第27話

 陽平はきっと僕と佐伯をとりあえず無視するだろう。

 距離を取って佐伯の様子を横目で確認しながら、折を見て謝るなり言い訳するなりしてくる。

 あるいはそのまま卒業して僕たちの前からフェイドアウトしていくのかもしれない。

 土日を掛けて行き着いた僕の予想はそんなところだった。


 とりあえず僕も陽平と適当に距離を置いて冷却期間を作れば良いだろう。


 そう思って月曜日登校してからずっと僕は陽平の席を盗み見ながら、少しの緊張と少しの困惑の感情で彼の登場を待った。


 彼のことをこんな気持ちで待つことになるなんて本当に思いもよらなかった。


 陽平は僕にとってスターだった。

 テレビに映る歌手や俳優と変わらない、いやそれ以上に魅力的で存在感あふれる憧れのヒーローだった。


 僕は毎日毎日彼が教室に現れるのを待ち焦がれた。

 彼が姿を見せればその場は一変する。

 彼の身体が光を集めて解き放つ様は、眩しすぎて誰も直視することができず、彼が動く度に捲き起こす薫る空気の流れは皆を恍惚とさせる。

 いつも僕はそんな彼が来るのを今や遅しと待ちわびていたのに。


 ホームルームが終わり午前の授業が始まっても陽平は姿を見せず、代わりに僕と佐伯の前に現れたのは極彩色を身に纏った美術教師だった。


 昼休みが終わる五分ほど前。

 急に廊下がざわざわしだしたと思ったら、突然担任教師のように自然に教室に入ってきた梶田先生はふらふらっと窓際に足を運び、「そこの美術部員二名」と僕と佐伯に向かって手招きし、さっさと教室を出て行った。


 美術準備室に巣食っている梶田先生が教室に出現するなんて初めてのことだ。

 僕と佐伯は顔を見合わせ小首を傾げながら梶田先生を追った。


 梶田先生は僕と佐伯がついてきているかどうか後ろを確認することは一度もなかった。

 美術準備室の前に立って初めて振り返り、少し距離を取ってついてきていた僕らにもう一度手招きをした。


 隣の美術室は今はドアが閉まっている。

 あの中で事件は起きた。


 僕は佐伯の様子に一瞬目をやった。

 彼女の顔は少し青ざめているようでもあったが、前髪に隠れてその目の色までは窺い知れなかった。


 梶田先生が顎で美術準備室に入れと示す。


 頷いた佐伯がドアを開けると、出迎えたのは坂本先生と沙織だった。


「二人とも急に呼びたててごめんね」


 坂本先生のどこか深刻そうな表情の向こうにパイプ椅子に座る陽平が見えて、心臓が強く跳ねた。「取りあえず中へ入って」


 担任教師にそう言われても、佐伯は前に足を踏み出すことはできないようだった。


 部屋の奥に佐伯を力ずくで自分のものにしようとした陽平が項垂れて座っていた。


 僕は佐伯の肩が微かに震えているのを見つけた。

 怖いのだろう。

 悔しいのだろう。

 僕は何とか彼女の強張った心の力みを取り除いてあげたいと思った。

 しかし、ドアの前で立ちすくむ佐伯のその肩に手を置いて掛けてあげるべき適当な言葉が未熟な僕には分からなかった。

 あまりに歯がゆくて、情けなかった。


 校内にチャイムが響いて授業開始を告げる。


 私はこれで、と沙織が消え入りそうな声で呟いた。


 僕は沙織の様子に胸を衝かれた。


 沙織の顔も青白く、泣きはらしたのかその目は赤く染まっていた。


 僕は味方をすると彼女に約束した。

 その彼女に僕が出来たことは何だったか。

 何も知らないと嘘をつくことだけだった。

 こういう時にこそ味方が力を発揮すべきなのに。


「ありがとう、栗山さん。長い時間付き合わせちゃってごめんね」


 努めたような笑顔の坂本先生に、沙織は「いえ、そんなことは」と無表情のまま返した。

「私がしたくてやったことですから、先生からお礼やお詫びはいりません」


 失礼します、と小さく頭を下げて、沙織は僕や佐伯と目を合わせることなくその間をすり抜けて行った。

 いつも朗らかな沙織の無理やり感情を押し殺したような態度が事態の難しさを暗示しているようだった。


 坂本先生は「さあ」と再び佐伯を促した。

 坂本先生が佐伯の背中に腕をまわして、漸く佐伯は美術準備室に入った。


 梶田先生は美術室の方に入り、僕は佐伯の後について後ろ手にドアを閉めた。


 パイプ椅子に座り俯いたまま顔を上げない陽平と、彼に向かって立ち尽くす三人。


 古い服を仕舞いこんだタンスの中のようなにおいのする重くて澱んだ空気が狭い部屋に充満していた。


「私なりに考えたの。三人の担任として、そして一人の大人として私にできることは何かって」


 坂本先生が誰に話しかけるというでもなく口を開いた。「とにかく座ろっか」


 坂本先生はパイプ椅子を並べて僕と佐伯に勧めた。


 僕たちが腰かけたのを確認してから、向かい合う三人の生徒の中間に置いた椅子に坂本先生が座ると、重苦しい部屋の密度がさらに高まったような気がした。


 梶田先生は美術室に入ったきり姿を見せない。


「佐伯さんは、腕はもう大丈夫なの?」


 反射的に佐伯は左手で右肘を覆った。

 今日の佐伯は長袖の制服を着ているので右腕の様子は分からない。

 つまり坂本先生は先週末の佐伯の包帯に気づいていたことになる。

 さすがは担任教師、と僕は少し感動した。

 ホームルームの短い時間にそんなところまで良く目が行き届くものだ。


「大丈夫です」

「他に痛めたところはない?」


 何気ないこの質問に僕の胸はざわついた。

 坂本先生は陽平がやったことをどこまで知っていて佐伯に問いかけているのだろうか。


「ありません」


 佐伯の声は僕にはどこか他人行儀に聞こえた。

 佐伯は坂本先生と距離を取ろうとしている。

 それはそうだろう。

 まだ坂本先生の意図が分からない。


「仁科君は?」

「僕は全く」

「そう。よかった」


 坂本先生は小さく笑顔を見せて、そのまま陽平の方に向いた。「よかったわね」


 陽平は返事をしなかった。

 返事どころか、先ほどから糸の切れた操り人形のように項垂れて床に目を落としたまま身じろぎ一つしない。


 しかし、僕は心の中で身構えていた。

 正対しているのが傷を負った獰猛な肉食獣のように見えた。

 いつその牙を剥いて襲ってくるか分からない。

 その時はやはり僕が身体を張って彼の前に立ちはだかろうと思う。

 僕は一度彼女を守った。

 である以上、最後まで守り通したい。


 佐伯の両手は太ももの上で固く結ばれている。

 一見平然と陽平と向かい合っているようだが、彼女の心に恐怖心がないと言ったら嘘になるだろう。


 坂本先生は少し息をついた。

 この場に緊張しているのか、それとも陽平の態度に苛立っているのか。


「松波君。二人に言うことがあるでしょ?」


 やはり坂本先生は陽平が犯したことを全て知っているようだ。


 陽平が僕と佐伯に言うべきことと言えば、それは謝罪の言葉ということになる。

 しかし、いつまで待っても陽平は口を開かないだろう。

 投げやりという言葉を絵に描いたような彼の態度が明確にそれを物語っている。


 陽平も佐伯も僕も担任の先生に促されたら仲直りするしかない幼稚園児ではないのだ。


「松波君。そんな態度じゃ二人に失礼でしょ」


 坂本先生は明らかに怒気を込め声を震わせた。


 しかし、陽平は魂が抜けているように腕はだらりと垂らし、足を投げ出して座ったまま動こうとしない。

 それは自棄になっているようでもあり、不貞腐れているようにも見える。


 これでは時間が浪費されていくだけで何も解決しない。


 チッと佐伯が舌打ちして突然立ち上がった。


「教室に帰ります。授業を受けたいんで」


 佐伯を見上げる坂本先生の表情はすがりつくようだった。

 しかし、学生の本分を主張する佐伯に、教師の立場にある人間が対抗する術はない。


 口元を引き締めた佐伯の顔を見上げて、こういう幕引きもありなんじゃないか、と僕は思った。


 おそらく今の府抜けたような陽平を目の当たりにして、佐伯の心の裡から怖さは幾分拭い去られ、感情は怒りに統一されただろう。

 これで事件のことを引きずってびくびく怯えるということはなくなったように思う。

 佐伯の感情が一つに整理できたこの時点で決別して、事件のことは一旦凍結させるのはどうか。

 時間が経てばまた違った展開が見つかるかもしれない。


 受験を目前に控えた今の時期は心を平穏に保つことが何よりも大事だ。


 陽平にとっては整理できていない部分があるかもしれないが、彼は推薦での進学が決まっているし、加害者である以上仕方ない。


 しかし、僕も腰をあげようとしたとき、坂本先生の口から意外な事実が漏れ出した。


「今朝、栗山さんから職員室に電話があったの。栗山さんは『松波陽平の姉ですが』って嘘をついて掛けてきた。栗山って名乗って、担任じゃない私に用があるのは変だからね。私が電話に出ると彼女は泣いてたわ」


 坂本先生の目に少し力が込められたようだった。「彼女は警察署から電話してきてたの」


「警察?」


 どうして警察署なんかに。

 僕は椅子に座り直して陽平と坂本先生の顔を交互に見た。


「松波君は今朝、自首したの」


 自首?


 驚きだった。

 言葉が出てこなかった。


 佐伯も椅子の横で固まったままだ。


 坂本先生の話によれば、今朝登校を促すために家まで沙織が陽平を迎えに行ったが、家から出てきた陽平が沙織の腕を振りほどきつつ向かったのは警察署だったらしい。

 訳が分からず警察署の前から沙織は陽平の担任である坂本先生に電話した。

 坂本先生が駆けつけ二人で中へ入っていくと、青少年課の警察官が困惑気味に陽平から聞いた陽平が佐伯にしたことを話してくれた。


「被害届が出ていない以上、警察としては動きづらい。まずは学校の中で一度話し合っていただいて、それで警察の介入が必要という判断になったら、そのときにまた相談に来てくださいって警察の人が言ってくれたの。でも松波君は、やったことは事実だし証人もいるから、あくまで公の機関で処罰してほしいって聞かないのよ。だから栗山さんと二人でここまで無理やり私の車に乗せて引っ張ってきたって感じ」


 証人というのは僕のことだろう。

 だからここに一緒に呼ばれたのだ。


「デリケートなことだから私の一存でまだ他の先生には伝えてないの。梶田先生にも場所を提供してほしいってお願いしただけで、詳しい事情は言ってない。とにかく、私としてはまず、松波君にちゃんと佐伯さんと仁科君に謝ってほしいって思って来てもらったの。そうじゃないと他の人間がどうこう対処法を考えたって話は先に進まないから」


 坂本先生が言うことは正論だと思った。

 しかし、事件の成り行きを最初から見ていた僕の耳には空虚に響いた。


 担任教師にここまで言われても陽平が顔を起こす気配はない。

 今の陽平に佐伯と正対して素直に詫びる気持ちがないからだ。

 そうである以上、この場は茶番でしかない。

 授業前に連れ出された佐伯と僕は訳も分からず踊らされただけの良い面の皮だ。

 これからクラスに戻って周囲に何と説明したら良いのか。


 結果論になるかもしれないが坂本先生は少なくとも頭を下げて謝ることを陽平に約束させておくべきだった。

 そして佐伯と僕を個別に呼んで、陽平が謝ったら許してやれるかどうかを確認してからこういう場を設定してほしかった。


 坂本先生としては急に警察沙汰寸前の事件を解決すべき立場に立たされ混乱しただろう。

 罰してくれ、としか言わない陽平と、涙に暮れる沙織を前にしていつまでも職場から抜け出したままというわけにもいかず、解決を焦ったのかもしれない。


「松波君が悪いことをしたと思ってるのは間違いないの。実際にしてはいけないことをしたわけだしね。だけど彼は、いくら謝ってもやったことがなかったことになるわけじゃない。だったら公に裁いてもらうのが一番すっきりする、の一点張りなの。刑罰は甘んじて受けるとも言っているわ」


 坂本先生の説明の最後は明らかに困惑の色が滲み出ていた。


 坂本先生が考えるほど僕たちは素直な子供じゃなかった。

 しかし、自分たちがやったことを自分たちで解決できるほど大人でもなかった。


 奇しくも陽平が言ったことは佐伯の考えと一致すると僕は思った。

 当事者の二人が口をそろえて、覆水盆に返らず、と言っている。


 だけど、僕たちが入っていた器をひっくり返したのはやはり陽平なのだ。

 器が地に落ちて壊れてしまったのなら直さなくてはいけない。

 そしてその責任は陽平にある。


「松波君。あなた佐伯さんのことが好きなんでしょ?好きで好きでたまらなくて咄嗟にあんなことしちゃったんでしょ?だったらこんな態度のままでいいの?」


 坂本先生の声が鋭く室内に響き、初めて陽平の顔に感情の起伏が走ったように見えた。


 そうだった。

 陽平は佐伯のことが好きだから美術室で佐伯に言い寄ったのだ。


 だけど……。


 あのときの陽平の行動は佐伯への募る想いが自分で制御がきかなくなり、その結果暴発してしまったということなのだろうか。


 どこか違う、と僕は思った。


 美術準備室の空気は今最も張り詰めている。

 誰もが陽平の口に注目していた。

 しかし、それでも彼の口は貝のように静かで堅かった。


 手応えがあったかに見えた坂本先生の渾身の一撃も陽平の態度を軟化させる決め手とはならなかった。

 それは坂本先生の狙った突破口がこの問題の急所からずれていたからだと僕は思った。


 彼女は見誤っている。

 陽平の行動の核心は佐伯への恋情だけでは語れない。

 きっと、僕に対しての屈辱感こそが彼を盲目にさせてしまったのだ。


 サッカーで全国的な知名度を誇る高校から熱心にオファーされ、学年で一番人気のある沙織に言い寄られ、全校の羨望の眼差しを一身に集めている男。

 その自負がある自分が告白したのにあっさり袖にした女は、背が高いわけでもなければ顔がイケてるわけでもない、運動神経の鈍い、少し勉強ができるだけの冴えない男と毎日図書室という狭い空間でともに時間を過ごしている。

 その事実が彼の理解の範疇を超え理性の枠を突き破らせてしまったのだろう。


 一度は揺さぶられた気持ちを再度押し殺して、能面のような無表情を保つ陽平の面構えに、僕は彼の苦衷を見る思いだった。


 彼だって自分の言動を後悔し懺悔しているはずだ。

 だからこそ警察に向かった。

 しかしここに来て彼は未だかつて味わったことのない失恋による空虚感や他人への劣等感、そして自分への不信感に苛まれて気を張っていないと心が感情の奔流にさらわれて自分を見失ってしまうと思っているのではないだろうか。

 傲慢だと言えばそれまでだが、心に次々と去来する感情を持て余してまだ消化できない状態のままで面と向かって謝れと言われても、これまで瑕のない人生を歩んできた彼にはどうにも無理なのだろう。

 まだ今は口を開けば何を言い出すか自分でも自分のことが分からず怖いのかもしれない。


 空気は緊張したままで沈黙が続いている。


 坂本先生は相変わらず陽平へ謝罪を促す視線を投げかけているが、その目にあった期待の光はいつしか諦めの色に塗り込められ、明らかに輝きを失っている。


 誰かが停滞するこの場面を動かす必要があった。

 そしてそれはもはや矢を打ち尽くした感のある坂本先生には無理そうだし、陽平にはそもそもその気がない。


「私、こないだのことは何とも思ってませんから」


 冷やかにそう言い残して、佐伯はくるりと背を向けドアに向かった。

 待って佐伯さん、と坂本先生が掛ける声を振り払うように素早くドアを開け放ち、佐伯は立ち去っていった。


 佐伯としてはあのように言うしかなかっただろう。


 被害者は佐伯なのに、佐伯が譲らないといけない状況を作り上げてしまったのは坂本先生の罪だ。


「佐伯が可哀想です」


 僕は胸がカッと熱くなり、思わず責める目で坂本先生を一瞥し佐伯を追った。


 廊下にはすでに佐伯の姿は見えない。


 どこに行ったのだろうか。

 とりあえず僕は走り出した。

 佐伯ならこのまま何事もなかったように教室に戻るかもしれない。

 それとも怒りに駆られてこのまま家に帰るか。


 とにかく僕は佐伯を慰めてあげたかった。

 胸の痞えを融かす魔法のような言葉を投げかけることはできないけれど、せめてそばにいてあげたいと思った。


 階段を駆け下りようとしたとき頭上から声が聞こえてきた。


「こっちこっち」


 見上げると佐伯が屋上に繋がる階段の踊り場に腰掛けていて、僕に向かってひらひらと手を振っている。「光太郎は優しいから追いかけてきてくれると思ったよ」


「別に優しくなんか……」


 そんなことを言われると面映ゆい。

 行動を見透かされているのも恥ずかしい。

 僕は佐伯の顔をまともに見ることができないまま、ゆっくり階段に足を掛けた。


 佐伯は立ち上がり、そのまま階段を上がっていってしまう。


 屋上へ出るドアが軋む音がして、僕は急いで階段を駆け上がった。

 その鉄のドアは重く、外の風に任せて閉めると校舎を揺すらんばかりの大きな音が立ってしまうのをきっと佐伯は知らない。

 授業中にそんなことになってはまずいし、坂本先生に僕たちの居場所がばれてしまう。


 僕は閉まりかけている鉄の扉に身体をぶつけてその動きを止めた。

 身体を滑り込ませるように屋上へ出るとゆっくりドアを閉めた。

 振り返ると、手すりに背中を預けた佐伯が笑ってこちらを見ていた。


「風が柔らかくて気持ちいいよ」


 そよいでいく秋風に彼女の髪が軽く揺れる。


「うん」


 温かい日差しが降り注いでいて、彼女が言うとおり滑らかな風が火照った顔に気持ち良かった。


 僕が佐伯の隣に立つと、眉間に皺を寄せ低い声で「佐伯が可哀想です」と彼女が言った。

 僕の真似をしたのだ。


「聞いてたの?」


 鎮められつつあった胸の高ぶりが再び急に燃焼しだして、今度は耳まで赤くなる。


 慌てた僕の様子が面白いのか佐伯がクククと押し殺したように笑う。


「ありがと。あんなこと言ってくれて嬉しかったよ」

「だって、まるで佐伯が悪役みたいになっちゃったから」


 佐伯はもたれていた手すりに向き直り、その上に頬杖をついた。

 少し醒めたような険のない目で街並みを見下ろしている。


「あれはあれでよかったのかもよ。マツにもさかもっちゃんにも頭に来たけど、ずっともやもやしてたのがなくなって今はすっきりしてる」


 佐伯が強がっているのではないことは、目を閉じて風の言葉に耳を澄ましているような彼女の穏やかな表情から分かる。「これでまた身を入れて勉強頑張れそう。よろしくね、光太郎」


 これまで気丈に振舞っているように見えたが、やはり内心は彼女なりに揺れ動き集中力を欠いていたのだということが伝わってきた。

 しかし、そう言われても僕の目には事件の前と後とで夢の実現に向けて努力する彼女の姿勢に何ら違いを見つけられなかった。


 夢をその手につかみ取ることができる人はこういう人なのだろう。

 何があっても自分のスタイルを貫き通す芯の強さがそこにはあるのだ。


「強いな、佐伯は」


 僕は手すりに背中を預け、空を仰いで感嘆した。

 彼女の心はこの空のように大きい。

 分厚い雲に覆われて横殴りの雨が降っても、いつか必ず澄み切った青空を広げてみせる。


「やめてよ。そういうこと言われると光太郎にも弱音吐けなくなっちゃう」


 僕は彼女の口から意外な言葉を聞いて、思わず手すりから身体を起こし彼女を見た。

 気のせいだろうか、その頬は先ほどより少し赤みがかっているようにも見える。


 僕は再び身体を手すりに預けて静かに呼吸を整えた。


 彼女が、ほんの少しだが今確かに自分の弱さを僕に見せてくれた。

 その言葉を耳に思い出すだけで、何故か身体がふわふわして首筋がこそばゆくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る