ゼロフィリア 2-3




 マカロニサラダもにんじんのグラッセも、グレープフルーツのゼリーもそれぞれが僕達を満たす。


 お互いほとんど言葉を交わさず、黙々と料理を口に運んだ。

 時々、思い出したようにシノが「美味しい?」と聞くので「美味しいよ」と僕は笑う。たったそれだけの言葉でシノはゆるく微笑み、また静かな食卓が訪れるのだ。


 誰かと顔を突き合わせて食事を摂るなんて本当に久しぶりかもしれない。

 ゆっくりと過ぎる同居人との時間はどこかくすぐったくて、自然と落ち着いた。



 盛りつけられたすべての料理を平らげ、ごちそうさまをするとシノは皿洗いを始めた。

 手伝えることはないかと考えてうろうろしてみるも、どこをどう手伝えばいいのか分からない。


 あまりにうろうろしていたので「課題を済ますか、お風呂にお湯を張るかのどちらかにして」と、台所からやんわり追い出されてしまった。

 仕方なくお風呂に湯を張る。


「一番風呂は家長が入って。私は遅いから」


 今度は後片付けを終えたシノに更に命じられてお風呂に入る。

 綺麗な風呂場を堪能しつつ浴槽につかり、疲れを癒した。


 僕が出てきてから数分後、ボストンバッグから着替えを出したシノは風呂場へ消えた。

 どうやらあのボストンバッグには服が詰まっているらしい。

 いや、それにしては重すぎだ。

 開けて探る気はないけれど、中身が想像できないのはちょっと怖い。


 寝間着にしている長袖のジャージ姿で一度大きく伸びをして、ボストンバッグの代わりに自分の通学カバンを開けた。

 明日も明後日も平日。当然学校はあるから、課題も出される。

 留年だけは御免ごめんだ、と嫌々数学の参考書を引っ張りだして机に向かった。



*****



 ふっ、と遠ざかっていた感覚を取り戻す。

 ノート一ページ分の数式を解いた後から記憶がない。


 机に伏せている今の状況からして、寝てしまったのだろう。

 机から上半身を引き剥がし、どのくらい眠っていたのかと机上の目覚まし時計を見た。


 現在時刻は午前一時二十八分。

 昨晩ほどではないが見事に深夜だった。


 部屋は未だ明るく、いるのは僕一人だけ。

 こんな時刻なのにベッドにシノの姿がない。

 あれから四時間近く経過しているのにだ。


 まさかまだお風呂に入っているとか?

 いや、女の子だからってさすがに四時間は長すぎじゃないのかな。

 ボストンバッグと学生カバンは相変わらず置かれたままだから、居なくなってはないはずだ。


 疑問を確かめるため、僕は立ち上り廊下へ出た。

 本宅は寝静まった頃だろう。


 彼らの生活を侵さない限り、どんなに遅くまで離れの明かりがついていたとしても、あちらは関与してこない。

 些細な変化など気がつかないまま、彼らは暮らしている。

 様子を見に来る気配もないし、シノの存在は気付かれていない、と思う。

 油断は禁物だが。


「シノ?」


 名前を呼んでも応答はない。


「……まだ、入ってるの?」


 驚くことに風呂場に繋がる脱衣所から、明かりが漏れていた。

 一般的な女性がどの程度入浴に時間を要するのか、知識はない。

 しかし、こんな深夜までかかるものなのか。


 もしかして、沈んでいたりして。

 もしも、万が一、沈んで温かくなっていたら引き上げなければならない、よね?


 若干の好奇心と共にドアを二度ノックした。


「シノ? いる?」


 返事はない。

 物音すらしない。

 本気で沈んでいるのでは、と心配になってドアを開ける。


 洗濯機の上にはタオルと着替えが置かれ、脱いだ衣服は手前のカゴに収まっていた。霞んだガラスに遮られた風呂場も明かりがある。

 明るく照らされた洗い場には、肌色の人影が滲んでいた。


「シノ?」


 畳まれた下着から目を逸らして、風呂場の人影を呼ぶ。

 すると、かたんと音がして肌色の人影が動いた。


「……ごめんなさい。今何時かしら」


 どうやら長風呂の自覚はあるらしい。


「一時三十分くらい」

「日付が変わったのね」

「うん。そうみたいだよ」

「そろそろ、出るべきよね」

「ずっと入ってると身体がふやけない? 僕としては何時間入浴していても気にしないけどさ」


 背を向けたままの人影は、ぎゅうっと小さく丸まった。


「分かってるの。分かってるのよ。もう出るわ。……ごめんなさい」


 ドア越しに怯えをはらんだ謝罪が届く。

 よく謝る子だ。


「怒ってないよ。ただもう夜中だったから、声はかけるべきかなぁ、と思って」

「ありがとう。……分かっているのに、私――」


 小さくなっていた影が膨らむ。

 ゆらり、と風呂用イスから立ち、シノはこちらを向いた。


「じゃあ、僕はいくから」


 退散だ。いつまでもここに居たら、それこそシノが出られない。

 揺れる影を残して僕はドアノブを握った。


「ねえ、ユイ」


 ぎい、とドアが軋む音と同時にシノが僕を呼ぶ。


「ん? どうしたの」


 振り返ると、かすんだガラスのすぐ近くに、肌色の肢体したいがぼんやり透けていた。


 細くて頼りない脚に、くびれて折れそうな腰。

 棒切れみたいな二の腕。

 脆く美しい曲線を描く身体は、びっくりするくらい頼りない。

 恐怖すら覚える病的な肌色に、僕は魅了されていた。


「私の身体、綺麗になったかしら」

「……綺麗になったんじゃないかな。なってるよ、きっと」


 また妙な事を聞かれた。

 四時間もお風呂に入って汚れが落ちないわけがないだろうに。

 綺麗か汚いかを問われれば、答えは大抵綺麗に決まっている。


「わ、私おかしいわよね……。でもユイに言ってもらえて安心したわ。ごめんなさい、もう出るから。綺麗になったんだもの」

「うん。部屋に戻ってるから」


 肌色を名残惜なごりおしみつつ、開いたままのドアから風呂場を後にした。

 課題もあと数問解けば終わる。


 朝に備えてそろそろ眠ろう。

 ベッドはシノに貸して、僕はいつも通り床に座って。

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