ピロフィリア 1-4




「いただきます」


 疑問に思いながら、僕は皿の上のものを切り分ける。


 フォークを補助に使い、まずはナイフで二等分。食パンへ縦に切り目を入れた。

 玉子の上を通過すると、半熟の黄身がとろりと表面に広がり、皿へしたたり落ちていく。黄金こがね色の液体が濡らす断面からは、ハムと溶けたチーズがこぼれて顔を出した。


 食パンには白っぽいソースが浸み込んでいる。

 これがべしゃ……ええと、ベシャメルソース、だろう。


 研究を終え、初めて食べるクロックマダムとやらを一口頬張った。

 熱されたチーズが舌にねっとりと絡みつき、咀嚼そしゃくの邪魔をする。

 黄身のまろやかさと相まって、どこまでも淫靡いんびな食感だった。


 その上に、食べたことのない味が重なり、口蓋こうがいに纏わりついてくる。

 飲み込んでも舌に残るが、嫌な刺激はない。むしろ、ベシャメルソースと思われる味と匂いは、香辛料の刺激を静かに宥めていた。

 舌を痺れさせる香りはハムが連れてきたものだろうか。刺激的過ぎず、ちょうどいい。


 咀嚼している間にも、ナイフを入れた断面からとろとろと黄身が落ち、白い皿を汚す。

 もったいない。後で拭きながら食べよう。


「……どう?」


 シノの問いかけに視線だけで答え、無言のまま口を動かし続ける。

 おどおどしながら目を泳がせるシノを見つめ、ゆっくり朝食を嚥下していった。


 こういう時は、味の感想を伝えなければならない。

 朝食を作ってくれたのだ。拙くとも感謝を述べるのが常識だろう。


 褒め言葉を数パターン思い浮かべながら、一旦ナイフとフォークを置く。

 すると、シノが腰を浮かせて、皿へ手を伸ばした。


「き、気に入らないわよね、こんな粗末な朝食なんて。つ、作り直すから。一番近くのコンビニなら、急いで走れば往復十五分もかからないもの。時間には間に合わせる、から、大丈夫、だから……その、ごめんなさい、失礼よね……。こ、こんな貧相な朝食、なんて……」


 早口はだんだん覇気を失い弱々しくなる。

 目の前の彼女は、今にも泣きだしそうな表情で、皿を持ち上げた。

 何故こんなに怯えて謝っているのか。不思議でならない。


「待って待って」


 慌て気味に、手を軽く押さえて制止を掛ける。

 手が重なって、シノははっと目を見開いた。

 どんなに貧相で粗末でも、目の前の朝食は取られたくなかった。


「食べるよ、全部食べるから持っていかないで」

「でも、こんな――」


 赤みを帯びたブラウンの瞳は恐怖と不安に揺れ動く。


「美味しいよ」

「……え?」


 赤みの強い、変わった目の色だ。綺麗なのかもしれない。


「すごく美味しい。怒らないし、不満もないから落ち着いて」

「私の作ったこれが、美味しい、の?」

「うん。美味しい」


 強めにうなずいて肯定する。


「美味しい……」


 呟いて、微かに震えていた手が皿から離れた。

 シノは腰が抜けたようにすとん、と、イスに座る。

 何度も何度も「美味しい……」と繰り返しながら。

 噛み締めるように繰り返し呟き、最後の「美味しい」で顔があどけなくほころんだ。


「こ、こんなものでも?」

「こんなものでも。僕さ、舌が肥えている方ではないから、批評家みたいな気の効いたことは言えないよ? でも、何年ぶりかの朝食は、残さず食べたいと思った。だからきっと、これは美味しいもの、なんだと思う」


 食べられるか、食べられないか。

 こんなつまらない二択で食料を判断する僕だ。

 食べられたら、空腹を満たせられたら、それで構わない。

 そんな風に思う僕でも、人肌の温もりを感じる手作りの食事は、胸の奥の辺りが緩く締め付けられた。


「本当に本当に美味しいって思ってる? 建前や謙遜はいらないわよ?」

「疑り深いなぁ。建前でも謙遜でも、ましてや嘘でもないって」

「でも、私の」


 でも、が繰り出され、さすがに面倒になってきた。

 これじゃあ埒が明かない。


「あーもう。全部食べたら信じてくれる?」

「え? 食べて、くれるの?」


 出会った時にはあんなに強気だったのになぁ。

 今目の前にいるのは、いもしない人喰いお化けに怯える幼い女の子だ。


 ああ、もしかして気を張っていたのかな。

 万が一、泊めてと頼んだ相手が性根の腐った極悪人だったら、と考えていたりして。強気で誰も寄せ付けない人格を必死に演じていたんだ。

 向けられるかもしれない想像上の悪意に震えながら。


 いや、今はどうでもいいけどさ。

 まず僕がしなければならないのは、面倒臭くなったやり取りを終わらせること。

 そのために、皿の上のものを平らげなければ。


 全部食べると宣言した僕をシノはじっと見つめている。

 急かされているみたいで落ち着かない。

 宣言したからにはやらねばなるまい。

 出てこようとしたため息を殺して、再び切った蜂蜜色を口に入れる。


 一口。二口。三口。

 台所には僕が口の中のものを噛み締めてすり潰す音だけが小さく響いている。


 熱い視線を受け続けながらの咀嚼。

 普通なら「なに?」と不機嫌にシノを睨んでも許されそうだが、今はそんな雰囲気ではない。

 第一おびえる少女をこれ以上怯えさせるのは得策とは思えない。

 余計に面倒臭くなりそうだ。


 などと考えながら、自分にしてはハイペースな食事が淡々と進んでいた。

 喉に欠片を詰まらせそうになりつつも、着実に飲み込んで皿の上のクロックマダムは小さくなっていく。


 そして最後の一欠片で皿の黄身をふき取り、欠片ともども食道に送った。

 締めくくりにわざとらしく満腹を表すため、ふう、と息をついた。


「ごちそうさま。美味しかったよ」


 おまけでちょっとだけ笑顔を浮かべておく。


「……全部食べちゃったのね。夢を見ているみたいだわ」


 でも、と言い訳の大群はどうやら立ち去ったらしい。

 シノは、神様が起こす奇跡を目の当たりにしたかのように、ぽかんとした表情を浮かべていた。


「残したらもったいないし?」

「もったいない……私の作ったものが……もったいない……」


 突然前触れもなく、シノの目がうるんだ。

 間もなくして、じわじわと溜まった雫が一滴零れ落ちる。


 一体どのセリフが地雷を踏んだのだろうか。

 傷つけるような言葉選びはしていないはずなのに。


「えっと、大丈夫?」


 焦る僕に、シノは静かに頷いて雫を拭う。二滴目は引っ込んでいった。


「美味しいって言ってもらえるの、慣れてないのよ。ごめんなさい、嬉し涙だわ」

「そ、そうなんだ……」


 適当な言葉が選べず、苦笑いで誤魔化す。

 ようやく恐怖が去ったのか、シノの表情は穏やかなものに変化していた。

 お化けがまやかしだと理解したらしい。


「ねえ、ユイ」

「ん?」

「夕飯も作っていいかしら。今度はこんな一品ものではなくて、品数のあるちゃんとした料理にするから」

「じゃあお願いしようかな」

「今日は無理だけれどお弁当も!」

「お弁当も?」

「……だめ?」


 上目使いの懇願こんがんをまさか拒否できまい。


「シノの好きなように作って。僕としては夕飯もお弁当も大歓迎だ」


 いきなり至れり尽くせりだな。

 了承を得たシノは頬を赤く染め、僕を真っ直ぐ見つめた。


「私、頑張るから。ユイに追い出されないだけの労働はするわ。でも、その、ね……」


 何かを言いたそうに口ごもる。

 言いたい言葉は容易たやすく思い浮かんだので、ここは先手を打っておこう。


「寝室の勉強机の上にブタの貯金箱があったでしょ?」

「ええ、とても古風で可愛らしい子がいたわ」

「あの中のお金は自由に使って。食材をそろえるのに必要だろうし」

「まあ。ユイは人を疑う事を知らないのね。あっさり許可が下りて驚きだわ」


 どうやら勘は当たっていたらしい。

 何をするにもお金は必要だ。料理を買うのにも、作るのにも。


「あれはフェイク用の貯金箱だからね。半年前かな。本宅のご子息様にごっそり生活費を盗られてさ。ひと月ひもじい思いをしたんだ。だからシノが持ち去っても支障はないんだよね。本体は別の場所に隠してあるし」

「あら、信用されていないのね、私ったら」

「疑ってはいないけどね」


 彼女はただの同居人だ。

 それ以上の感情はないし、持つ気もない。


「じゃあユイがいない間にお掃除するのは禁止行為かしら」

「別に? シノがしたいならどうぞ、気が済むまで徹底的にやって下さい」


 朝から喋るのは疲れるなぁ。

 干乾びた喉のために、ミネラルウォーターの入ったマグカップに口をつけた。


「机の引き出しには手を出さないわ。いかがわしい本が出てきてもそっと戻しておくから。重点的に綺麗にしたいのは水回りよ」

「よろしく。ばんばんやっちゃって」


 いくら探してもいかがわしい本は出てこないと思うけど。


「決まりね。お皿は私が片付けるわ。ユイはそろそろ着替える時刻よ? 宇臣高校一年生なんだもの、今日も学校はあるんでしょう?」

「平日だから当然、って今何分?」


 シノはスカートのポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認する。


「六時三十五分ちょうどを今過ぎたところ」

「うわ、急がなきゃ。後頼んだから」

「ええ」


 田舎故、汽車は基本的に一時間に一本だ。

 そう、夜浜町を通るのは電車ではない。

 ディーゼルエンジンで動く正真正銘の通称、汽車がまだ走っているのだ。


 この汽車、駆け込み乗車にとても寛容かんような点も特徴の一つに数えられる。

 迷惑行為すれすれだが、これまで車掌の善意に何度も助けられた。都会に住んでいる人なら腰を抜かす事実だろう。

 いい意味でも悪い意味でものほほんとした環境に僕は暮らしていた。


 十分以内に離れから出なければ、聖人のようにおおらかな心を持った車掌さんでも僕を置いていく。

 慌てて立ち上がり、台所を後にした。


 まだ制服にも着替えていない。

 行わなければならない事柄が複数残っているのだ。

 早朝から、ちょっとしたピンチに見舞われいた。


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