第30話

 約束の時間にはまだ五分ほど余裕があった。


 時間ギリギリを狙って家を出たのだが、やっぱり時間前に到着してしまうのは僕の性分なのだろう。

 もしかしたら少し遅れてしまうかも、と心のどこかで思っていたのがペダルを漕ぐ足に力を込めさせていたのかもしれない。


 それでも遅刻するよりは余程良い。


 僕は券売機で二人分の切符を買い、そのお釣りでコーラを買った。


 壁にもたれ、田舎町のさびれた駅舎の窓から線路を眺めながらペットボトルの蓋を開ける。

 シュワッといつもの心地良い音が耳に届き、底から泡が早く飲んでくれとせがむように湧きあがってくる。


 待ち人はやはり時間通りにやってきた。

 僕の姿を確認すると軽く手を挙げながら駆け足で近付いてくる。


「光太郎はいつも早いな」


 今日の佐伯はデニム生地のミニスカートをはいていた。

 スカートの裾とニーソックスまでの絶対領域と呼ばれる太ももの眩しさに息が詰まりそうだ。


 僕は照れ隠しにコーラを二口、三口と飲んだ。


「そ、そっちこそいつも時間きっかりじゃん」

「何それ。褒めてんの?けなしてんの?」


 確かに僕の口調は非難めいて響いてしまったが、時間通りにやってくることは美徳だ。

 僕は少し落ち着きを失っているようだった。


「別にどっちでもないけど」

「ふーん」


 佐伯は僕との会話に興味がない様子で、さっさと券売機に向かった。「電車は何分だっけ?」


「あ、もう佐伯の分も買ってあるよ」


 僕は顔の近くに二枚の切符を出して見せた。「電車は……」


 そのとき「間もなく一番ホームに電車がまいります」とホームにアナウンスが流れた。


「気がきくな。帰りはあたしが光太郎の分、買うから」


 僕たちは改札を通りホームに並んで立った。


 母さんを見舞った帰り道に佐伯が「ジョーンブリヤンがなくなってきたから買いに行こう」と僕を誘ってきた。

 ジョーンブリヤンが何なのかそのときはピンとこなかったが、佐伯が当たり前のようにその単語を使うので、僕は彼女に合わせて適当に相槌を打った。

 どうやら絵具の色のことらしいと想像がついたのは、彼女が「こないだのお店、品ぞろえが充実しててけっこう気に入ったんだ」とコメントしてくれたからだ。


 一時三分。

 電車は定刻に僕たちの前に現れた。


 休日の車内は空いていた。

 佐伯はすたすたと近くの二人掛けの椅子に向かって歩き躊躇なく腰かけた。


 その横に座ろうとして僕は固まった。


 隣の佐伯との距離が肘がぶつかる近さだ。

 急に僕の全身を緊張の電流が走りその動きを強張らせる。

 佐伯の白く滑らかそうな太ももが内側から光を発しているかのように眩しくて、僕の目を痛いぐらいに刺激する。


 これってデートだろうか。

 不意にそんな考えに至って脇を汗が伝っていく。


 電車は動き出していた。

 いつまで立ってるの、という目で佐伯が僕を見上げる。


 僕は目を閉じて、心を閉じて佐伯の隣に腰かけた。


「好きだなぁ」

「え?」


 僕は無意識のうちにペットボトルの蓋を開いて口をつけようとしていた。


「コーラだよ。光太郎はいっつもコーラ。そんなもんばっかり飲んでると身体に良くないぞ」


 コーラは身体に良くない。

 そのフレーズが僕の耳に懐かしかった。

 胸が苦しくなるぐらいに。


「母さんみたいだな」


 僕は佐伯の口うるささを遠ざけるように言って、構わずコーラをぐびぐび飲んだ。


 事故に遭う前、母さんは僕がコーラを飲んでいるのを見つけると、太るだの骨が溶けるだのとあれこれうるさかった。

 しかし、母さんがどれだけ言っても、僕は今でもコーラを飲むのをやめていない。

 いつか母さんが元気になって僕がコーラを飲んでいるのを目ざとく見つけてがみがみと注意してくる。

 それまで僕はコーラを買うのをやめない。


 冷たい液体が小さく細かく弾けながら食道を下っていく。

 その清涼感が少し僕に落ち着きを取り戻させるようだった。


「褒め言葉ととっとくよ」


 佐伯はそう言って窓外に目をやった。


 電車はすぐに目的の駅に到着した。


「こっちだよ、佐伯」


 電車を降りると画材屋のある方とは違う改札に向かって歩き出す佐伯を僕は大きめの声で呼び戻す。


「あれ?あっちじゃなかったっけ」


 小首をひねりながら佐伯が僕のところへ戻ってくる。


「ちょっとちょっと」


 改札を出たところでもあさっての方向へ歩いて行ってしまう佐伯を僕は慌てて追いかける。「画材屋はあっちだって」


 僕に服の袖を掴まれて佐伯は不本意そうな顔をする。


「確か、あっちだったと思ったんだけどな」

「どうしてそう思うんだよ?」

「なんとなくだけどさ」

「目の前の人について行っただけなんじゃないの?」


 電車を降りた時も人の流れについていった感じがあり、今も前を歩いていた人の進行方向に何気なく足を向けたように見えた。


 佐伯はムスッと黙りこんでしまったが、それは図星だった証拠とも言える。


 自覚しているのかどうかは怖くて訊けないが、どうやら佐伯は方向音痴らしい。

 今日僕を誘った理由はそれだったのかもしれない。

 案内役でしかなかったことにがっかりしたような、でも鉄仮面女の弱点を見つけて嬉しいような複雑な気分だった。


 とにかくそこから佐伯は僕の足の向きに注視するように視線を落としたまま黙りこくって歩いた。

 しかし機嫌が悪そうに見えたのは画材屋に着くまでだった。


 店内に入ってからの佐伯の足取りは速かった。

 顔を上げ目を輝かせてすぐに絵具のコーナーに向かい商品を物色する。

 手にしたのは明るい肌色だった。

 確かにジョーンブリヤンと書いてある。

 佐伯は一つ頷いてジョーンブリヤンを二本掴み、他にも数色の絵具と筆を一本選んでレジに足を向けた。


 佐伯が満足そうな顔で買い物を終わらせると、僕たちは本屋に向かった。

 僕は佐伯にお願いしたいことがあった。


「これなんだけど」


 僕が指差したのは毎月母さんのために買うファッション雑誌だ。

 これを代わりに買ってきてもらえないだろうか、と僕は佐伯に頼んでいたのだ。


 佐伯も中学生なのだから三十代の主婦がターゲットの雑誌を買うのは抵抗があるかもしれないと思ったが、彼女は何も言わず僕から代金を受け取った。


 無造作に雑誌を掴んでレジの方へ消えていったかと思うと、彼女は間もなく店外で待つ僕の前に堂々とした足運びで現れ、僕の胸に雑誌が入っている紙袋を突き出した。


 僕が頭を下げて礼を言うと、彼女は顔の前で、何てことないよ、という感じで右手をひらひらと動かした。


「お安い御用」


 佐伯は僕の前に立って歩き出した。「来月からも、あたしが代わりに買ってあげてもいいよ」


「ほんと?じゃあ、お願いするかも。毎月これが恥ずかしくて嫌だったんだ」


 僕は肩の荷が大分降りたようだった。


「恥ずかしいと思うから恥ずかしいんだよ」

「どういうこと?」


 佐伯がさらっと当たり前の顔で言ったことが、僕にはよく理解できなかった。


「恥ずかしがりながら何かするってことが恥ずかしいの。だから私は何をするにも恥ずかしいって思わないようにしてる」

「ふーん」


 僕は一応納得したような振りをしてみたが、内心その「思わないようにする」ってことができれば誰も苦労しないんだ、と思っていた。


 とりあえず用事が終わった僕たちは足を駅の方に向けた。

 正確には佐伯は僕の足が向かう方向へ歩を進めているだけのようなので、駅に向かって歩いているのは僕で、その僕に佐伯がついてきているということになる。


 今、この瞬間に僕が消えてしまったら、彼女は帰り道が分からずに不安と困惑とで心細い思いをするのだろうか。

 そう考えるといつも強気な佐伯のことが今日ばかりは可愛らしく思えてくる。


 彼女は今自分が帰途についているということを理解しているのだろうか。


 ここまで来れば駅までは目と鼻の先の距離だ。

 いくら方向音痴でももう迷いようがない。


 僕は正直言ってこのまま帰ってしまうのは何だか惜しいような気がしていた。

 いつもより口数が少し多めでリラックスしている風の休日モードの佐伯との時間を、僕は少しの緊張を伴いながらも楽しむことができていた。


 もう少しこのままの二人の空気を全身で感じていたい。

 しかし、こういう場合にどういう言葉を口にすれば良いのか分からなかった。

 それどころか女子に対してこんな気持ちを抱き、伝えたい想いがあるという自分自身の状況に僕は困惑していた。

 僕はどうしてしまったんだろう。

 経験がなかったから知らないだけで、女子と二人でおしゃべりすることは誰とでもこんな風に高揚するものなのだろうか。

 それとも佐伯が僕にとって特別なのだろうか。

 特別だとしたらどんな風に特別なのか。

 友達という感覚なのだろうか、それとも……。


 駅が見えてきてしまった。

 お茶ぐらい誘っても不自然じゃないんじゃないか。

 早く誘わないと改札を過ぎてしまう。

 でも、お茶をするってどうしたら良いのか分からない。

 一歩、また一歩と足を交互に前に出すたびに、僕の喉の辺りは締め付けられていくようだ。

 どんどん息が苦しくなってくる。


 佐伯はどう思っているのだろうか。

 どこへ向かうとも言わずに歩いているのだから、雰囲気的に帰りの電車に乗ろうとしているということは分かりそうなものだ。

 彼女にしてみれば、用事が済んだから後は帰るだけ、という感じなのだろうか。


 僕は隣を歩く佐伯の手の振り、足さばき、息づかいに神経を尖らせながら、ひたすら道路を見つめて歩いた。

 しかし佐伯は会ったときから今までずっと変化を見せない。


 駅を目の前にして僕は小さくこっそりと息を漏らした。

 佐伯が帰りたいのなら、邪魔をしてはいけない。

 それが案内役の務めだ。

 課せられた務めをきっちり果たすことが佐伯の意に叶う。

 そういう諦めが自分の中でついたときに、不意に佐伯が足を止めた。

 どうしたのかと様子を窺うと、彼女は一点を凝視して何か重大なことを宣言するように大きな声で言った。


「観覧車に乗ろう」


 振り仰ぐと僕たちの前には、光り輝く鉄の乗り物が秋の澄み渡った青空を背にして悠然と回転していた。


 僕が感じたのは驚きと、小さくない喜びだった。


 前回ここに来たとき、佐伯は僕が母さんの見舞いに行くことを聞いて乗りたかったはずの観覧車に乗らなかった。

 その佐伯が今日は僕と観覧車に乗りたいと言う。


 それだけで突然僕は喉元の息苦しさから解放される。

 もうワンステップ上の務めを与えられて、思わず顔がにやけるのをこらえるために僕はグッと奥歯を噛みしめ声にならない声で、うん、と頷いた。

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