第32話

 地元の駅について少し平静を取り戻した僕は、今日も一緒に病院に来るか佐伯に訊ねてみた。

 やはり佐伯とサヨナラするのを少しでも先延ばししたい気持ちがあったからだ。

 佐伯が来れば母さんも喜ぶだろうし、刺激があって母さんの体調に良いように思えたということもある。


 しかし、佐伯は「今日は早くこの絵具を使ってみたいからやめとく」と言って軽く買い物袋を叩いて見せた。

 勇気を振り絞って訊ねてみた僕の心中を忖度する素振りを全く見せないところが佐伯らしかった。


 小走りに去っていく佐伯の背中を見送りながら、僕は肺の奥から息を吐き出した。


 寂しいけれど、どこかほっとしていた。

 とにかく全身が疲労していた。

 脳もぐったりしている感じだった。

 股間が少し濡れていて冷たかった。


 母さんが目を覚ますまでまだ時間がある。

 少し一人になって心を落ち着かせたいと思った。

 僕は一旦家に帰ることにした。


 家までの道すがら、僕の頭の中は観覧車での出来事がぐるぐる回っていた。


 佐伯の目、唇、髪、腕、指、胸、太腿、膝。

 その全ての記憶が僕の胸を高鳴らせた。


 僕は再び勃起していた。

 自転車を漕ぎにくくて仕方がなかった。


 僕は……。


 佐伯のことを好きになってしまったのだろうか。


 明確にイエスとは答えられない。

 しかし、ノーと言うのは抵抗があった。

 佐伯のことが頭から離れないのは、先ほど佐伯から女を強烈に感じてしまった余韻だろうか。


 僕は陽平のことを考えた。


 僕ははっきりと佐伯のことを好きだとは言えないのに、彼女を押し倒したいと思った。

 彼女の肌に触れたいと願い、それができないことに胸苦しかった。

 僕と違って本人に告げることができるほど明確に陽平は佐伯のことが好きなのだ。

 そして行動に出てしまった。


 僕には陽平のことを蔑む資格などないと思った。

 陽平がしたことは正しいはずはないが、今の僕は正しくないことをしてしまいたくなる衝動をありありと理解できた。


 僕はしなくて、彼はしてしまった。

 それだけのことだった。

 そこが蟻と象ほど大きな違いだとしても、僕と陽平が佐伯に対して感じた劣情はきっと根本的には同一のものなのだ。

 だとすれば程度の差こそあれ僕も陽平と同じように佐伯に対して罪を犯したことになるのだろうか。


 陽平は今頃何をしているだろう。

 後悔しているだろうか。

 懺悔しているだろうか。


 陽平に会いたいと思った。

 会って陽平があのとき感じた心の動きを聞きたいと思った。

 僕の今抱いている淡い感傷の正体は何なのか、僕にとって佐伯がどういう意味を持った存在なのか、陽平なら方程式を解くように曇りなく教えてくれるような気がした。


 とぼとぼとマンションの階段を上がりドアに鍵を差した。

 鍵は掛かっていなかったが、それを変だと思い至らないぐらいに頭が疲れていた。

 ノブを回してドアを開く。


 そこには黒いパンプスがあった。


 瞬時に目から脳へ情報が伝達され記憶装置が答えをはじき出した。


 ハッと顔を起こすと父さんと坂本先生。

 二人とも口は半開き、目は全開の同じ表情で一言もなくそこに突っ立っていた。


 僕も何も言えなかった。

 ただ、なぜか一気に涙がこみ上げてきて、そのまま目一杯叩きつけるようにドアを閉めた。

 ガッシャーン、と質量の重い鉄が作り出す暴力的なまでに大きな音の波が、マンションと僕を揺さぶった。


 僕は走り出していた。

 階段を駆け下り再び自転車にまたがって闇雲にペダルを漕いだ。


 どこへ向かっているのか自分でも分からなかった。

 吹き過ぎる風が僕の髪を強く撫でつける。

 深くなった秋の寒気をまとった空気を裂くように駆けながら、僕は混乱する頭で父さんと坂本先生のことを考えた。


 あの二人は家で何をしていたのか。

 まだ教え子の父親と教師の関係なのだろうか。

 それとも男と女なのだろうか。

 既に一線を越えていたとして、それを僕は責めることができるのだろうか。


 僕だって変わらない。

 僕だって佐伯のことを抱きしめたいと思った。

 考えていることは同じだ。

 したいことはみんな同じなんだ。


 そう思っても僕の心は怒りに満ちていた。

 握りしめた手がぶるぶると震えた。

 父さんを許せなかった。

 坂本先生を憎んだ。

 二人の関係は何でもないかもしれない。

 しかし、何でもなくても疑わしいだけでそれは罪だと思った。


 僕がいないところで、僕が帰ってくるかもしれない家で……。

 大人なんだから少しは考えろよ。

 どうしてそんなに馬鹿なんだ。


 あてもなく走った。

 どんどんペダルを踏みつけた。

 こめかみの辺りから滲みだした汗が幾筋も唇や顎に伝う。


 自転車を漕ぐ足はパンパンだった。

 もう動かせない。

 川べりの道に自動販売機を見つけて、僕は惰性で進む自転車を止めてコーラを買った。


 道路際のガードレールに腰掛けて、沈む夕日と茜色に光る川面を眺めながらコーラを飲んだ。

 炭酸がカラカラに乾いた喉で弾けて痛かった。

 「身体に良くないぞ」という声が耳の奥に聞こえた気がした。

 母さんの声のようであり、佐伯の声のようでもあった。

 再び僕の目に涙が溜まった。


 いつまでそうしていたのだろうか。

 気がつけば日はどっぷり暮れてしまっていて、冷えた夜気と汗に濡れた服が僕の体温を低下させていた。

 このままでは風邪をひいてしまう。

 僕は物理的に酷使したためか精神的なものなのか、痛いぐらいに重い足を叱咤して再び自転車にまたがった。


 かと言って家に戻る気には、まだなれなかった。

 狭いマンションの部屋の中で父さんと二人きりになってどんな自分を装えば良いのか。

 面と向かって自分の口から二人の関係を質すなんて、クラスメイトの陽平との関係すら修復できない僕にできるわけがない。

 自分の部屋に閉じこもっての籠城も、トイレや浴室に行くにはドアを開けなければならない以上子供じみていてどこか情けない。


 母さんの見舞いは今日もすっぽかすことにした。


 時折鋭く僕の心理状態を分析する母さんは、僕の異常をすぐに見破ってしまうだろう。

 そのとき僕は何をどう説明するのか。


 今までも色々なことがあったけれど、どんなときでも母さんの負担になるような言動は極力避けてきた。

 しかし、今日も同じようにそれができるかどうかは分からない。

 今日顔を見せなかったことが既に何かを母さんに感じさせているのだろうが、明日になれば都合の良い方便も見つかるかもしれない。


 気がつけば僕は「台所 ゆかり」の小さな電光掲示を眺めていた。


 行くあてが全然思いつかなかったから、とりあえずの時間稼ぎで寄ったつもりだったが、ここまで来ると佐伯に会いたい気持ちが胸に募った。


 道路から佐伯の部屋に灯りが点いているのが確認できた。

 きっと彼女はあそこで今日買ったジョーンブリヤンを使って僕の母さんの絵を描いているのだろう。


 目と鼻の先に佐伯がいる。

 そう思うと呼び掛けないではいられない気持ちになってくる。


 僕は自転車を降りて道路脇のアスファルト舗装されていない地面の土を一つまみした。

 佐伯の部屋のすりガラスの窓に向かって放り投げてみる。

 一回目は力加減が上手くいかず部屋に届く前で失速したが、二回目は窓に当たって土が砕けた。


 僕は待った。

 窓が開いて彼女が昼間と変わらない、学期の始まりの頃より少し僕に打ち解けてくれた僕だけが知っている柔らかい表情を見せてくれるのを。


 窓は開かなかった。

 僕はもう一度土を掴んで投げつけた。


 どうしても佐伯に会いたかった。

 こうなったら会えるまで土くれを投げつけ続けるつもりになっていた。

 そこにいるのは分かっているんだ。

 頼むから大人しく出てきてくれ。


 窓辺に人影が映り僕は唾を飲み込んだ。

 鍵を開ける手の動きが窓越しに見え、やがてほんの少しだけ作られた隙間から誰かが外の様子を窺っている。


「あれ?」


 窓は僕の胸の痞えを晴らすように一気に大きく開かれた。

 怪訝そうな顔で暗がりに目を凝らす佐伯がいた。「光太郎?」


「やあ」


 この期に及んで僕にできたのが片手を挙げて応えるだけだったことが我ながら情けなかった。

 強烈な身を捩りたくなるような恥ずかしさに僕は襲われた。

 後先考えずただ佐伯の顔を一目見たいという想いを一握りの土くれに込めていたのだが、事が達成されるとどうしたら良いのか見当もつかない。


 でも……。

 恥ずかしいと思うから恥ずかしいのだ。

 僕は努めて頭の働きをぼやけさせた。


「そっちだよ」


 佐伯は「台所 ゆかり」の入り口の脇にある狭隘な、通路とも言えない空間を指さした。


「え?」

「そこにビールケースがあるだろ」


 確かにビールケースが幾つか積んであるのが入り口から漏れる明かりで辛うじて見える。


「あるけど」

「それを使って、そこの塀に登って」

「え?」

「いいから。大丈夫だから。早くおいで」


 佐伯は頬を緩めて頷いた。


 何が大丈夫なのかは分からなかったが、僕はその笑顔に釘づけになった。

 ああ、と心の中で思わず声を出していた。


 これなんだ。

 僕はこれに会いたかったんだ。


 僕は「ロミオとジュリエット」の有名な場面を思い出していた。

 「台所 ゆかり」はお世辞にも大富豪の屋敷のようには見えないし、平凡な容姿の僕自身をロミオとダブらせることは到底無理だけれど、今は佐伯のことをジュリエットと大声で呼んでみたい気がした。


 ジュリエット、今行くよ。

 僕は佐伯の視線を頭上に感じながら、ビールケースに足を掛けた。

 少しぐらついたが二つ上ると塀は腰の位置になった。


 塀の向こうはすぐそこに隣家のカーテンの引かれた窓がある。

 僕の心は急速に萎んだ。


「この塀って、お隣りさんのじゃ……」


 今は中から見えないからと言っても、余所様の塀に足を掛けることへの罪悪感は否めない。


「いいから、いいから。大丈夫。塀からこっちの屋根に飛び移って入ってこいよ」


 事も無げに佐伯は僕にアクロバティックなことを要求する。


「無理だよ、そんなの」

「できるできる。何も心配することないって」


 塀から「台所 ゆかり」の瓦葺の屋根までは七十センチほど。

 屋根を伝えば佐伯が顔を出している窓まですぐだ。

 大した間隔ではないが本当に僕にできるだろうか。

 仮にできたとして二階の窓から家に侵入するなんて非常識ではないのか。

 家に上がらせてもらうにしても、礼儀として家主に一言挨拶を述べて玄関から入りたい。


 振り仰ぐと佐伯は変わらず笑顔で僕を見ていてくれた。


「やっぱり挨拶してこないと。こんなの佐伯のお母さんに失礼だよ」

「お母さんは仕事中だからさ。かえって困るんだよ。早く来いよ。寒いだろ」


 仕事中と言われると、確かにそれも失礼かと思う。

 気分屋のジュリエットの機嫌も少し損ねてしまったようだし、これ以上躊躇していられない。


 塀と屋根、塀と屋根。僕は交互に目をやる。

 ふと、観覧車に乗るときの自分の情けない体たらくを思い出した。

 観覧車にすらまともに乗り込めない僕が、塀の上から佐伯の家に飛び移るなんてできるだろうか。


 待てよ……。

 観覧車は動いていた。

 塀と屋根はどっしりとしている。

 これならいけるかもしれない。


「一気にな。途中で止まるなよ」


 佐伯のアドバイスに無言で頷き返す。

 塀から屋根へ。

 塀から屋根へ。


 僕はまず塀の上に右足をのせた。

 グッと足に力を込め身体を持ち上げる。

 塀の上に身体が浮かび上がったときに右足を蹴って屋根に飛び移る。


 一瞬宙を舞った僕は両手両足でしっかり瓦を捉えた。

 掌と膝から瓦の硬くて冷たい感触が伝わってくる。


「オッケー。そのままこっちこっち」


 顔を起こすと佐伯はすぐそこだった。

 手を伸ばせば窓枠に指が掛かりそうだ。


 僕は右手を瓦から離した。

 足のつま先で踏ん張りを利かせ膝を伸ばそうとしたそのとき、靴底がつるっと滑った。

 「ワッ」と声を上げながら強かに屋根瓦に膝をぶつける。

 同時に右手は窓枠を捉えた感触があった。


 佐伯が僕の名前を小さく叫びながら、窓枠に掛かった僕の手を引き上げようとする。

 不用意に足に力を入れると、光沢のある滑らかな瓦の上は氷のようにつるつると滑ってしまう。


 ジュリエット。


 心の中でそう叫びながら、僕は左手も伸ばして腕の力だけで必死に身体を持ち上げた。


 佐伯が僕の背中の辺りの服を掴んで部屋の中に引きずり入れる。


 ずるずると僕の身体は窓枠を越えていった。

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