第29話
病室の前に立つと僕は間を置かずにノックした。
変に気持ちを整えようとして時間をかけると、逆に緊張感が高まってしまいそうだった。
しかし、中から返事はなかった。
再び腕時計に目を落とす。
この時間なら起きているはずだけど。
僕はもう一度ノックをしてから、ゆっくり扉を開いた。
ベッドの上で母さんはいつものパジャマ姿で座っていた。
目は開いていたが、少し様子がおかしい。
「母さん?」
起きて間もないからぼんやりしているのだろうか。
見ているようで何も見ていないような焦点の合っていない感じの目つきで向かいの壁を眺めている。
「こんにちはぁ」
様子を探るような上ずり気味の佐伯の挨拶にも母さんは応えなかった。
母さんはこんな顔をしていただろうか。
虚ろな目。
張りのない肌。
深く刻まれた皺。
昨日とは明らかに違う。
まるで玉手箱を開けたように、一晩経っただけで十歳も二十歳も年をとったようだった。
「母さん?……どうかした?」
ベッドの脇に立ち、顔を覗き込むようにして大きく声を掛けると、漸く母さんが僕を見てくれた。
「あら、光太郎」
「あら、じゃないよ。起きたところなの?ぼんやりしちゃって」
「そ、そうなのよ。ちょっと変な夢を見てすっきり起きられなかったの。どんな夢だったか忘れちゃったけど。あら?」
母さんは僕の肩越しに佐伯を見つけたようだ。
急にその表情が色を取り戻し明るさを湛える。「もしかして光太郎の、えっとこういう場合何て言ったらいいのかしら」
「友達だよ。友達」
僕は苦笑して佐伯を振り向いた。
「こんにちは。佐伯と申します。突然、お邪魔しちゃってすいません」
「いいのよ、そんな堅苦しいこと。ほら、こっちに来てここに座って。光太郎。ぼんやり立ってないでお茶淹れて。冷蔵庫にケーキあるからお出しして」
息子が初めて異性の友達を連れてきた。案の定そのことに母さんは舞い上がっているようだった。
「はいはい」
僕が棚の上のポットの湯量を確認していると、佐伯が椅子に下しかけた腰を上げ、「私がやるわ」と寄ってくる。
「いいよ、僕がやるから」
「でも」
「いいのよ、佐伯さん。今どきお茶淹れるぐらいできないような男はだめよ」
いいからいいから、と母さんに袖をつかまれた佐伯は、じゃあお言葉に甘えて、と椅子に戻った。
「これ、つまらないものですけど」
佐伯の月並みな言葉に僕は急須にお湯を注ぎながら、クククと少し笑った。
母さんに紙袋を手渡しながら、佐伯が拗ねるような睨み方で僕を見上げる。
今まで佐伯に睨まれたなかでは一番怖さが伴っていなかった。
僕たちは上がっていた。
舞台の上で芝居をしているような感覚だった。
決められた台詞があるわけではないのに、まるで筋書きがあるかのように一つ一つの動作が、言ってみれば嘘くさい感じがした。
「まあ、ありがとう。何かしら」
嬉々として受け取る母さんが中身を見てシナリオ通りさらに喜びを表すのを期待していた僕は、次の一言でこれが陳腐なドラマの焼き直しではないことを思い知る。「麦わら帽子?」
母さんの声に隠しきれない戸惑った色が含まれている。
何故だろう。
欲しいと言っていたのは母さんなのに。
佐伯が買ってきた麦わら帽子は母さんが雑誌を見て気に入っていたものとそっくりだった。
「お気に召さなかったですか?」
こんな不安そうな眼差しをする佐伯は初めてだ。
母さんはすぐに、ううん、と首を横に振る。
「そんなことないんだけど、秋まっただ中のこの時期にどうしてこれなのかなって」
「そう、っすよね……」
どういうことだよ、という八割は責めるような、残りの二割は助けを求めるような顔で佐伯が僕を見上げる。
こんな目で見られては、頼み込んで買ってきてもらった僕の立つ瀬がない。
「何言ってるんだよ。母さんがそんな感じの麦わら帽子が欲しいって言ってたんじゃないか」
「私が?そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ」
僕は無実を証明するために大げさに呆れ顔を作った。「母さんに散歩を勧めたときに、日焼けが嫌だからって雑誌の中からこういう花柄のリボンが付いた麦わら帽子が欲しいって、僕に見せてたじゃないか」
「確かに雑誌を見て、いいなって思ったのはあった気がするけど……光太郎に言ったっけ?でも、光太郎が言うんだから私が言ったのかぁ」
母さんは小首を傾げる。顎に手を添えて頭の中を整理しているような表情に嘘は見当たらない。
母さんは本当に忘れてしまったのだろうか。
記憶に引っかかりもしない程度の、あの場限りの軽い思い付きだったのだろうか。
「でも、これすっごく可愛い。ありがとう、佐伯さん。この季節だって日焼けはするからこれで安心して散歩ができるわ」
少し無理やりな感じもするが、胸に抱き頭にかぶって見せてにっこりと気に入ったことを示す母さんに少し場が和む。
ありがとう、と繰り返し頭を下げる母さんに、佐伯も自然な笑顔で受け応えできていた。
忘れてしまったものは仕方がない。
重要なことは母さんが喜ぶかどうかだ。
僕は少しほっとした気分で冷蔵庫のドアに手を掛ける。
中を覗き込んで、僕はまた少し背中を寒くする。
「母さん、ケーキなんかないよ」
庫内にはケーキどころか果物一つ冷えていない。
缶コーヒーが二本寂しそうにうずくまっているだけだ。
「え?嘘?お隣の部屋のおばあちゃんからいただいたのが確か丁度三つあったと思ったんだけど」
「嘘なんかついてないよ。なあ、佐伯」
ベッド上の母さんから冷蔵庫の中は死角になって見えない。
僕は冷蔵庫の前から身体をずらして佐伯から見えるようにする。
「空っぽ……だね」
少し言いにくそうに母さんと冷蔵庫に交互に視線を配りながら佐伯が答える。
「ほらね」
母さんはそれでも納得がいっていないようで、口元に手を当てて記憶を辿るような顔つきになる。
「おかしいわねぇ」
しかし、ないものはない。
僕は急須から湯呑にお茶を注いで佐伯と母さんに手渡した。
自分の湯呑も持って二人に加わり椅子に腰を掛ける。
三人でお茶を啜る。
あると言われていなかったら何とも思わなかったかもしれないが、ケーキがないだけで何とも侘しい気持ちになってくる。
何かお茶うけになるものはないかと考えているのは僕だけではないようだった。
「何かお菓子はなかったかしら。それにしてもおかしいわね。私が寝てるうちに光太郎がケーキ食べちゃったんじゃないの?」
「なわけないだろ。食べるにしても三つも無理だよ」
「そんなことないでしょ、育ち盛りなんだから」
「甘いものは苦手なの」
「生意気言っちゃって。シュークリームの食べ過ぎでお腹壊して病院行ったくせに」
「何年前の話を持ち出すんだよ」
僕と母さんのやり取りを微笑を浮かべて見守っていた佐伯もさすがに見かねたのか、助け舟を出してくれる。
「あのぅ、お茶だけで十分ですから。すぐに、えっと、お暇だっけ?しますし」
佐伯がそう言っても母さんは息子が連れてきたガールフレンドに良いところを見せたいのか僕に何度も、下の売店で何か買ってくるように指示し、僕が腰を浮かすと佐伯が押しとどめるという展開を二度三度と繰り返した。
いい加減やり取りに飽きてきた頃に、母さんが再び目を輝かせ始めた。
「佐伯さんって」
「はい?」
母さんが心の中で舌舐めずりしているの分かる。母さんが訊きたいことはあれだろう。
「美術が好き?」
やっぱり。こうなることはここにつれてくると佐伯に約束したときに覚悟していた。
しかし、いざ直面すると僕は俯くしかなく、顔を湯呑に埋めた。お茶はもうなくなっていた。
「好きです。光太郎の、あ、いや、光太郎君のおかげでこの学校でも美術部に入れました」
「あら、佐伯さんって転校してきたの?」
「はい。この二学期から」
「そうだったのぉ。へぇえ」
母さんは意味ありげに語尾を伸ばして僕に視線を絡ませてくる。
僕は脇の下に嫌な汗をたくさんかきながら、さらに一層背中を丸めた。
「どうかした?」
佐伯が僕の様子を怪訝な表情で窺う。
何でもないよ、と逃げを打ち、僕は立ち上がって急須にお湯を注いだ。
「二学期から転校って大変ね。困ったことがあったら何でも光太郎に言ってね。この子、ちょこまかと動き回るのは得意だから」
言いながら母さんは僕に湯呑を突き出す。
「ネズミみたいに言うな」
僕は湯呑を受け取りながら、ぼそっと小さな声で反抗した。
「いつも光太郎君には助けてもらってます。勉強も教えてもらっちゃってますし」
「そうなの?光太郎。しっかり教えて差し上げなさいよ」
「はいはい」
僕は生返事で母さんのと僕の湯呑に二杯目のお茶を注いだ。
「せっかく仲良くなったんだから高校も同じになるといいわね。そっちの方が楽しそう」
「たぶん同じになるんじゃないかな」
僕は半ば開き直って母さんに湯呑を突き返した。
「ほんとかよ、光太郎」
突然佐伯が僕の隙だらけの胸元に食いつかんばかりに詰め寄ってくる。
その勢いに僕は思わず腰を引いてしまう。「あたし、受かりそう?受かりそうなの?」
「あ、ああ。この調子なら大丈夫だと思うよ」
少し無責任な発言だっただろうか。
しかし、佐伯の努力はすごい。
席を並べて勉強していると、彼女の受験に対する真剣さがひしひしと伝わってくる。
彼女は明らかに学力を上げていた。
家でもかなりの時間を勉強に割いているのだろう。
今の調子で頑張ればきっとK高校に合格するに違いない。
「K高校にすごく有名な美術の先生がいるんです。だからあたし、なんとしてでも合格したくって」
舞い上がり気味の佐伯の説明を聞いて、なぜか母さんが少し目元の表情を曇らせたように見えた。
「K高校だと」
母さんは顔を佐伯に向けたまま確認するような視線を僕に寄越した。「光太郎と離れ離れになっちゃうんじゃないの?」
「僕もK高校だよ」
「あれ?そうだったの?T学園受験するんじゃないの?」
僕は深くて暗い井戸の底を見ているようだった。
わずかに差し込む淡い光がゆらりゆらりと反射する水面に、張りのない肌、麦わら帽子に戸惑う母さんの顔、空っぽの冷蔵庫が次々と浮かび上がる。
目の前にいる母さんが手を伸ばしても到底届かないところにいるように思えてならなかった。
僕は気づいていた。
ケーキを貰ったという隣の部屋のおばあさんは先月亡くなっている。
今日の母さんは記憶に混濁した部分がある。
こんなことは今までなかった。
これが良い兆候であるはずがない。
僕は母さんや佐伯に気づかれないように懸命に足元から這い上ってくる悪寒に耐えた。
足首を目に見えない何者かに強く握られ、床下に引きずり込まれていくような感覚があった。
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