんだな」



 僕の拒絶をさえぎるように男子生徒の声が届く。

 ルカはすぐさま声の主へ顔を向け、僕もやっと現れた救世主を見た。


「しゅーたん! やっと会えたぁ!」


 教室へ入ってきたのはシュンだった。

 姿を見るなり、ルカはシュンの元へ駆けて行き、胸に飛び込む。


「何? またユイで遊んでたのか?」


 シュンの腰に抱き着くルカ。

 べったりと胸を押し当てて妖艶に笑ってみせた。


「だってぇ、しゅーたんがいなくて寂しかったんだもん!」


 僕は噛ませ犬みたいなものだったらしい。知ってたけどさ。


「ほどほどにしておけよ?」

「うん! るったんの一番はしゅーたんだからね、しゅーたんの言うことは全部聞いちゃう!」

「それでこそ俺の彼女だ。えらいえらい」


 シュンは抱き着いたルカの頭を優しく撫でた。

 何を隠そうこの二人、恋人同士なのである。

 いや、全然隠れてないけど。

 怖いくらいオープンな恋愛をしているけど。


 ルカは言いふらすタイプだし、シュンはルカを放し飼いにしている。

 今や先生すら知っている状態だ。


 四月の中頃にくっ付いた二人は、何故か別れることなく今も関係が継続している。シュンがルカのどこに惹かれているのか、どこを見て選んだのか、謎が謎を呼ぶ繋がりだ。

 でも本人たちが楽しそうなので、僕としては適当な距離を取って傍観していた。

 シュンとルカの恋愛は、数多の女子生徒に行方を見守られている最中だった。


「まだ休憩時間ぎりぎりあるし、ルカの教室行くか?」

「はぁい、行く行く!」

「じゃあな、ユイ。お疲れ」

「どういたしまして」


 シュンはルカに抱き着かれたまま、教室を出た。

 律儀に僕に別れの挨拶までして。

 はあ、とまたため息をつく。ようやく嵐が過ぎ去ってくれた。


 すり減った精神力を回復させるため、もう一度机に伏せる。

 再び訪れるまどろみにゆっくりと沈んでいった。


 昼休みは残りわずかだ。



*****



 過ぎ去った嵐が再び襲いかかったのは放課後のこと。


 授業を終え、まわりに倣ってカバンに教科書を詰める。

 普段利用している六時台の汽車まではまだまだ時間が余っていた。


 今日は早く帰ろうかな。

 シノが手ぐすね引いて待ち構えている気がする。

 帰ったら弁当の感想も忘れずに言わなければ。

 夕食も作ってくれているだろうから、それに対しても言葉を用意しておくべきか。


 今度は何を作っているんだろう。

 肉料理か、魚料理か、それともさっぱりと野菜オンリーとか。

 好き嫌いもこだわりもないので、どれが来ても両手を広げて迎えるつもりだ。


 シノの料理に文句はない。

 文句どころか、けなすべき部分も見当たらない。

 美味しいと思うし、見た目も綺麗だし、ちゃんと用意してくれるし完璧なのだ。

 寝場所しか提供していないのが申し訳ないくらいに完璧すぎる。


 さて、やっぱりさっさと帰ろう。ルカの相手で疲れて頭が重い。

 あんな大きなものを乗せられたら当たり前か。


 イスから立ち上った僕はカバンを肩に掛けた。

 普段は大抵、六時まで学校で寝て終わる日々を送っている。

 部活動にも属していないので、放課後は時間を無駄に浪費する時間に成り下がっていた。いつまでも教室にいてもすることはない。


 散っていく生徒たちに混じって、僕も教室を出た。


「あぁー! ゆーゆーいたぁ!」


 ドアをくぐった途端に、舌足らずな声が忌々いまいましい名を呼ぶ。

 ちゃん付けと互角の嫌悪感が瞬時に押し寄せた。


 教室を出るタイミングが悪かったのだ。まさか見つかるとは。

 くそ、悔しい。


「ゆーゆー待って! 帰っちゃダメ!」


 廊下の五メートルほど先で、ルカが手を振って叫んでいた。

 彼氏はとっくに部活に取り組んでいる時間だ。

 どうしてルカは僕を標的にするのか。


「なに? どうしたの。シュンはもういないよ」

「るったんはゆーゆーに用があるのだ!」

「僕に?」

「そぉー! ゆーゆーに!」


 聞かなきゃダメかなぁ。帰りたいなぁ。もう勘弁してほしい。


「はいはい」


 僕はルカの手招きに応えた。

 本来シュンが呼ばれるべきなのに。

 すごく嫌だけど、ルカとの仲に亀裂が入るとシュンとの関わりにも支障が出てしまうかもしれない。汽車は一本見送ろう。


 ルカのクラスは一つ隣の一年C組だ。

 手招きされるまま、C組の教室へ入りルカの席まで連れてこられる。


「用件は手短にお願いしますよ……」

「うん! まずはここ座って。秘密の話するから!」


 誰かのイスを引いてきたルカは僕に着席を促す。

 イスはルカの机の前方に向かい合う形で置かれた。

 僕が誰かさんのイスへ腰掛けると、ルカも自分のイスに座る。


「本題の前に言わせてぇ! ゆーゆーったら出てくるタイミングばっちり完璧! るったん運命感じちゃいそう!」

「ぺらっぺらのやすい運命だことで」


 バナナの叩き売りみたいだ。


「きゃー! ゆーゆーはシャイだねぇ。もぉーっと喜んでもるったん引かないよ? ゆーゆーはねぇ、るったんの運命の相手ナンバーツーなんだもん!」

「運命が選び放題なくらいありそうな発言だねそれ」

「うん! るったんねぇ、運命は星の数ほどあるって信じてるの! だーかーらぁ、デスティニーなゆーゆーにお願い!」


 ろくなものじゃない、と聞く前から判断する。


「ナンデショウカ」


 乗りかけた船が泥船でないことを祈った。

 無理難題はやめて欲しいな。


「しゅーたんがねぇ、部活終わったら図書室に寄るって言ったの。しゅーたんったら文学少年だから読書大好きのインテリさんなんだよ! 凄いよねぇ、スポーツもできて読書もたしなむなんて最強すぎ! でねでね、ゆーゆーには、図書室でしゅーたんを待ち伏せしてぇ、三階のるったんがいるC組の教室まで連れてきてもらいたいなぁって!」

「僕が? ルカが直接行けばいいんじゃないの?」

「だぁーめっ! るったんね、しゅーたんに運命感じて欲しいの。偶然教室の前を通りかかったら彼女が! って素敵でしょ? 運命でしょ? 食パンくわえて曲がり角を曲がったらイケメンとごっつんこしちゃった! くらいの! それでね、デスティニー感じたしゅーたんはもぉーっとるったんを好きになっちゃって……」


 両頬に手を当て「きゃー!」と赤くなるルカ。

 運命の相手ナンバーツーはやっぱり噛ませ犬らしい。


「さようでございますか。……で?」

「で! うーん、そうだなぁー。えっとねぇー、ペンケース忘れてたよ、ってのはどう? しゅーたん几帳面だから忘れ物嫌いだし!」

「連れてこられる保証はないからね」

「やーん、ゆーゆーありがとぉ! 愛してる! よろしくね?」

「承知しました」


 もう一々突っ込むのも馬鹿らしいし、既にテンションについていけない。

 ルカのお願いを聞き終わった僕は、教室を出て一階へと歩き出す。


 面倒事の発生を覚悟したら、断ろうと思えば断れただろう。

 自分で行け、と強く言えばそれで終わり。

 しかし、相手がルカとなると、断りの一つでもとてつもなく事情が複雑になってくる。


 四月の中ごろにルカとシュンはくっ付いた。

 二人は誰もが知る熱愛カップルだったが、当時から果敢にもシュンに告白する猛者もさが存在したのだ。

 ルカと別れて、私と付き合って欲しい。

 略奪愛に燃える女子生徒たちは次々と玉砕していく。


 小耳にはさんだ情報によると、無残に散った女子生徒たち数人が、その後不登校になっているらしいのだ。


 トイレに入れば頭上から豪雨。

 教科書は黒塗り。

 体操服は引き裂かれ、ネット上には誹謗中傷。

 うん。あれだ。女の嫉妬って怖いよね。


 簡潔に述べるとすれば、僕は標的にされたくない一心で依頼を受けたのだった。

 円滑な学校生活は何としてでも守り抜かねばならない。

 巻き込まれるのは御免だ。


 ルカへの対策を考えながら階段を降りると、一階の図書室が見えてきた。

 階段を下りてすぐに図書館入り口の誘導看板が立っている。

 両開きの入り口があるのは玄関の反対側だ。

 しかし、運動部の部室へ繋がる通路の途中にあるため、それなりに人通りは多い。


 読書啓発ポスターの貼られたドアを押し開け、中へ入る。

 薄紫色のカーペットの敷かれた広い図書館は、整然としていた。


 司書のおばさんを横目に足を進める。

 確か、本棚が並ぶスペースの奥に自習用の席がいくつか設けられていたはず。と記憶を手繰り寄せた。


 本棚を過ぎて、奥へ進むと記憶の通りに自習スペースが広がる。

 数人の生徒が教科書を開き、睨めっこの真っ最中だった。

 僕は入り口のドアの様子が見えやすい席に腰を下ろし、机に教科書を置いた。


 まだ部活終了まで二時間以上ある。

 ついでに課題も済ませてしまおう。

 静かな図書館で、今日の夕食に思いをせながら机に向かった。

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