第34話
病院の敷地に突っ込むと柳田は自転車から飛び降りた。
勢いで身体がよろめき転びそうになるのを片手を地面についてこらえた。
乗っていた佐伯の自転車はすぐに横転して派手な音を立てて建物の壁に激突する。
しかし、柳田はそちらの方には目も向けず、「夜間出入口」の表示に向かって駆けていく。
僕も見習って自転車から飛び離れる。
しかし、柳田のように手をついてこらえることはできず、身体が横倒しになる。
膝や肘、肩に痛みが走る。
乳酸が溜まっているふくらはぎがぴくぴくと痙攣している。
人生でこんなに自転車を漕いだ日はない。
僕は全身で息をしていた。
胸が激しく膨らんだりしぼんだりを繰り返しているのを見ると、自分の身体に大きな風船が入っているような気がしてくる。
浮き上がる力を失った風船。
気流に揺られて地面に這いつくばる。
もう立てないかもしれないと思うぐらいに筋肉が疲労している。
仰向けに倒れ込みたくなる。
しかし、そんなことは言っていられない。
僕は血の味がする粘性の高い唾液を地面に吐き捨て、懸命に身体を起こして柳田の後を追った。
母さんの病室に向かって廊下を走っていると、どこかを指差し何かを指示しながら走る柳田の姿と、その先に白衣を纏った数人がストレッチャーを押していくのが見えた。
「母さん!」
僕は全身を使って声を張り上げた。
母さん。
母さん。
「光太郎君!早くっ!」
柳田が僕の声に立ち止まって手を挙げる。
その間にもストレッチャーは先へ進んでいく。
僕は必死に足を動かした。
身体がばらばらになりそうだった。
気持ちは先を急いでいるのに、足が前に出ず何度も転びそうになる。
「柳田先生!」
看護婦が金切り声で叫ぶように柳田を求める。
「分かってる。すぐ行くっ!」
怒鳴るように返事をして柳田も再び走り出した。
ストレッチャーが角を曲がっていく。
母さんが消えていく。
「母さん!母さん!」
叫ぼうにも肺に空気を取り込めず、口をパクパクさせるだけで声にならない。
柳田はストレッチャーが消えていった曲がり角で再び立ち止まり、僕を振り返る。
「光太郎君。早く!もっとお母さんに呼び掛けるんだ!」
足に力が入らない。
宙を踏むような感覚だ。
僕は自分の身体を制御することができず、そのままぶつかるように柳田にしがみついた。
柳田は僕が倒れ込んで抱きついても、大木のような安定感でびくともしなかった。
恐ろしいほどの腕力で二の腕を掴み僕を抱え上げる。
引きずられるように僕は前進した。
「先生!」
ストレッチャーは大きな扉の前で止まっていた。
医師や看護婦が次々に柳田を呼ぶ。
僕は最後の力を振り絞って足を動かした。
ストレッチャーに手を掛け廊下に膝をつき母さんの顔を覗き込む。
母さんは酸素マスク越しにも明確に分かるほど血の色がなかった。
そこから想起するのは死の一文字だけだった。
僕は怯んだ。
この二年間ずっと恐れていた最悪の事態が僕の目の前で今まさに現実になろうとしていた。
もうダメなのか。
手遅れなのか。
一定のリズムで酸素マスクの内側が微かに曇るのだけが母さんが生きている証拠だった。
弱々しいシグナルで、まだ母さんがこちらの世界にいることを教えてくれる。
頭上で柳田が他の医師たちと激しくやり取りをしている声が聞こえる。
何を言っているのかは良く分からないが、柳田の声は凛としていて聞いている人間を鼓舞させる気迫があった。
僕もその声に我を取り戻す。
「母さん!母さん、起きろよっ!」
僕は懸命に母さんを呼んだ。
たとえ起きていられる時間が毎日一分だけになってしまうとしても、死んで目の前からいなくなってしまうのとはまるっきり違う。
ただ生きてほしい。
それだけで良い。
そういう思いで僕はあらん限りの声を振り絞った。
しかし、僕と母さんの間には絶望的に深く広い河が横たわっているようで、僕の叫びが向こう岸の母さんの耳に届いている手ごたえは全くない。
扉が開き僕を置き去りにして母さんを載せたストレッチャーは中へ滑り込んでいった。
「心配するなっ!後は任せろ」
扉の向こうからの光を背に、柳田は僕に向かって大きく頷きストレッチャーを追う。
扉が静かに閉まり僕は力なく廊下に座り込んだ。
どれぐらいそうしていただろうか。
足音が聞こえたかと思ったら不意に誰かに腕を掴みあげられた。
「あっちに座ろ」
見上げると佐伯がいた。
佐伯に掴まれた二の腕が鈍く痛む。
先ほど柳田に抱え上げられたときに握られたところだ。
あの童顔に不釣り合いな強靭な肉体。
医師とはあれほどまでに頑健でなければならないのだろうか。
僕は佐伯に引き起こされるように立ち上がり、ゆらりと足を運んで廊下に据え置かれている長椅子に腰を下ろした。
「きっと大丈夫だよ」
佐伯がちょこんと僕の隣に座る。「あいつ、腕は確からしいから」
僕は佐伯の励ましに何も応えられなかった。
身体がくたくただった。
喉が渇いて声も出なかった。
顎からぽたりぽたりと水滴が落ちる。
汗は両方のこめかみから頬を伝って幾筋も流れていた。
僕は服の袖を使って顔全体を拭った。
「実はあいつがあれなんだ。何ていうか、その……、あたしの父親なの。あいつ、今は奥さんがいるんだけど、離婚してあたしのお母さんと結婚するんだって。まだ離婚が正式に決まってないから別々に暮らしてるけど、そのうちあいつのマンションで一緒に住むことになると思うから。そしたらそっちにも遊びに来てね」
佐伯は長椅子から立ち上がった。
廊下に貼られているポスターを見るとはなしに目をやったり、長椅子の横に立ててある背の高い観葉植物の葉をつまんで裏側を覗いたり落ち着かない。「事情は良く分からないけど、あいつ本当にあたしがいること知らなかったみたいなんだ。お母さんがあたしを身ごもった頃に、あいつ親の圧力に負けてお母さんと別れて政略結婚みたいなことさせられちゃったんだって。情けない奴だよね。でも、一年ぐらい前に偶然お母さんと再会して、しかもお母さんに中学生の娘がいることを知って。それで東京の方の大病院の次期院長の椅子を捨てて、こっちに転勤してきたんだ。あたしたちもそれについてきたって感じ。あたし、あいつが不倫でお母さんと付き合ってて、あたしを妊娠させたってことだったら気持ち悪くて絶対に許せなかったけど、不倫じゃなかったみたいだし、お母さんも喜んでるみたいだからさ……」
不倫?
そうだ。
不倫なんか許せない。
気持ち悪い。
僕は膝の上で強く拳を握った。
玄関の女物の黒い靴。
父さんと坂本先生の唖然とした顔。
ドアを閉めた時に響いた激しい音。
僕の頭の中で記憶が映像となって鮮やかに蘇る。
「もうちょっとうまくやらなきゃいけないって思うんだけど、あいつを目の前にするとそこらへんがうまくいかないんだよなぁ。あれ?光太郎、聞いてる?」
僕の胸の辺りは染みができていた。
汗は一向に治まらない。
心臓が強く速く打っている。
父さんは今何をしているのか。
母さんが生死をさまようような状況下にいるのに、その夫が傍にいないなんて。
廊下の向こうから誰かが走ってくる音がした。
直感的にそれが誰だか僕は分かっていた。
床を蹴る音と息づかいが聞こえてきて、やがて予想通りの人が僕の前に姿を見せる。
「光太郎」
ハァハァと廊下に響き渡るような呼吸を繰り返しながら父さんは掠れた声で問いかけてくる。「母さんは?」
僕はゆっくり父さんを見上げた。
怒りの熱と蔑みの冷やかさを視線に思い切り込めて。
この念で呪い殺してやるつもりで。
父さんは膝に手を置き肩を激しく上下させていた。
顔が汗で光っていた。
急いで駆け付けてきたのは間違いないようだ。
僕たちはそれから無言のまま視線をぶつけ合った。
ぶつけ合うと言っても父さんの眼差しを僕が一方的に跳ね返すような心境になっているだけであり、僕が父さんの問いかけに何も言葉を発しないから沈黙が生まれているのだが。
「あの……」
佐伯が場を取り繕うように僕と父さんの脇に立った。「私、佐伯と申します。光太郎君のクラスメイトで、光太郎君にはいつもお世話になってて」
ああ、どうも。
父さんは身体を起こして袖で顔の汗を拭いながら佐伯に向かって軽く会釈した。
自己紹介が終わってしまうと、佐伯は言うことが見つからないのか小さく唸るように喉を鳴らしてゆっくり項垂れ、視線だけ僕の方に向けてきた。
「手術中なのか?」
父さんが再び僕に問いかけてくる。
そうであることは扉の上の「手術中」のランプが点灯しているのを見れば分かるだろう。
僕は一向に口を開く気力が湧いてこない。
父さんは扉の上の赤いランプを見上げた。
「脳梗塞だなんてなぁ」
その言葉に僕は衝撃を受けた。
僕は初めて母さんが何で倒れたのかを理解した。母さんの脳の血管が詰まってしまったということか。
脳梗塞。
言葉は知っているが、それがどれぐらい重篤なもので具体的に何を意味しているのか僕には良く分からなかった。
それでも僕の中でぼんやりしていたものの一部がすっきりした気がした。
僕は母さんの脳に向かって祈りを捧げた。
両手を組んで目を閉じ手術室で横たわっているであろう母さんの頭部を自分の頭の中に浮かび上がらせ、そこへ僕の気力を注ぎ込むようなイメージを作り、それに集中しようとした。
「そんな前兆あったか?」
僕はその一言にカッとなって顔を起こした。
他人事みたいに言いやがって。
「そんなことあんたが一番知ってるべきだろ。僕に訊くな!」
今さら心配するなら普段からもっとしっかり自分の目で自分の妻の状態を確認しておくべきだったのだ。
こんな状況になってから眉間に皺を寄せて顔を曇らせたって事態は何も改善しない。
佐伯が僕の隣で息を飲んだのが気配で分かる。
そっと僕の腕に手を触れる。僕は佐伯のそんな優しさも疎ましく思えた。
一度声を発したら腹の奥から言いたいことが湧き出てきて止められない。
「大体、今までどこで何してたんだよ。母さんが危篤だっていうのにあんたは何をしてたんだよ。今頃になって家族面して現れたって意味ないんだ。あんたに母さんのことを心配する資格なんてない!」
僕は声を震わせながら言い放った。
悔しいのか不安なのか分からないが、一気に胸が詰まって目の奥が熱くなった。
「光太郎、ちょっと言い過ぎ!」
佐伯が僕の袖を強く引っ張り、小声で僕を叱るように言った。
僕はそれを振り払って立ち上がり父さんを睨みつけた。
そのとき僕は自分の身長が父さんにほぼ追いついていることを初めて認識した。
「お前を探しに走り回ってたんだろうが!お前こそどこ行ってたんだっ!」
え?
思いもよらない父さんの言葉に僕は返す言葉がなかった。
確かに僕は行き先も告げずにドアを叩きつけ、父さんから逃げるように街を走り回って夜になっても帰らなかった。
逃げるように?
つまり僕は心のどこかで父さんが追いかけてくるだろうと思っていたということか。
そして実際に父さんは僕を探していた。
とすれば父さんがここにくるのが遅れたのは僕のせいでもある。
それなのに卑劣な僕は罠にはまった父さんのことを意地悪くなじった。
「坂本先生も探してたんだぞ。学校で何か難しい問題が起きたんだろ?それを解決するために、まず光太郎君に謝りたいからってうちに来て、ずっと待ってらっしゃったんだ。光太郎君は冷静だから話を聞いてもらって、これからのことを相談したいっておっしゃって。それをお前は帰ってくるなり、いきなり逃げ出すように消えやがって」
父さんの目は大きく見開かれ、こめかみや額に血管が浮かび上がっていた。
僕は父さんの目を見つめ返すことができなかった。
怒りに満ち満ちた父さんの顔を怖いと思った。
殴られることを覚悟した。
僕は完全に尻尾を巻いていた。
身長が並んだからと言って中身が伴っているわけではないことを痛いぐらいに思い知らされた。
僕は背骨を抜かれたように身体を支えることができなくなって、音を立てて長椅子に尻を着地させた。
また廊下を誰かが走ってくる音がする。
現れたのは一人の看護婦だった。彼女は僕たちに向かって軽く会釈すると、そのまま手術室に向かっていく。
「ちょっと、すいません」
父さんが行き過ぎようとする彼女の腕を懸命に捕まえる。「すいません。すいません」
「何ですか?」
彼女の声は焦りを帯びているように聞こえる。
身体は父さんに向けながらも、気持ちは手術室に向かっているような感じだ。
「どうなんでしょうか?容体は」
「詳しいことは分かりません」
「妻は……妻は死んでしまうんですか?」
父さんの声は震えていた。
鼻を啜る音がする。
「分かりませんけど……」
看護婦は突然泣き出した中年の男を前にして腰がひけていたが、声は自信を取り戻していた。「執刀医は脳外科に関して世界屈指の優秀な医師です。その技術に対する信頼は厚く、世界各国から求められてメスを握っています。私たちも柳田先生の腕を誇りに思っています。先生ならきっと大丈夫です」
彼女は父さんに一礼して手術室に消えていった。
「お願いします」
父さんは深く頭を下げた。
その目から涙が光って零れ落ちた。
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