第31話
観覧車はファンタジー映画に出てくる巨大な樹のようだった。
赤、青、黄、緑、紫、桃、橙。
色とりどりの籠が、艶やかに咲いた大ぶりの花のようにも、実り熟して垂れ下がる果実のようにも見えた。
僕たちは花の蜜に群がる虫のように、樹の根元に吸い寄せられていった。
今日の待ち時間は十五分ほどだった。
観覧車のためなら炎天下でも一時間待つ佐伯には十五分は楽勝のようで、鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気だった。
その待ち時間も楽しんでいる風の佐伯の横で僕は黙りこくった。
待ち時間の手持無沙汰さについうっかり口を滑らせて、佐伯の気に入らないことを喋ってしまいそうで怖かった。
佐伯が気分を害してまた観覧車を乗る前に帰ってしまうことになってはいけない。
佐伯からその楽しみを二度も奪うことがあっては絶対にならない。
僕はただ観覧車の要の部分を見据えて口を真一文字に時が過ぎるのを待った。
ようやく僕たちの順番が近付いてきた。
係員にお金を渡して一段高いところに上がる。
目の前にしてみると観覧車の回転は意外に速かった。
次から次へと箱が降りてきて客が中に消えていく。
あっという間に僕たちの前には誰もいなくなり、左手から空の箱が川を下る桃のような滑らかさで迫ってきた。
係員が扉を開き、「どうぞ」と僕たちを中へ誘導する。
当たり前のことだが、観覧車はいちいち止まってはくれない。
流れるような箱の動きに合わせて扉の中へ自分の身体を滑り込ませなければいけない。
佐伯は少しも臆する様子を見せず、無駄な動きなくスムースに中へ入って行った。
続いて入らなきゃ。
頭では分かってはいるのだが、身体を上手く箱の動きに合わせられない。
僕は扉に左手を掛け、そのまま平行移動してしまっていた。
あれ?
えっと。
どっちの足から乗れば良いんだっけ。
既に座席に腰掛けている佐伯が中から、どうした?という感じで僕を手招きする。
「光太郎、早く乗れよ」
「分かってるよ」
分かってはいるけれど。
平行移動しているうちにあと数歩で足場がなくなってしまう。
そこまで行っちゃったら僕はどうなる?
そんなことを考えると余計に足が上手く動いてくれない。
顔から血の気がサッとひいていくのが分かる。
先ほどまでは楽園の遊具に見えていた観覧車が、今は残酷な処刑機の様相でミシミシと巨体を軋ませながら僕を追い詰める。
「光太郎っ!」
佐伯が箱の中から手を伸ばして僕の胸倉を掴んだ。
グッと引っ張られて、僕はそのまま箱の中へ転がり込むように入った。
ガチャリ。
背後で扉が閉まる音がして、手をついていた鉄の床へ僕の身体がグッと沈み込む。
重力に逆らって鉄籠が上昇を始めたので、僕の身体が床に引き寄せられたのだ。
乗れた。
恐る恐る顔を起すと目の前に佐伯の膝小僧があり、その向こうに窓に切り取られた街並みと青空が広がっている。
クハハハ。
突如頭上から降ってきた笑い声に驚いて僕は膝立ちになった。
佐伯が手をたたき、目を擦って大笑いしている。
「光太郎って、ヒーヒー、観覧車、フーフー、初めてか?」
佐伯は笑いすぎて呼吸がままならいようで苦しそうだ。
僕は少し憮然と「そうだけど」と返事した。
そんなに笑わなくても良いじゃないか。
誰だって最初は失敗するさ。
しない人もいるだろうけど。
僕は運動が苦手なんだから仕方ないだろ。
それにしても観覧車に乗るのが自分にとってこんなに難しいことだとは思いもよらなかった。
「はー、面白かった」
涙を浮かべながら佐伯が僕の肩をバシバシ叩く。「床にじゃなくて座席に座れよ」
佐伯は僕を叩いていた右手で今度は自分の隣のシートをポンポンと叩いた。
大人しくそこに座りなおすと、僕の横顔をまじまじと見つめて佐伯がまたププッと吹き出す。
「何だよ」
「慌ててたな、光太郎。顔がまだ青白いぞ」
こんなに笑う佐伯は初めてだった。
あまりにおかしそうに笑うので僕も何だか面白くなってきて、二人でひとしきり大声で笑った。
どれだけ大きな声を出しても、すぐに空に吸い取られてしまう。
その感覚が楽しくて僕たちはさらに高らかに笑い合った。
笑い疲れてゼーゼー肩で息をしているときにはもう観覧車は最高点に達しようとしていた。
「佐伯って観覧車好きなの?」
「好きだよ」
佐伯は窓に顔をくっつけて地面を見下ろした。「人が小さく見えて、自分が特別なところにいる感じがするじゃん」
「そうだね」
佐伯とは反対側の窓に頬をくっつけながら僕は頷いた。
佐伯が言うことは良く分かる気がした。
見下ろせば僕たちを運んできた電車でさえ消しゴムのカス程度でしかない。
平凡な自分が観覧車の高さ分他の人たちより抜きんでているような大きな気持ちになれる。
「光太郎は絵を描くことはあるのか?」
不意の問いかけに僕はビクンと身体を強張らせた。
しかし、焦る必要はない。
佐伯のあの見る者を凍りつかせるような冷たく輝く瞳は窓の外に向けられているし、受験生なら誰でもこういうときに太刀打ちできるように万能の剣を持っている。
「今は勉強があるから」
「嘘つけ」
僕の腑抜けた返答をあらかじめ予測していたのか、間髪入れず佐伯が鋭く切り込んでくる。「光太郎は美術に思い入れなんかないだろ。ジョーンブリヤンだって知らなかったし」
相手が誰であろうと互角に渡り合えると信じていた剣はどうやらガラス細工だったらしい。
粉々に砕け散った武器を放り捨て、僕は思わず窓枠にしがみついた。
窄ませた肩がガタガタ震える。
ばれてしまっていたのだ。
僕が美術部に入った消極的な理由や今も美術に対して何の志も抱いていないことを彼女は知っている。
恐ろしくてとても佐伯を振り返ることはできない。
「ごめん。実は僕、幽霊部員なんだ」
佐伯相手に今さら言い繕っても無駄に思える。
ここはもう黙って首を差し出すしかない。
いくら佐伯でも恭順を示した無防備な僕の襟首を掴んで、観覧車の外へ放り投げるような真似はしないだろう。
「謝らなくていいよ。好きなものは人それぞれだから」
意外にも柔らかい人情味ある思し召しに力を得て僕は佐伯を振り返った。
ここで姿勢を戻しておかないと、観覧車が一周するまで窓枠にしがみついていないといけなくなりそうだったから。
佐伯は依然として窓の外に顔を向けたままだった。
「光太郎は光太郎の夢を見つけて、その実現のために頑張れよ」
すっかり油断していた僕の脇腹に佐伯が後ろ手に放った「夢」という文字が深くえぐり込んで、少しの間息ができない。
「夢ねぇ」
口を歪めてそう呟くと、僕は自棄気味に視線を外へ投げ捨てる。
観覧車とどっちが高いのか分からない位置にいる太陽が鈍く輝いている。
夢。
そのはかなく朧なイメージの言葉は時に無限の質量を伴っていることがある。
持つ者はそれを無尽蔵な活力の根源とすることができるが、持たざる者はその事実に焦燥感と劣等感で全身を圧し潰されかねない。
今の僕に確固とした夢はない。
中学生で将来の自分の理想像をしっかり見据えて、そのために日々努力している人間など滅多にいない。
そういう理由で僕はその他大勢の中にいるであろう自分を励まし納得させている。
しかし、滅多にはいないだけで、全くいないわけではない。
現に僕の周りには己の夢の実現に向けて日夜研鑽を積んでいる中学生が二人もいる。
もしかしたら僕が知らないだけで他にもいるかもしれない。
そして僕がいつかは陽平や佐伯のように揺るぐことのない人生の夢を持てるという保証もない。
夢を持つ人間は傲慢でもある。
佐伯は夢を持っていない人間が持っている人間に対して抱く惨めさをきっと理解していないだろう。
持つ側の人間はただ平平凡凡と単調に日々を過ごしていく僕たちの若さの消費を、もったいないだとか無意味だというような否定的な言葉で一方的に評価する傾向がある。
そして持たない側の人間もそれを自覚をしていないわけではないので、彼らが下す指摘を否定できずに自虐的に笑うしかないのだ。
だけど、仕方ないじゃないか。
夢なんて曖昧なもの、この観覧車の上から目を皿にして探しても見つかりっこないのだから。
隣の人にどんなものですか、って訊ねても、それは隣の人のものであって、僕のが同じ色や形をしているわけでもない。
「あたしの夢は画家になること。だから、今だって勉強の合間に必ず一日一度は絵筆を持つようにしてるんだ。そうしないと腕がなまるようで不安になるから。それでね」
そこで佐伯は一呼吸置いてこちらを振り返った。
その顔はまるでこれから戦争に向かうかのような緊張感で頬だけが紅潮し全体的に青白く強張って見えた。
彼女がこんな風に自分の次の言葉をためらう様子は見たことがない。「今描こうとしてるのが、光太郎のお母さんの絵なの」
「僕の母さん?」
どういうこと?
僕は少なからず驚いた。
第一に僕の母さんの絵を佐伯が描きたいと思っていることに。
そして僕の母さんの絵を描きたいということを僕に告げるのに、今までに見せたことのない強い緊張を佐伯が感じている様子であることに。
「迷惑かなぁ?やっぱ変だよね」
佐伯の顔には、何とか許してほしい、と書いてあるように見えた。
眉を八の字にして目じりを下げ、まるで飼い主にきつく叱られて力なく尻尾を垂らした犬のように、憐れさを相手に抱いてもらいたいというような媚を売る表情をしている。
僕はとっさには掛ける言葉が見当たらず、分かりやすい身振りとして首を左右に振って何とか佐伯を安心させようと試みた。
「いいの?」
「いいも何も」
カラカラの喉に引っかかって声が上ずってしまう。
僕は二度三度と咳払いした。「いいも何も佐伯が描きたいと思うものを描けばいいよ。それに母さんも喜ぶと思うし」
僕は微笑んで見せた。
努めて柔らかく、佐伯の強張った心を温めほぐすように。
するとパッと佐伯の頬の色が内側から照らし出されたように明るく光り輝いて見えた。
彼女はいきなり僕の左腕に両手でしがみつくと、そこに顔をうずめて「やったやった」と無邪気に喜んだ。
僕はそのとき突然はっきりと佐伯に女性を感じた。
その明確さと衝撃の強さは雷に打たれたようにとでも言うのだろうか。
当然それまでも佐伯のことを異性と認識していたのだが、僕の腕が今感知している佐伯の肌の柔らかさや温かさはこれまで体験したことのない感覚だった。
これが女なんだ。
これが女というものなんだ。
僕は見動きがとれなかった。
正直言って僕は痛いくらいに勃起していた。
はち切れそうなぐらいに勃っていた。
ビンビンでドクドクしていた。
僕の肩口からわずかに立ち上ってくる佐伯の髪の、においとも言えないような微かな空気の揺らぎを次々に吸い込んで、頭が熱くて仕方がなかった。
のぼせた頭の中で僕の理性が溶けて耳から湯気とともに気化してしまう。
そんな訳の分からないイメージが浮かぶ。
ふっと気を抜くと佐伯に自分の身体をぶつけてこの場に押し倒してしまいそうだった。
実際、想像では僕は佐伯を抱き寄せていた。
服をめくり上げて胸の谷間に顔を押し付けて、頬でその温度と湿度と感触を味わいたくてどうしようもなかった。
心臓がバクバクする。
呼吸が浅く早くなる。
目の前の世界が少し色あせて見える。
もう自分がどうなってしまうのか分からなくなってきていた。
オーバーヒートしている自分の身体を制御できなくなりそうで不安だった。
じっと座っているのが耐えられなくなってきていた。
「あたしね、今までずっと何枚もお母さんの絵を描いてきたの」
僕は自分の胸がかつてないほどに高鳴っていて、それが身体を寄せた佐伯に聞こえてしまいそうなのをごまかそうと、乾いた口を無理やりこじ開けた。
「なんだか幼稚園児みたいだな」
必死に何とかそれだけを言った。
頑張って憎まれ口を叩いた。
「悪かったわね。発想が低レベルで」
佐伯は顔を起こして頬を少し膨らませた。
佐伯が行ってしまう。
僕は離れてしまった彼女を追いかけようとする自分を必死に押し殺した。
そんな僕の葛藤を露も感じ取らない様子で、彼女は不意に真顔に戻ると再び窓の外に目をやった。
「上手だねってほめてくれたんだ。可愛く描いてくれてありがとねって。お母さんが喜んでくれるのが嬉しくって何枚も何枚もお母さんの絵を描いた。お母さんはあたしが絵を見せると、いつもいつもにっこり微笑んで頭を撫でてくれた」
佐伯の横顔はいつになくあどけなく見えた。
彼女は自分の両手を見下ろして言った。「女手一つで子供を育てるのって大変なんだと思う。ときどきつらそうなときとか悲しそうにしてるときとかあるんだけど、そんなときでもあたしがお母さんの絵を描いて持ってくと、お母さんはいつも優しくほめてくれた。それでね、あたしの思い込みかもしれないんだけど、ほんの少し元気を取り戻してくれたようにも見えたの。だからあたしはお母さんの絵をどんどん描いた。そして今も描き続けてる。お母さんを元気づけたいから。でね、光太郎のお母さんに会って、この人も母親なんだ、光太郎のために頑張ってるんだって思ったらすごく愛しく思えてきて。私の絵を見たら光太郎のお母さんも元気になってくれるかもって。自意識過剰かな。……なんかごめんね。勝手に光太郎のお母さんのこと好きになっちゃって。気持ち悪いよね」
「そんなことないよ。僕も母さんのこと好きだから、なんか嬉しいよ。それに佐伯の絵を見たらきっと母さんも元気になれると思う」
僕の言葉に佐伯は照れたように少し口角を上げて微笑んだ。
「最近うちのお母さん元気なんだ。どこがどうって言えないぐらいなんだけど、やっぱり活気があるっていうか、輝いてるっていうかさ」
「いいことじゃん」
僕は素直にそう思ったが、佐伯の表情は僕の言葉とはずれがあった。
佐伯の横顔はどこか寂しげで無理に笑おうとしているように見えた。
「お母さん、きっとあの人と結婚できることが嬉しいんだと思う。あたしもどういう事情なのか詳しくは知らないんだけど、お母さんはあの人に内緒であたしを生んだみたい。そしてあの人のこと想い続けながら一人きりであたしを育ててくれた。それを最近あの人が知って、いろいろあったみたいだけど、もうすぐめでたく晴れて夫婦になるらしいの。そりゃ嬉しいよね。力も湧いてくるよね」
不意に佐伯の眼差しに翳りが浮かぶ。「お母さんが元気なのはあたしも嬉しいんだけど、どうしてか素直に喜べない自分もいるんだ」
「それってさ……」
僕が口を開くと佐伯は、「分かってる」と僕に何も言わせなかった。
「馬鹿みたいだけど、きっと嫉妬なんだ。お母さんを元気づけられるのはあたしだけだ、って思って、あたしなりに毎日気を張って頑張り続けてきたから……」
分かってるんだけどね、と呟きながら、佐伯はゆっくり頭を僕の肩にもたせかけてきた。
それだけで僕はまた全身から大量の汗を放出させる。
佐伯の頭が接している僕の肩から全身に向けて熱い波動が次から次へと放たれる。
じっとりと服が湿っていく。
「力が抜けちゃったの?」
「楽になったとも言えるんだけどね」
「そっか」
頭では理解できていても、心がついてこないことってある。何かを解決するにあたってはいつもいつも特効薬があるわけではなく、ただ単純に時間が過ぎるのを待つしかないときもある。
陽平もそうだし、佐伯もそうなのだ。
「きっと、あたし今大切な時期にいるんだ。今まではお母さんをただ描きたかった。お母さん以外に描きたいものなんかなかった。でも、それが少し変わってきた。これも成長なんだと思う」
僕は努めて二度、三度と力強く頷いた。
佐伯に伝わるように。
言葉じゃなく、行動で。
僕の身体の動きが佐伯の肌を通して彼女の心に響くように。
佐伯は鞄の中から買ったばかりの絵具を取り出した。
「このジョーンブリヤンが光太郎のお母さんの色に一番近いと思うんだ。明るくて優しい肌色」
観覧車は終わりに近づいていた。
列を作って観覧車を待っている地上の人たちが間近に見えてきて、否応なく僕たちは現実の世界に連れ戻される。
「あーあ、もうおしまいか」と独り言とは思えない大きさの終焉宣言とともに佐伯は凭れさせていた頭を戻した。
急に肩が寒くなった感じがした。
寒過ぎて凍えて麻痺してしまいそうだ。
観覧車を降りると、佐伯は僕に時間を確認した。
三時になったところだと伝えると、佐伯は「もうすぐお見舞いに行かなきゃね」と言った。
ほんの少しだが彼女の目元が切なさを宿しているように見えた。
僕の心臓は依然として僕の身体全体を揺さぶるような強い拍動を繰り返していた。
駅までのほんのわずかな道のりも佐伯は僕の足の向きを確認して歩いている。
僕は胸を張って歩いたが、足取りはまるで空を踏んでいるようなふわふわとした感触で、その心もとなさは我ながら情けなく、今度ばかりは早く駅に着きたくて仕方なかった。
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