第26話
図書室にはやはりバリバリと勉強に打ち込む佐伯の姿があった。
僕が向かい側に腰を下ろしても彼女は何も話しかけてこず、数学の問題集を次々とこなしていた。
その様子に大いに触発された僕もみぞおちの下あたりに力をこめ、やる気を漲らせシャーペンを握った。
佐伯に負けてはいられない。
僕は英文法の問題集に取り組んだ。
苦手な英語を何とかしないといけない。
佐伯に追い抜かれないように。
父さんに二度と「教えてやろうか」などと言わせないように。
どれぐらい時間が経っただろうか。
ふと顔を起こすと佐伯が手を休めてこちらを見ていた。
「どした?」
「ちょっと訊いていい?解き方が分かんない」
僕が頷くと、佐伯は手を伸ばして僕に数学の問題集を見せた。
シャーペンの先で三角錐が描かれている図形の問題を示す。
定理や相似を使って解く、少しテクニックの必要なものだ。
「これはさ、この三角形とこっちの三角形を見ると、この角度が共通してるし、辺の比を見ると同じだから……」
「え?どの三角形のこと?」
「この三角形と、この三角形」
二つの三角形を図上で示すのだが、なかなか佐伯に伝わらない。
「だから、どれと、どれよ」と少し苛立ったような声で訊いてくる。
しかし、僕としては三角形をシャーペンの先で囲んで見せるぐらいしか方法がない。
「こっちから見てると意味分かんない」
そう言って佐伯は僕の隣の椅子に移動してきて、僕の肩に顔を寄せ「どれと、どれ?」と訊いてきた。
ふわっと佐伯の髪のにおいが僕の鼻をくすぐった。
甘い香りだった。
何だろう。
柑橘系のようだけど酸っぱそうではない。
佐伯のにおいは甘いにおい。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
佐伯がこんなに良いにおいをさせていることに。
もっと感じていたい。
だけど、どこか後ろめたい。
「どうかした?」
「あ、いや、何でもない」
僕は慌てて机の上に意識を戻した。
設問の図から二つの三角形を余白に書き写して、それぞれの角の大きさが同じで、辺の比も同じになることを根気よく説明した。
漸く、ふんふんと頷き得心顔になった佐伯の向こうに僕らと同じクラスの女子生徒が見えた。
僕と目が合うと慌てて顔を背け図書室から出ていく。
僕はその後ろ姿に妙にいたたまれなくなる。
何だろう。
この落ち着かない気分。
不意に僕の心に一つの疑問が芽生えた。
僕らの姿は第三者にはどのように見えているのだろうか。
「佐伯」
「何?」
「図書室で勉強するのやめようか」
佐伯は「これとこれかぁ」と呟きながら動かしていたシャーペンを止め、問題集に落としていた目を僕の顔へ向けた。
「どうして?」
「だって、それは……」
言いかけて、佐伯には失笑されるのが落ちだと思ったが、やっぱり一度言い出したら止められなかった。「周りの目があるから」
僕や佐伯が知らないところで僕たちは噂の二人になっていたのではないか。
勉強はできるがパッとしない日陰の男子と、何を考えているか分からず近寄りがたい訳ありの女子転校生。
放課後に毎日向かい合って勉強するなんて怪しいよね、みたいなことで。
知らず知らず好奇の目にさらされていた二人。
そして陽平もその噂を耳にして、実際自分の目で確認したかもしれない。
彼の目には仲良く勉強する僕たちが、まるで恋人同士のように見えたのだろう。
そして僕たちは無意識だが彼の神経を逆なでるように秘密めかして、クラスの中では沈黙を守りつつ放課後には手を取り合うようにして向かい合っていた。
陽平の愚行を招いた一因は僕たちの行動にあるのではないか。
少なくとも陽平は佐伯に対する想いを僕に打ち明けていた。
陽平にしてみれば僕の行動は裏切りに見えたのかもしれない。
「周りの目?」
案の定、佐伯は僕が何を言っているのか分からない様子で、至近距離で僕を見上げる。
そんな鈍感な佐伯に僕は珍しく苛立った。
「あらぬ誤解を招きかねないから」
そう口にするのが何故かつらかった。
僕は今、佐伯と距離を取ろうとしている。
恋人と誤解されない距離を。
それは誰のためになのか。
いったい何のためになのか。
分からないけれど、僕は佐伯を遠ざけないといけないと感じていた。
図書室で一緒に勉強するようになる前の僕たちの遠さにまで。
それが正しいことのように思えた。
それが中学生の男子と女子の保つべき間隔であり感覚であるように感じた。
そしてそれは数日前までは何でもない距離だったのに、今となってはどこか身を剥がれるような痛みを伴っていた。
佐伯は僕の言いたいことに思い至ったようで、途端に眉間を曇らせた。
「あらぬ誤解って何だよ」
身体を起こして暗く冷たい視線を投げてくる佐伯に、僕は思わず怯んで窓の方へ顔を向けた。
薄暮時の校庭にしとしとと雨が降り続いている。
窓についた水滴で向こう側が見えにくくなっていることが僕を少しほっとさせる。
僕は佐伯をまっすぐ見た。
正面から彼女の視線を受け止めた。
ちょっと前までは絶対にできなかったことだ。
それが今はできている。
僕らは近づいてしまったんだ。
僕にとってこんな距離感に存在する女子は他にはいない。
僕にとって佐伯は他の女子とは違う存在になっている。
特別な人になっている。
「陽平のことどうするつもり?」
心の中の何かをものすごく振り絞って、僕は佐伯に問いかけた。
これをはっきりさせないと陽平はもちろん、僕もいつまで経っても細いロープの上を歩かされているような気持ちでいることになる。
「どうもしないよ」
佐伯は放り投げるように憮然と答えた。
「じゃあ、今までどおり変わらずってこと?」
返事はなかった。
目を伏せたのは佐伯の方だった。
暫く待っても佐伯の口からは何も聞こえてこなかった。
何も答えたくない、ということではない。
一旦口を開きかけてはすぐ閉じてしまう。
何かを言いたいのだが、どう表現したら良いのか言葉を探しているような様子だった。
「分かんない。マツのこと見たら殺したくなるほど悔しくて泣けてくるかもしれないし、意外に平然と喋れるかもしれないし……」
今度は僕が何も言えなくなってしまった。
やはりまだ訊いてはいけないことだったようだ。
普段の様子から、既に佐伯は陽平にされたことを過去のことと整理しているように見ていたが、そんなことはなかった。
彼女が負った傷はかさぶたにもなっていないのかもしれない。
傷口にはまだ血が滲み、触れれば痛みが走るに違いない。
「ごめん。酷なこと訊いちゃって」
佐伯は「そんなことないけど」と口の中でもごもご言った。
「でも、元には戻れないよ。結果だけを見れば私が床で肘を打って打撲しただけだけど、マツがあたしにしようとしたことは不注意とか魔が差したとかで済むような話じゃない」
それはそうだ。
僕は肯定の気持ちが佐伯に伝わるようにはっきりと頷いた。
したいと思ってはいるが実際にはしていないことと、現実にしてしまったこととは決定的に違う。
時計は元には戻せない。
陽平は越えてはいけない一線を越えて、彼女の自由を力ずくで奪おうとした。
許されることではない。
ないけれど……。
「さっき陽平がグラウンドに来てたんだ」
「だから何?」
陽平の名前はもう聞きたくないというような不機嫌そうな声だ。
「あいつのこと許してやってくれないかな。あいつも大きな夢を持ってるんだ」
僕はちっぽけな人間だが、陽平は違う。
彼はサッカー選手になることを心に誓って、これまで人知れず血の滲むような練習を積み重ねてきた。
その夢の成就への姿勢はこれからも変わらないだろう。
その本気度は佐伯の絵に対する想いに勝るとも劣らない。
僕はそんな彼を尊敬し今も応援している。
夢への姿勢に陽平と同じ熱さを持っている佐伯なら、僕以上に陽平と共感できるのではないか。
「どうして光太郎はそうなの?」
「何が?」
「だから、どうして光太郎はあんな奴のこと助けようとするの?」
佐伯の口調が珍しく熱を帯びている。
僕に何かを強く訴えようとしている。「あんなこと言われて平気なの?光太郎こそ、これからもマツと今まで通り変わらずやっていけるの?」
よく見ると佐伯は頬や首筋をうっすら朱に染めているようだった。
ひょっとして彼女は僕のために怒ってくれているのだろうか。
僕は陽平に何を言われたのだろう。
陽平が佐伯に抱きついて押し倒そうとしていた場面。
それに遭遇した僕はパニックに陥っていたのか、陽平が口走ったことをあまり覚えていない。
確か、陽平は僕と佐伯が付き合っていると勘違いしていて、あんなダサい奴のどこがいいんだ、みたいなことを言っていた気がするが。
「陽平が言ったことって別に間違ってないから」
「事実かどうかは問題じゃない」
佐伯は吐き捨てるように言った。「聞いた相手が不必要に傷つくかどうか。それが大事なんだよ」
相手の気持ちを慮るべきだという佐伯の言葉は僕の心にすんなり入ってきた。
間違っていても、いなくても、口にすべきではないことがある。
僕は佐伯の優しさに触れて、佐伯に自分の心がどうしようもなく吸い寄せられるような感覚に陥った。
他の景色はぼやけて佐伯しか見えなくなっていた。
しかし、それでも僕は陽平のことを守りたかった。
「あのとき、陽平は僕がいることに気付いてなかったから。だから、僕に対して言ったつもりじゃないよ」
僕がそう言うと佐伯はさらに厳しく僕を見つめてきた。
その激しさは睨みつけるという表現でも生ぬるい。
その眼は僕の態度に物足りなさを感じ業を煮やして赤く燃えているようだった。
至近距離の佐伯の射るような視線は銃口を銜えさせられたような確固たる恐怖で僕の心を怯ませる。
しかしそうであっても僕には陽平に対して擁護したい気持ちはあるが、怒りがこみ上げてくることはなかった。
佐伯は僕の表情に彼女が期待する色が浮かんでこないのに呆れたのか嫌気がさしたのか、不意に目を落とすと立ち上がって元いた自分の席に戻っていった。
机の上に広げていたものを鞄に仕舞う。
時計を見るともう帰らなくてはいけない時刻だった。
しかし、僕は動けなかった。
佐伯の動作を黙って見つめていた。
彼女は怒っているのだろうか。
僕の態度が煮え切らないと憤っているだろうか。
「やめないから」
佐伯は鞄を肩にかけると一つ僕に宣言した。
「え?」
「ここで勉強するの、やめないって言ったの。あたし、他人の目なんか全然気にならない。どう思われたっていい。それとも……あたしんちでする?」
「それは……」
僕が口ごもると、佐伯は意外にも子猫のような無邪気な笑顔を残して図書室のドアに向かった。
その柔らかい表情に僕は魔法を解かれたように身体が動きを取り戻して、鞄に問題集を放り込んで佐伯の後を追いかけた。
とても佐伯には敵わないな。
僕は諸手を挙げて降参する気分だった。
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