第25話

 やはり次の日も陽平は学校を休んだ。


 推薦での進学が決まっている陽平にとって中間テストの一日目を休んでしまった今となっては、残りのテストを受ける気にならないのは誰が想像しても分かるというものだ。


 そして明日は土曜日なので、陽平がクラスに姿を見せるのは早くても月曜日の朝となる。


 それが予想できていたので昨日はゆっくりと眠ることができた。

 睡眠不足が解消されると、何となく心にゆとりができたようだった。

 ぐちゃぐちゃしていた頭の中も雨上がりの空気のようにすっきりして、昨日よりは落ち着いて物事を考えることができるようになった。

 だからと言って自分が今後佐伯や陽平にどう接していけば良いか判断はつかないままだったが。


 坂本先生も今朝のホームルームでは陽平がいないことだけ確認して何も言わなかった。

 もし陽平から何らかの連絡が来ているなら、陽平がいないことを確認する必要はないし、心配している生徒もいるだろうからと陽平が休んでいる理由を説明しただろう。

 触れないということは学校にも陽平から連絡は来ていないということか。


 そもそもあんなことにならなくても陽平はテストを休むつもりだったのかもしれない。

 出席する気がなかったからこそ前日に告白したのではないだろうか。

 いくら陽平でも佐伯に振られる可能性を全く考慮していなかったとは考えづらい。


 気になるのは、陽平は佐伯に断られたときにはあんな風に力ずくの行動に出ようと前もって計画していたのかということだった。

 それとも実際にあの場面に至って佐伯への気持ちが抑えきれず、頭に血が上って暴走してしまったのか。

 もし前者だとすれば陽平の罪はさらに重くなるだろう。

 佐伯も陽平を危害を加えてきた犯罪者としてしか見られないように思う。

 犯罪者をすぐ許すなんてできることではない。


 放課後、僕は無言で教室を出ていく佐伯の背中を見送った。


 今日も彼女は図書室で勉強するだろう。

 僕も彼女を追っていつもどおり図書室に行くつもりではある。


 しかし、僕は教室の窓のそばから離れられないでいた。


 席を立ち窓枠に肘を置いて頬杖をつきながら、ぼんやりとグラウンドを見下ろす。


 サッカーを取ったら何も残らないような生活を送っていた陽平にとって、ボールを蹴らない日が続くなんて耐えられないのではないか。


 学校に来なくてもサッカーの練習はできるし、彼が現れたところで僕は何をしたいのか自分でも良く理解できていない。

 だけどグラウンドが見える窓のそばから離れるのは、どうしても後ろ髪をひかれるような思いがするのだった。


 外は朝から雲が低く立ち込めている。

 湿り気と土埃のにおいがするひんやりした風がカーテンを静かに揺らす。

 いつ雨が降り出してもおかしくないこんな空模様では、陽平はなおさら外に出る気がしないかもしれない。


「仁科君。何か知ってたら教えて」


 振り返ると思い詰めた表情の沙織が立っていて、僕は心の中で悲鳴に近いような声を出していた。

 今の僕にとって沙織は最も顔を合わせたくない人物だった。

 僕は背中が窓枠につくまで後ずさりをして彼女とできるだけ距離を取ろうとした。


 沙織は真剣な面持ちで僕の顔をまじまじと見つめてくる。


「何かって?」


 僕はとりあえずとぼけてみせる。

 しかし、後ろめたさが顔色に出ていない自信はない。


 僕の手応えのない態度に、彼女は少し苛立ちを覚えたようだった。

 「もちろん」と大きな声を出した彼女は周囲に目をやりながら声をひそめた。


「陽平君のことよ」

「風邪でもひいたんじゃないのかなぁ」

「それはないと思うな。一昨日は元気そうだったもん」

「テストなんか受ける必要がないから、家で惰眠を貪ってるとか」


 それもないわ、と彼女は言下に否定する。


「陽平君はサッカー馬鹿なんだから、毎日グラウンドでボールを蹴らないと足がうずいちゃうの。だからテストは受けなくてもサッカーのために学校には来るはずなのよ」


 沙織は一学期の期末テストのときのことをしっかり覚えていた。

 放課後に陽平は誰もいないグラウンドで一人でシュート練習をしていたらしい。

 陽平のサッカーの実力は先生たちも認めるところだから、部活禁止期間中ではあるが、陽平の行動を黙認していたのだろう。


「いくらサッカーにのめり込んでても、たまにはボールを見たくないときもあるんじゃないかな。二学期が始まってすぐに陽平と栗山さんって何人か集まってカラオケ行ったことあるでしょ。あのときあいつ、たまには息抜きも必要だからって言ってたよ」

「あれは私が無理やり誘ったの。前からお願いし続けてたから仕方なく来てくれたって感じ。でも一時間だけ歌ったら、ボール蹴らないと足がうずくから、って学校に戻っちゃったのよ」


 沙織は探偵が考え事をするように僕の前を右へ左へ行ったり来たりしながら、人差し指を唇にあてた。「その陽平君が昨日は学校に来なかった。そして今日も来ていない」


「学校じゃなくてどこかの公園でボール蹴ってるのかも」


 僕は苦し紛れの推測を口にしたが、沙織はそれを聞こえていないかのようにあっさり無視して窓に近寄った。

 窓枠に手を掛け外に身を乗り出し吹き抜ける風を頬で弾きかえした。


「陽平くーん。どこ行ったー?何してるー?」


 沙織は口に手を添え、誰もいないグラウンドに向かって大きな声を張り上げた。

 その声は厚く広がる雲に吸い込まれるようにすぐに掻き消えてしまう。


 不意にこちらを向いた沙織の顔は眉間のあたりに少し憂いを示していた。


「雨」


 言われて僕は空を見上げた。

 目を凝らすと確かに蜘蛛の糸のように細い軌跡が何本も見える。


 佐伯は拳を握り締め、「私、行ってくる」と僕に宣言した。


「どこへ?」

「家よ」


 沙織は目を爛々と輝かせている。


「陽平の?」

「そう。きっとこれはチャンスなんだわ。何があったかは分からないけど、きっと何らかの事情で陽平君はボールを蹴ることもできないぐらいに打ちひしがれたのよ。心に傷を負った彼は自分の部屋に閉じこもってる。そこへ私が現れて彼のハートを全力で癒してあげるの。それで陽平君は私を愛しく思ってくれるようになる」


 沙織はどこを見ているのだろう。

 視線が宙を彷徨う。「今日という日に私は佐伯さんを逆転できるかもしれないわ」


 沙織のたくましさに僕はただただ感心するばかりだった。

 彼女の力強い前向きな言葉に何故か僕は心を救われたような気がしていた。


 沙織は「じゃね」と軽く手を上げて小走りで僕の前から去って行く。


 しかし、僕はその沙織を慌てて呼び止めた。

 僕が見下ろす先のグラウンドに陽平がいたのだ。


 降り出した雨の中でボールをリフティングし始める。

 足の甲、太もも、額、肩、胸。

 ボールは意思を持っているかのように陽平の身体にまとわりついている。


 沙織は再び窓から身を乗り出した。

 そして陽平の姿を確認すると、「仁科君ありがと」と言い残し、窓枠を押して反動をつけ、つむじ風を巻き起こすような勢いで教室を出ていった。


 彼女のスカートの裾が大きく揺れて、白い太ももが見え隠れした残像が目にくっきり焼きついて、僕は暫く動けなかった。


 何とか振り返ると陽平はまだボールを地面に落とすことなくリフティングを続けている。


 すぐにグラウンドに沙織が駆けだしてきて、陽平に近づいていく。

 そばまできて肩で息をしながら何やら話しかけているようだが、陽平は沙織よりもボールとの会話を優先させている。


 僕はその様子が面白くて一人で笑い、そして静かに窓から離れた。

 陽平と沙織はやはりお似合いだった。

 他人が見て楽しくなるようなカップルなどそうはいない。

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