第33話

 窓の下はベッドだった。

 淡いピンクを色調にしたカバーの布団の上に僕は不時着していた。

 腹の下にあるのは……佐伯の膝だった。


 クハハハ。

 頭上から佐伯の笑い声が聞こえる。


「誰がジュリエットだよ」

「え?僕そんなこと言った?」


 声に出していないと思っていたが、知らないうちに出てしまっていたのだろうか。

 僕は全身を火で焙られているような熱さを感じていた。

 穴があったら入りたい。

 入ってきた窓から今すぐ外へ逃げ出したい。


「何でもいいけど、重いからどいてよ」


 屋根から落ちそうだったな、光太郎。

 プククク。

 佐伯は僕を突き飛ばすと口に手を当てて声を押し殺すように笑った。


 デジャブを見ているようだった。

 観覧車の籠の扉が閉まる音が耳に甦る。

 結局僕は何をやっても不格好になってしまう。

 笑われても仕方がない、と自分が少し嫌になる。

 僕は靴を脱いでベッドに正座した。


 佐伯はグレー地にピンクのラインが三本走ったジャージを着ていた。

 笑う口を覆う手の甲に少し絵具が付着している。


「ようこそ、あたしの部屋へ」


 佐伯はベッドの上で膝に抱いた枕を押し潰すように深くお辞儀した。「感想は?」


「んー、そうだなぁ」


 僕はおずおずと部屋を見回した。

 あまりじろじろと見てもいやらしい感じがする。


 きちんと整頓された勉強机があり、その脇にある本棚には図鑑のような分厚い本が何冊も並んでいる。

 ベッドがあってタンスがあって部屋の中央に小さなテーブル。

 その上に置いてあるコップの中からは湯気が立っている。


 見渡した限り話題の取っ掛かりになりそうなものが何もない。

 余計なものを置かない主義なのだろうか。

 それはサバサバした性格の佐伯にはぴったりな気がした。


「なんだか小ざっぱりしてるね」

「そうだよね。何も置いてないからな」

「向こうの部屋は?」


 隣の部屋の引き戸が人が通れるぐらいに開いていて、一面に新聞紙が敷いてあるのが見える。


「あっちは作業スペースって言えばいいかな。あそこで絵を描いてるの」

「アトリエってやつだね。見ていい?」


 恐る恐る伺いを立ててみる。


「ダメに決まってるだろ」

「だよね」


 即座の却下が逆に気持ちがいい。「途中だった?邪魔してごめん」


「いいの。絵は中断して丁度ご飯食べ終わったところ。それよりもどうした?いつもはあたしが誘っても来ないくせに」

「うん。……ちょっとね」


 僕は曖昧に濁した。

 「ちょっと聞いてよー」っていうノリで喋るような性格でも話題でもない。

 しかし、ここまで来たのに話さないわけにもいかない。

 でも何から。


「ちょっと待ってて。お茶淹れるから」


 話しづらそうにしている僕を見かねたのか、佐伯は立ちあがった。「そう言えば光太郎って晩ごはん食べたの?」


「えっと、その……」


 嘘をつくこともできたが、身体が食べ物を欲しがっていて一瞬間ができてしまった。

 僕のお腹はこれ以上ないぐらいに減っていた。


「まだ食べてないの?」

「あ、いや、その……コーラは飲んだ」


 そう言うと佐伯は眉を八の字にして肩を落とした。


「また、コーラ?とにかくちょっとそこらに座って待ってて。この新聞紙の上に靴置いて。こういうとき、うちって飲み屋だから便利なんだ」


 佐伯は僕に新聞紙を手渡しテーブルの横に座るように指差すと、アトリエではない方の引き戸を開いて消えていった。階段を下りていく音がする。


 間もなく現れた佐伯は盆にご飯に味噌汁、トンカツ、キンピラごぼう、ポテトサラダを載せてきた。


 それぞれのにおいが僕の鼻腔をくすぐり唾液が一気に溢れ出す。


「あたしじゃなくて、お母さんが作ったやつだから美味しいよ」


 佐伯は自慢げに小鼻を膨らませる。


 目の前に箸を置かれると、僕は合掌してすぐさま茶碗に手を伸ばした。


 佐伯は下で何と説明してこれだけのものを持ってきてくれたのだろう、と疑問が過ぎったが、それは後で考えることにした。


 店を営んでいるだけあって、どれもこれもさすがの美味しさだった。

 揚げたてのトンカツを口に入れたときには豊潤な肉汁の広がりに思わず目を閉じてしまった。

 家でも揚げものを食べないわけではないが、いつもはスーパーの総菜をレンジで温めるだけのもので、佐伯の母親が作ったものと比べると、同じ料理とは思えないぐらいに味に隔たりがあった。

 僕は母さんが事故にあってからろくなものを食べていないことを実感した。


 そのとき階下から佐伯を呼ぶ女性の声がして、僕は食べているものを喉に詰まらせた。


 きっと佐伯の母親だろう。

 ここに来るのだろうか。

 だとしたら今度こそしっかり挨拶しないと。

 はたして知らないうちに娘の部屋に忍び込んで夕食を食らう不届きな輩に挽回の余地は残されているのだろうか。


「なーにー?」


 佐伯が階段に向かって大きく返事する。


 僕は咳き込みながら神経を集中して耳を澄ました。


「梨があるからお友達に食べてもらいなさい」

「はーい」


 佐伯は盆を持って勢いよく立ちあがると「お茶も持ってくるから食べてて」と言い置いて、また階下へ去っていった。


 僕はほっと胸を撫で下ろし、味噌汁で喉の痞えを飲み下した。


 味噌汁の椀を置き、じっとテーブルを見つめる。

 胡坐から正座になって考えてみる。


 日が暮れてから突然現れ、隣家の塀から屋根を伝って二階に入りこみ、顔も見せずにご飯を食べる。

 これで良いのだろうか。

 良いはずがない。


 僕は立ちあがって靴を手に階段まで歩いていった。

 下からは様々な料理のにおいとともに何かが煮える音や話し声が立ち上ってくる。


 行こう。


 緊張はするが顔を見せしっかり挨拶をするのが当然の礼儀なのだから。


 階段に足を伸ばしたとき、突然佐伯の母親と思われる女性の「何するのっ!杏奈っ!」という甲高い緊迫した声が響いた。


「もう一度言ってみろよ!」


 今度は佐伯の怒りに満ちた声が聞こえてきて、僕は何事かと階段を駆け降りた。


 一階は静まり返っていた。


 恐る恐る顔を出すと、佐伯の背中が見えた。手には空のコップを持っている。


 彼女の肩越しにカウンターに向かって座る背広を着た中年の男性がおしぼりで顔を拭っているのが見える。

 肩口には黒い染みができていた。


 カウンターにビール瓶が載っている。

 佐伯がグラスのビールを背広の男性にかけたのだろうか。

 座敷にいた作業着姿の二人の客がぽかんとした顔でカウンターの方を眺めていた。


「杏奈!謝りなさい」


 カウンターテーブルの向こう側に割烹着姿の女性が青ざめた表情で立っている。

 あの佐伯の絵に出てきた女性に似ている気がした。


「いや、いいんだ」


 その男は女性に向かって手を上げて制した。「でも何が気に障ったのかな?」


「分かってないの?」


 佐伯は蔑むような、嘲るような態度だ。「あんた、それでも医者なの?」


 言われた男は苦笑を浮かべる。


「一応そのつもりなんだけど」


 そう言って佐伯を見る男の視線が少しずれて、僕と目があい、おや、という表情になる。


 僕はその男を知っていた。

 男は母さんの病室で見た柳田という名のぽっちゃり顔の「その道の権威」だった。


「面白いってどういうことよ」


 佐伯の言葉に柳田がハッとした顔になる。


「それは。そういうつもりで言ったんじゃ……」

「患者さんが面白いはずないでしょ。患者さんの家族にとって病気や怪我が面白いはずがないでしょ」


 チラッと僕の方を振り返った佐伯の頬は涙で濡れていた。「光太郎に謝れっ!」

 

 身体を振り絞るようにして発した佐伯の涙ながらの叫び声は、店内に鋭く響いた。


 誰もが凍ったように固まっていた。

 ぐつぐつと鍋が煮える音がしていなかったら、時間が止まっているのかと錯覚してしまいそうだった。


 柳田が佐伯の母親か他の客との会話のネタに僕の母さんの病状を使ったのだろう。

 「毎日決まった時間に自然と目が覚め、二時間ほど経つと眠ってしまうっていう面白い症例があってね」といった具合に。

 それを聞いた佐伯が激怒したというのが事態のおおよそのところなのだろうと僕は想像していた。


 僕は佐伯の髪を逆立てるような憤りと、それに伴う涙に圧倒されていた。

 自分が襲われた時でさえ気丈に振る舞ったあの佐伯が、感情を抑えきれずに涙を見せるとは。


 僕はピクリとも身体を動かすことができず、目の前の光景に呆然とするだけだった。

 呆けた頭で思ったことは、どうして彼女はこんなにも怒っているのだろうか、ということだった。

 確かに医者が自分の患者の症例を酒の席で話題にするということは少し不謹慎ではあると思うが、ここまで全身で非難の感情を露わにするというのは度が過ぎているのではないだろうか。

 ましてや佐伯にとっては自分の母親のことではないわけだし。


 そう考えたところで僕は一つの仮説に思い至った。

 この医師は佐伯が教えてくれた新しい父親なのではないか。

 そうでなければいくら頭に来たからと言っても、自分の母親が経営している店の客に向かっていきなり顔にビールを掛けたりしないだろう。

 少なくとも佐伯は柳田が医者であることを知っていたわけで、佐伯がため口であることを考えると、やはりある程度佐伯と柳田が親しい間柄であることは間違いなさそうだ。


 新しい父親を迎える思春期の女子が胸にため込み膨らんだ葛藤。

 それが一つのきっかけを得て、風船に針が刺さったように割れてしまったのかもしれない。


 それにしても、と僕は思った。


 佐伯が僕や僕の母さんのことでこんなにも怒っている。

 怒ってくれている。

 それは突発的な出来事に対する驚きで痺れていた僕の感情に、少しずつ嬉しいような気分をもたらしていた。


 柳田が項垂れたまま佐伯の脇を通って僕の方へ歩いてきた。

 正面に立つと「申し訳ない」とゆっくり頭を下げた。

 童顔がしょんぼりしていてひどく頼りない。


 こんな大人にどう接したら良いか分からず、救いを求めるように佐伯に目をやる。

 しかし佐伯は僕に背中を見せたままで、まだ泣いているのか時折肩を上下に揺すって鼻を啜るだけだった。


 そのとき電話の着信音が僕の目の前で鳴った。

 柳田の胸ポケットの中の携帯電話が着信していた。

 柳田はもう一度僕に頭を下げると、電話を耳に当て壁の方に向いた。


「どうした?……うん。……何だって!」


 柳田が瞬間的に僕を振り返る。その目は大きく見開かれていて、告げられている内容の重大さが嫌でも伝わってくる。

 彼の表情が急速に引き締まり目に鋭い光が宿っていく。


 柳田はまたすぐに壁に顔を向け、今度は小声で何かを相手に訊ねている。

 「バイタル」という単語だけが聞き取れた。


 彼が僕を振り返った意味は何なのか。

 電話の用件が僕に関係することなのか。

 彼と僕との間にあるものは母さんのことしかない。

 母さんに何かあったのか。


 僕が耳をそばだてながら医師に一歩近づこうとしたとき、「すぐ行く」と言って電話を切った柳田が再度僕に向き直った。

 その顔には何か大きな仕事を前にして、それから逃げずに立ち向かわなくてはならないという覚悟と、絶対にやり遂げるという決意のようなものが滲み出ていた。

 そこには先ほどの頼りなさは微塵も見当たらない。


「光太郎君、落ち着いて聞いてくれ」


 柳田は右手を僕の肩に置いた。


 僕はその手と「その道の権威」の表情の重さに声が出ない。


「どうしたの?」


 目じりをジャージの袖で拭いながら佐伯が近寄ってきた。

 彼女も電話の中身が緊迫した状況であることを察知したようだった。


「君のお母さんが危篤だ。状況は正確には掴めていないが、事態は切迫している。僕は今から病院に戻る。君も来るんだ」


 柳田は佐伯の母親に顔を向けた。「ここからだと何で行くのが一番早い?」


「タクシーを……」

「自転車よ!」


 佐伯が母親の言葉を遮るように叫ぶ。「渋滞してるかもしれないし、自転車で大通りまで出て走りながらタクシーを探すのが確実で早いわ。私の自転車使って」


 こっち、と佐伯は厨房から裏手へ走り出す。

 柳田は彼女に従ってついていき、僕は慌てて店の入り口から外へ出て、道路脇に止めてあった自分の自転車にまたがった。


 母さんが危篤?

 どうして、急に。

 一体何があったんだ。


 すぐに通路の奥から自転車を押して現れた柳田は僕に向かって一つ頷くと、剽悍に自転車に飛び乗り駆けだした。


 柳田に母さんについて何か訊ねたいと思ったが、その何かが多すぎて即座には選べなかった。

 とにかく今は病院に向かうこと。

 負けじと僕もいきなり全力でペダルを漕いだ。


「私もすぐ行くから!」


 背後で佐伯の声が聞こえたが、手を上げて応える余裕はなかった。

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