第28話

 僕と佐伯は廊下から教室の中を覗き見た。

 誰もいないことを確認してサッと忍び込み、自分の荷物を手にすると素早く廊下へ出て下駄箱を目指した。

 

 クラスの誰にも会いませんように。


 口の中でぶつぶつ呟きながら小走りで階段を降りる。

 冷え切っていた身体が少しずつ温かくなってくる。


 結局クラスメイトの誰にも見つからず、僕と佐伯は靴を履きかえ自転車置き場に辿り着いた。


「あー、よかったぁ」


 僕が自転車のかごに鞄を入れ大きく息をつくと佐伯が不機嫌そうな声を出す。


「何であたしたちがコソコソしなくちゃいけないのよ」


 僕と佐伯は結局授業が終わって放課後になるまで屋上で風に吹かれていた。

 梶田先生に呼びだされて授業をさぼって何をしていたのか、みんなに訊かれてもどう答えたものか分からなかったからだ。


 とりあえず今日さえ乗り越えれば何とでもごまかすことができると僕は思っていた。


 しかし、地上十五メートルあたりを吹き過ぎる秋の風を心地よく感じていられたのは、はじめの十五分ぐらいのものだった。

 長い夏が過ぎて最近は急に秋めき日に日に肌寒さが増している。

 美術準備室でのやり取りで高ぶっていた身体の熱が放出されていくと、次第に僕と佐伯は体温の低下を留めようとするようになった。

 扉で風をよけて身を寄せ合い、小刻みに足踏みしたり手で身体をさすったりした。


「もう、こんなところで時間潰してられない。訊かれたら本当のことを言ってやればいい」


 寒さにうんざりして教室へ帰ろうとする佐伯を僕は必死になだめた。


 日が傾き気温がどんどん低下していくのを僕たちはまさに肌で感じていた。


 やがて授業の終わりを告げるチャイムが流れた。


 眼下に現れた女子生徒の中には薄手のアウターを羽織っている者もちらほら見えるなかで、防寒のためにと佐伯に学生服の上着を献上していた僕は懸命に胸や腕を掌でこすって熱を起こしながら人の波が消えるのを待ったのだった。


「顔色悪いよ。風邪ひいたんじゃない?」


 横で自転車を漕ぐ佐伯が少しも心配する風でなく指摘する。


 お前のせいだ、とも言えず、僕は黙ってペダルに込める力を強くした。


「ちょ、ちょっと、そんなに速く進めない」


 佐伯は自転車のハンドルに掛けるようにして持っている大きな紙袋が風で前後左右に揺れるのを制御するのに四苦八苦していた。


 その紙袋には佐伯が僕の母さんに選んでくれた麦わら帽子が入っている。


 僕は校舎から生徒がいなくなるまで屋上で待つことの条件に、今日佐伯を母さんが入院している病院に案内することを約束していた。

 僕はずっとどういう風に佐伯を母さんに紹介するか頭を悩ませていた。


「やっぱりここか」


 病院に着くと佐伯は建物を見上げて嘆息した。


「ここら辺で大きな病院って言ったらここぐらいしかないだろ」

「それはそうだけど」


 あんなにせがんだくせに、彼女がここへきてどこか困惑気味に見えるのはどういうわけだろう。

 

 院内に入ると佐伯は僕の腕時計を覗きこんできた。


「今、何時?」

「もうすぐ四時半」

「お母さんって何時に起きるんだっけ?」

「あと十分ぐらいかな」

「じゃあ、少しあのあたりで待ってようよ」


 佐伯は受付前の待合用に並べられたベンチを指差した。


「個室だから病室で待ってようよ。僕はいつもそうしてる」


 せっかく見舞いに来てくれたのに、せわしなく人が行き交うロビーで待たせては申し訳ない。


 しかし、彼女は少し冷やかな目で僕を見た。


「あたしは光太郎じゃないから」

「どういう意味?」

「光太郎は家族じゃん。あたしは赤の他人。勝手に寝顔見るなんて失礼なことできない」

「そんなこと気にしないよ」


 いつも自分本位の考え方をする佐伯が、そんな乙女チックなことを言うなんて僕は少し笑ってしまった。

 母さんが寝顔を見られたからって怒ることなんてない、と考えるのは思いやりに欠けているのだろうか。


「そんなこと言ってるから光太郎はもてないんだよ」


 その発言の方がよほど失礼だ。

 僕は憮然とベンチに歩を進め先に腰を下ろす。


 佐伯はあたりを見回し壁際に設置された自動販売機に向かった。

 ホットの紅茶を二つ買ってきて一つを僕に投げて寄越す。


「ありがと」


 僕がポケットから財布を取り出すと「いいよ、いいよ」と佐伯が制する。


「見舞いに来てくれたんだから僕が出すよ」

「いいよ、そんなの。あたしが無理やり押しかけたんだから、そのお詫び」


 ありがと、と僕は口の中で小さく礼を言った。


 佐伯がくれた紅茶は僕の身体だけでなく心まで温めていくようだった。

 ずっと寒さと緊張感に縮めていた心身がほぐれていく。


 やがて時計は五時近くになり僕たちは腰を上げた。


「喜んでもらえるかな」


 俯き加減の佐伯は彼女らしくない消え入りそうな声だ。


「何を?」


 佐伯は手にした大きな紙袋に目をやった。


「麦わら帽子」

「そりゃ喜ぶよ。すごく気に入ると思う」

「見てないくせに何で分かるの?」


 佐伯の射るような視線に僕は身を竦ませる。「あーあ、やっぱりもう一つの方にすればよかったな。あっちの方がリボン可愛かったかも」


「佐伯らしくないな」


 また怒られるかな、と覚悟の上だったが、佐伯は僕の言葉に一瞬驚いた顔をしただけですぐに、「そだね」と頷いた。


 逆に僕はすでに腹を決めていた。


 男勝りとは言え女子である佐伯を会わせたら母さんのテンションがどうなるかは目に見えていたが、それも親孝行なんじゃないかと思っていた。今後こんなことはなかなかできないだろう。

 佐伯には申し訳ないが、今日だけは母親に息子が初めて紹介するガールフレンドの役を担ってもらおう。

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