ゼロフィリア 2-2




 結局、その日は最後まで連続火災の話題が続いた。


 時間は流れ、空が茜色に変わり始める放課後。

 散り散りに教室を去っていく生徒たちの様子を聴覚のみで感じながら、僕は机の上で溶けたままだった。

 授業中はしっかり顔を上げてノートもとっていたが、強烈な眠気は治まらない。


 何度となくまどろみに落ちては覚醒し、またまどろむ。

 そんな事を繰り返していると時刻は午後六時半を過ぎていた。


 さて。そろそろ部活動も終了し、皆が下校する時刻だ。

 気つけ代わりに頬を叩いて、僕も帰ろうとイスから立ち上がった。


 学校から最寄駅までは徒歩で約十五分。

 同じ制服の学生集団に揉まれながら汽車へ乗り込んだ。


 下車する駅は夜浜よはま駅。

 乗客の多くが自転車や車で帰っていくのを見ながら、僕は徒歩で宮脇邸を目指す。

 車が行き交う道路の端を歩き、途中コンビニを通り過ぎて住宅街へ。

 漆喰の塀をぐるりと回って、裏口へ辿り着く。


 乗った汽車の到着時刻から逆算して、現在時刻は午後七時半くらいかな。

 今日も疲れた。

 学校という枠組みが、僕はどうも苦手だ。


 まだ水曜日である事実が僕の精神をぐちゃりと押し潰す。

 さっさと金曜日にならないだろうか。

 いや、二日休んだらまた月曜がやって来る。

 こんな日々が卒業するまで続くのかと思うと、精神が凍えてしまいそうだ。


 大体、毎日繰り返し同じことを考えているんだけどさ。

 もううんざりだ。生きることにも社会に適応することにも。


 繰り返される疲労にさいなまれながら、裏口の戸を押して敷地へ入る。

 誰も閉めることのない内側のかんぬきは、僕が帰るまで開きっ放しだ。

 閉めたとしても、び付いてネジのなくなった鍵は意味を成さないだろう。

 南京錠を引っ掛けても、強く押せば簡単に壊れて開いてしまう。

 裏口の施錠はただの飾り同然だ。


 すでに辺りは薄暗く、森の如く茂った木々は敷地内の暗闇を増幅させていた。

 明かりのない森を感覚だけで離れまで歩いていく。


 シノは夕食を用意すると言っていたが、あの後どうなったのだろう。

 掃除するとも言っていたっけ。

 あの汚さだ。途中で挫折していても責められない。


 考えながら歩くと、明かりの漏れる離れが見えた。

 どうやらシノはまだ逃げ出していないらしい。

 木々で隔てられ、本宅から拒絶された離れ。

 帰宅時、明かりを見るのは初めてだ。


 僕以外の人間がそこにいるのだと感じられる明かり。

 こうして見ていると、変な感じがする。見つかっていないといいけど。


 まあ、大丈夫だろう。

 わずかな空腹感を感じつつ、玄関の引き戸を開けた。



「……は?」



 目の錯覚だろうか。はたまた、まだ夢の中にいるのか。

 ひょっとして、帰る家を間違えたか?


 いや、そんな馬鹿な。


 度肝を抜かれるという表現が正しく相応しい光景に息をのむ。

 隅には埃の塊。

 天井には蜘蛛くもの巣。

 靴箱は綿埃わたぼこりが積もり、変な染みがついている。

 そんな玄関だったはずなのに。


 今僕が立ち尽くしている場所は、天井に蜘蛛の巣もなく、隅どころかどんなに探しても埃の塊は見当たらない。

 靴箱の上も光るほど磨かれ、染みがあった場所には空の花瓶が置いてあった。

 どこから出てきたのか知らないが、染み隠しのためだろう。

 ガラス製の花瓶は始めからあったかのように我が物顔で靴箱を独り占めしていた。


 見違えるなんてものじゃない。

 朝の有り様が思い出せなくなりそうなくらいの変わりようだ。


 シノが掃除した、んだよね。多分。

 玄関ドアで止まったままの僕を、一足のローファーがお行儀よく迎えていた。

 間違いなく離れにはシノがいるのだ。この光景の犯人が。


 掃除してもいいと話してから、家を出た。

 ちゃんと会話を覚えているし、どうなっているかちょっとだけ楽しみにしていた。


 してたけどさ。

 たった半日やそこらでここまでって。びっくりだよ。


 こうなると、普段意識せずに脱ぐスニーカーも今日はローファーの隣にきっちり揃えたりしてしまう。

 玄関から廊下へ上がるが、変貌ぶりはここでも僕を飲み込んだ。

 床はぴかぴかに磨かれ、ちり一つ落ちていない。

 いかにも幽霊が出そうなお化け屋敷状態は完全に一掃されていた。


 水回りを重点的に、と言っていたけど、お風呂とトイレはどうなってるんだろうか。覚えている限りでは、水アカとか水カビとかが凄まじかったのだけれど。


 廊下にはかすかに夕食の香りが漂っている。

 明かりのある突き当たりの台所では、料理の真っ最中だろうと適当に推測しておいた。

 僕の帰宅に気づいていないみたいだし、ちょっとだけ見て回ろう。

 気づかれた時点で終わりの短い冒険だ。


 決めるや否や、まるで見知らぬ屋敷を探索する子供みたいにわくわくしてきた。

 行くぞ、と意気込んで姿鏡のような廊下をきょろきょろしながら進む。

 まずは風呂場だ。


 輝きを放つドアノブを回し、中を覗き込む。

 立てつけが悪く、ドアが軋むのは変わらない。

 しかし、洗濯機が置かれている脱衣所が見えた時点で、その変貌へんぼうぶりに唖然あぜんとした。


「おぉ……」


 カビに占拠せんきょされていた壁紙は張り替えたのかと疑うほど白く輝き、天井の蜘蛛の巣は見る影もない。

 期待を膨らませながら、浴槽のある風呂場のドアに手を掛ける。

 中の様子は型板ガラスに遮られ、モザイク状にかすんでまだ覗えない。


 小型の浴槽に、シャワーつき。

 昨晩までは、水カビと水アカがはびこる汚い風呂場だった。


 はやる気持ちを押さえて、ドアをスライドさせ風呂場へ入った。

 予想通り、ここも掃除が行き届いている。


 磨き上げられた蛇口は金属の光沢を取り戻し、浴槽の水アカもない。

 どこまでも清潔感が溢れる風呂場には、当然タイル上の水カビも存在していなかった。


 全部シノが掃除したのだろうか。

 いや、これ冗談抜きで業者レベルの変わりっぷりだよ?


 思わず「おぉー」ともう一度漏らしながら風呂場を出た。

 トイレも綺麗になっているに違いない。

 よし、次はトイレを探索しよう。僕は脱衣所から廊下へ出る。


「もうお風呂に入るつもりなの? 夕食もまだなのに」

「わ、気づかれた」


 出たところでシノが待ち構えていた。

 探索はひとまず終了だ。


「おかえりなさい」

「ただ今戻りました。これ、全部シノが掃除したの?」


 僕の驚きに対して、シノは結んでいた髪を解く。

 長袖のブラウスにプリーツスカート姿は朝と変わらない。


「ええ。あまり綺麗にならなかったけれど……。やり直した方がいい?」


 少し不安そうに聞く。

 また怯えさせまいと、僕は柔らかい表情を作った。


「ううん必要ないよ。繰り返すけどさ、本当に一人でやったの?」

「そうよ。一人で掃除したわ」

「すごいね。尊敬するよ。こんなになるんだね、業者に頼まなくても」

「……褒められてる?」

「うん。褒めてる」


 褒められたのが嬉しいのか、顔がほころんだ。


「ユイは何でも喜ぶのね。ありがとう」

「どういたしまして」


 お礼に、シノはほころびを強めた。

 十五歳の少女がこれほどまで掃除技術を高めているとは。

 ある意味異常ではないのかな。いつどこで身に着けたのだろう。


 母親に習ったとか?

 普通に考えるとそうか。綺麗好きな親の元に生まれたんだろう。

 その親の元から逃げてきたわけだけど。


 不仲だったのか、思春期特有の葛藤があったのか。

 どちらにしろ、シノがここに来てから、僕の生活水準は瞬く間に急上昇だ。


「ブタさんは洗剤と食材に使わせてもらったわ」

「まだある?」

「ええ。十分に。物置に色々役立ちそうな物がしまわれていたの。探してみるものね、意外と出費は少なくすんだわ。しばらくは食事も大丈夫」

「そう。……ええと、この匂いは、夕食?」


 朝とは違う、芳しく野性的な匂いが廊下の先から漂う。

 微かな夕食の匂いは、シノの登場で一層強まっていた。


「正解。今度はちゃんとした料理よ。今盛り付けていたところなの。食べる?」

「もちろん。着替えたら行くよ」

「待ってるわ」


 笑顔のまま台所へ戻っていくシノを見送り、僕は洋室へ入る。


「わぁ……」


 洋室は特別家具の配置などが変わっているわけではない。

 感嘆の原因は、色の変化だ。


 何もかもが白い。

 黒ずんでいた物たちが新品みたいに本来の色を取り戻していた。

 どうやらとてつもなく有能な家政婦を雇ったらしい。

 妙な興奮状態のまま私服へ着替えを終え、台所へ向かった。



「男の子はお肉を好むと思っているのだけれど、ユイはどうかしら」


 着席した僕へ、シノは皿を運びながら尋ねる。


「うーん、まあ、好きの部類に入るのかな。意識したことがないから分からないや」

「き、気に入らなかったら、好きじゃなかったら、作り直すから……」


 また目が泳ぐ。おびえているのだ。


「とんでもない。美味しそうだから全部いただくよ」

「そ、そう。なら、どうぞ」


 シノは着席しながら、小さく「美味しそうって……」と呟いた。

 テーブルに並ぶのは見た事のない皿に盛られた、料理の数々。

 まだ熱を放ち、それぞれから食欲をそそる匂いが立ち上っていた。


「この皿ってもしかして戸棚にあったの?」

「え? ええ。きちんとしまってあったわ。洗剤で綺麗に洗ってあるから心配ないわよ?」

「へえ。あったんだ、こんなの」

「知らなかったの? たくさんあったのに」

「たくさんあることも知らなかったよ。必要なかったし」

「ずっとコンビニに貢いでたんだものね、ユイは」

「僕のお蔭でかなり潤ってると思うよ、あそこのコンビニ」

「自慢する話ではないって分かってるかしら?」

「自慢できるネタがこれくらいなもので」


 へらへら笑う僕にため息が贈られる。


「今回はちゃんとスーパーで買った食材で作ったのよ。朝は選択肢がなかったから仕方なく、ね。コンビニって無駄に高いから嫌いだわ」

「ふーん。それも知らなかった」


 高いんだ、コンビニ。


「……何も知らないのね。料理や家事に関心のない人向けに、夕食の説明をするべきかしら」


 あきれがはっきりと表れている声色だった。


「よろしくお願いします」


 目の前にある料理がどうやって調理されたのか、興味はない。

 ないのだが、後々感想を述べる際に役立ちそうだったので素直に従った。

 お願いした方がシノは嬉しいだろうし。


「よろしい」


 コホン、と咳払いをして、説明は始まった。


「まずメインはトマトソースのチキンソテー。真ん中の一番大きなお皿ね。焼いた鶏肉にコンソメにトマト缶を煮詰めたソースをかけたの。付け合せには葉物野菜とマカロニサラダ、にんじんのグラッセ」

「へぇ」


 今僕の目の前には大小含めて三つの皿とカップが並んでいる。

 その真ん中、白い皿の上にある料理の名を記憶した。

 名前だけ聞いても味が想像できないものも含めて、細かい内容を今聞くのはやめておこう。


「右手側のスープカップの中はベーコンと玉ねぎのスープ。時間があったからささっと作ってみたの。後はご飯とデザートにグレープフルーツのゼリー。分かったかしら」

「まあ、一応は」


 左手前にはご飯。

 右手前にはスープ。

 中心にはチキンソテーで右奥にデザート。

 こんな感じか。あんまり分かってないけど。


「そう。……こうして献立を聞いてもらえるのも楽しいわね。幸せなことだわ」

「大変だったでしょ」


 これだけの品数を作ってくれたのだから、僕としてはとてもありがたい。

 見違えるほどに隅々まで離れを掃除して、夕食の買い出しに行き、調理する。

 大変でないわけがないだろう。ねぎらいは必要だ。


「このくらい朝飯前よ。さ、早く食べて。落ち着かないの」


 シノは背筋を伸ばして急かす。

 熱い視線を浴びながら手を合わせた。


「いただきます」


 これまでいただきますなんて言わずに暮らしてきたのに。

 生活の変化に戸惑いながら、箸を持った。


 まずはメインのチキンソテーからだ。


 光沢のある赤いソースをまとった鶏肉。

 皮に焦げ目がついていて、食べやすいように縦に切られていた。


 さあ、二度目に等しい手作りの夕食はどんな味なのか。

 わずかな期待を携え、肉汁とソースが混ざり合った赤色を絡めながら一切れ口へ運ぶ。

 柔らかく焼かれた肉を噛み切ると、まず酸味と甘みの合わさったトマトの風味が口いっぱいに広がった。次に特徴あるにんにくの香りを微かに連れて、じわりじわりと肉汁が溶け出していく。


 高級食材も使っていなければ、特殊な調理器具を駆使してもいない。

 田舎町のスーパーの食材を、ごくありふれた一般家庭にある調理器具を使って調理したもの。

 僕が食べたのはそういったたぐいの料理だ。


 ごくありふれたものなのに、舌の上に広がる調和のとれた味わいは、僕のなけなしの食欲を駆り立てた。

 無言のまま一口目を飲み込んで、二口目を頬張る。

 味わいながら再び飲み込んだところで、シノの不安の混じった眼差しに気がついた。


 どう? おいしい? 気に入らなければ……と言われる前に「美味しいよ」と笑う。

 美味しいと言葉をかけられて緊張が解けたのか、シノは明るい表情に変わった。


「他はどう? 美味しいかしら?」


 早く食べてみて、と目が語っている。

 早く早くと尻を叩かれているみたいだ。

 少女の幼い眼差しに応えるため、僕はスープの入った白いカップを持つ。

 こぼれないように持ち上げカップを揺らすと、ベーコンと透き通った玉ねぎがふわふわと舞い踊ってみせた。


 湯気の立つスープをゆっくり口に含んで喉へ流し込む。

 すうっと温かさがみぞおちへ落ちていき、内側から身体が熱を持ち始めた。

 初夏の気温とスープから得た熱で、じわりと汗が滲んできそうだ。

 不快感のない熱は、心地良く穏やかに身体に行き渡っていく。


「少し、甘い味がする……」

「玉ねぎの甘味よ。火を通すと甘味が増すの。砂糖は入ってないわ」

「へぇ。シノは物知りだね」

「ユイが知らないだけよ。常識だと思ってたわ。今の今まで」

「勉強になるよ、僕は」


 テストには出ないけどね。


「あのさ、見てばかりいないでシノも食べてよ。見られていると、こう、あんまり気分よくないし」

「一緒に食べてもいいの? 嫌じゃない?」


 声が震え、また目が泳ぐ。

 怯えているみたいだ。


 理由も原因も特定不可能だが、それは間違いない。

 まだまだ浅い付き合いではあるが、僕はシノの心理状態をほんの少し察知できる程度には学習していた。

 地雷が多くて避けられないのは困るのだけど。


「むしろこの状態で一人で食べ続けるって結構な苦痛なんじゃない? 動物園のライオンよろしく見られ続けるとさ」

「……ライオンは嫌ね。じゃあ、私も。いただきます」


 ようやくシノは箸を持つ。

 こうして、二人だけの夕食は幕を開けたのだった。


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