ピロフィリア 1-3
違和感を連れて、意識が覚醒する。
聞こえるのは鳥のさえずりと目覚まし時計の電子音。
今日も変わらず、午前六時に泣き喚くようにセットしたそれに叩き起こされた。
意識のない間にアラームを解除しなかった自分を褒めてあげたい。
ただ、二時間弱の睡眠では足りないぞと、脳が
無理やり開けたまぶたは重く、泥色の感覚を連れてくる。
いつも通り、僕はフローリングの床の上で寝ていた。
身体に薄手のタオルケットを巻き付け、座ったままの姿勢で。
ベッドはいまいち落ち着かない。
幼少期からの生活習慣のためか、床に座って寝る方が性に合うのだ。
いや、今はそんなことどうでもいいけど。やめやめ。
まだ寝ていたい、と訴える脳と身体を無視して大きなあくびをした。
足元で泣き喚く目覚まし時計を叩いて黙らせ、時刻を確認する。
いつも結構な力で叩いているが、どうやら壊れていないらしく、アナログ式の表示は午前六時ちょうどを指していた。
「……シノ?」
時計から目を離し、背を預けていたベッドを振り返る。
深夜連れ帰った少女の姿がない。
もしや逃げたのだろうか?
あまりに荒れた離れの惨状に嫌気がさしたとか?
うん、分からないでもない。
いない事実を確かめた後、深夜三時に巡り合った少女についてゆっくり考えてみる。
深夜三時の家出少女。ほぼ強制的に連れ帰ることになり、火災の様子を観察しながら川へ到着した。川で先頭交代し、無事離れへ。
そう、あの時、木々が茂った庭の離れへ招いたのだ。
広大な敷地を誇る、宮脇家の薄汚い離れに。
月のような少女は、家なんて住めたらいいと言っていたっけ。
しかし。
干渉を受けない環境だからシノも見つからないと踏んだのだが、当の本人が早々に姿を消した。貸したベッドの上にもいない。
もう一枚のタオルケットも綺麗に畳まれ、使われた形跡が無い気がする。
しかも現在、部屋には僕一人だけだ。
「何か盗られてたりして……」
身体に巻き付けていたタオルケットを剥がし、立ち上がった。
今いるのは十畳の、広さだけはある簡素な洋室。
部屋の奥に置かれた勉強机と窓際のベッド、本棚にクローゼットの引き戸しかない、一人には有り余る空間だ。
「あれ?」
なんとあの、はち切れんばかりに膨らんだボストンバッグと学生カバンが置かれているではないか。
学生カバンは相変わらず膨らんだままだが、ボストンバッグは少しだけ膨らみが小さくなっている。
僕が運んだ際の重たそうな状態は解消され、よくあるボストンバッグの膨らみに戻っていた。中から何が出ていったのかは知らない。
まあ、カバンがあるのだからシノもどこかにいるのだろう。
その点は確定した。ちょっとした進歩だ。
一度伸びをして、僕はシノを探しに移動を開始した。
着替えずに眠ったため、深夜と同じ服装のままドアノブをひねる。
もしかしたら、朝からシャワーでも浴びているのかも。
だってほら、女の子だし。
呑気な思考のままドアを開けると、唐突に香ばしい匂いが
食欲を刺激する匂いは廊下に充満し、僕に纏わりつく。
何の匂いだ、これ。どこから発生してるんだ?
もしかして、火事?
いや、火事のあの臭いとは違うのか……?
クエスチョンマークは増えるばかり。
答えは見つからない。
加えて、匂いには包まれているが、シノの姿がない。
部屋を出ると、廊下の反対側にはトイレとお風呂がある。
左手側を突き当たりまで進めば台所だ。
その道中にはずっと放置されている物置もある。
右手側へ進めば蜘蛛の巣の張った玄関が待ち構えている。
先程からの香ばしい匂いは、左側の台所から発生しているのではないか。
恐らくだが、匂いの濃さは左側の方が強く感じた。
火が燃えた時の、つんとした鼻につく臭いではない。
油臭さもないし、木材を燃やした際に発生する特有のはじける音もしない。
危険性はないだろうと判断して台所へと歩いた。
まるで血の香りに誘われる、飢えた獣のように。
廊下の突き当たりには、すりガラスのはまったドアがある。
それを引けば台所だ。
ふらふらと誘われた僕はドアを引く。
目の前に広がるのは、現代風に言えばいわゆるダイニングキッチンの類。
手前には四人がけのテーブルセットが待ち構えている。
奥には旧式の台所があり、探していた少女の後ろ姿が見えた。
長い髪をポニーテールにしたシノは、ドアの音に気づいて振り返る。
「あら。おはよう。朝ごはん出来てるわよ」
長い髪がゆらりと揺れ、シノは微かに口角を上げた。
「朝ごはん? 作ったの?」
一体全体どうやって?
僕の疑問にシノは白い平皿を持ってテーブルへ移動する。
「ええ。言ったでしょう? 泊めてもらえる限り、家事は私がするって。簡単なもので悪いけれど」
果たして、手に持っている白い皿はどこから出てきたか。
台所には壁面に収納棚がいくつもある。
ある事はあるのだが、僕はそのほとんどを開けてすらいない。
離れに暮らしてもう長いが、こんな食器が潜んでいるなんて全然知らなかった。
呆然とする僕は相当
しかも、その驚きの元凶である皿の上のものが、次なる
食物や料理に関する知識がほぼないので、例えが合っているのかは定かではない。と先に断っておく。
シノの持つ皿の上には、中心に長方形をした蜂蜜色の物体が置かれていた。
どうやら見た目からして食パンに何かを塗ったものの類だ。
ただし、何の変哲もないバターを塗ったトーストが置かれているのではない。
食パンには半熟の目玉焼きが乗っており、ふるふると揺れていた。
それに、食パンは二枚重ねにされていて、中心からは白や黄色や紅色がはみ出ている。
サンドイッチと言えばいいのか、調理パンと言えばいいのか。
どこかで見たことがある気もするが、正しい名称を知らなかった。
名称不明の食パンには香ばしく焼き色がついている。
間違いなくこれが匂いの元だ。
「気に入らない、かしら?」
僕が皿の上のものに熱い視線を注いでいると、シノは不安そうに尋ねた。
「いや、びっくりしただけ。どうやって作ったの、これ? 出来上がるタイミングもぴったりだしさ」
「目覚まし時計のセットされた時刻が六時だったから。六時を目標にして取り掛かったの。ぴったりって言ってもらえると悪い気はしないわね。……冷蔵庫にミネラルウォーターしか入っていないとは思ってもみなかったけれど」
「あー……。うん」
大型の冷蔵庫があるのに、宝の持ち腐れも甚だしい。
以前の住人が置いていった冷蔵庫や電子レンジ、オーブントースターに炊飯器。
望んでいないそれらは故障せずに一通り揃っている。
まあでも、正直に言って僕の生活には必要のない文明の利器だった。
まともに使っているのは風呂場の洗濯機くらいだ。
活かしきれていない冷蔵庫には、普段からミネラルウォーターだけが入れられている。本当にそれだけで、その他の食材が入ることはめったにない。
よって、料理なんて不可能なのだ。
「慌ててコンビニへ走ったわよ。もう、信じられない」
「ごめん。自炊の習慣がないもので……」
なるほど、コンビニがあったか。
明らかに呆れながら、シノは皿をテーブルに置いた。
「水、飲むでしょう?」
「お願いします」
冷ややかな口調に対してとりあえず畏まってみる。
するとシノはくるりと方向転換して、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
そして、シンクの隣に置かれた水切りかごからマグカップを指に引っ掛けて持ち、テーブルへ戻った。
マグカップもどこから出てきたのだろう。
不思議がっている間に、中身の注がれたマグカップが皿の隣に並んだ。
「ユイ、あなた、今まで食事はどうしていたの?」
「ええと……主にコンビニ弁当とカップ麺、かな」
わあ。嫌な予感がするぞ。
「自炊は? 習慣はなくても時々はしているんでしょう?」
「いや、生まれてこの方一度も」
「一度もって……。まさか、毎食コンビニ弁当やカップ麺なの?」
「朝は食べないし、昼は学校の購買で売ってるパンだし、夕食だけだよ? 平日は」
土日祝日は二食コンビニだったりする。
「ふざけてるの?」
「まさか。作りたての手料理を食べた記憶がないくらい、コンビニのお世話になってるってだけ」
「……信じられない」
短い間に、再び信じられないを頂いてしまった。
世間様から見て不健康な生活の
添加物満載の弁当やカップ麺を食べ続けると、死んだ時身体が腐らない、などと
でも、だからなんだ。
どうせ疎まれているし、長寿を願う意思も意味もない。
それにあれだ。
僕にとって料理と呼ばれる一連の作業は難易度が高すぎるのだ。
カップ麺に沸かしたお湯を注ぐのが精一杯。
お蔭さまで、台所は得体の知れない染みや水垢に支配され、至る所に
まさに名ばかりの台所だった。
「座っても、いいのかな?」
じっとりと睨まれ、居た堪れない。
イスを引いて着席の許可を請う。
「冷めてしまう前に、どうぞ」
許可が下りたので「どうも」とイスに座る。
遅れてシノも向かい側の席に座った。
睨まれたくないなぁ、とシノからそらした視線の先には、色がはみ出た食パンが鎮座している。
蜂蜜色、白色、紅色。
じっと見つめ合ってから、皿とセットで並んだナイフとフォークに視線を落とす。
「これって、ナイフとフォークで食べるものなの?」
「手で食べたらベトベトになって汚いわよ? 切り分けて食べて」
ほう。これはまたおしゃれな。
名前を知らないまま塊をじっくり観察してみる。
まだ温かく、生唾を飲み込ませる朝食は僕を釘づけにしていた。
「クロックマダムっていうの。ベシャメルソースを塗った食パンでハムとチーズをはさんで、上に玉子を落としただけ」
「べ、べしゃべしゃ?」
未知の生物みたいな名称だ。
「ベシャメルソース。知らない?」
「生まれて初めて聞いたよ」
「じゃあ食べるのも初めてね」
「そうですね」
フォークの先で玉子をつつく。逃げるような動きで玉子は震えていた。
「もしかして、嫌いなものがあった?」
「いいや? 好き嫌いはしないタイプなので」
嫌いなものもなければ好きなものもない。ゲテモノ以外なら大体食べられる。
それにしても、コンビニってべしゃ何とかの素まで売ってるんだ。通い続けていたけど、知らなかった。
僕の関心は一瞬だけ、コンビニの品揃えに注がれた。
いや、そもそも得体の知れないべしゃ何とかソースの内容も知らないけれど。
「そう。あ、あのね、私、本当はもっとちゃんとした献立も作れるのよ。でも今朝は食材が限られていて……その……」
責めてもいないのに言い訳が始まり、語尾が掠れ消える。
妙な変化に再びシノに目線を戻した。
いつの間にか、先程までの強気な表情が消えている。
恐怖や怯えに染まった瞳は
一体どうしたのだろうか。
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