第24話

 僕は無人島に取り残されたようなひんやりと肌寒い心に活を入れ、病院に向かって自転車を漕いだ。

 昨日来られなかったことについて母さんに何と言おうか考えながら病室に着くと、そこには白衣の人間が二人いた。


 一人は極端に言葉数の少ない母さんの担当医師だったが、もう一人の計器を操作している男性を僕はこれまで一度も見たことがなかった。


 二日ぶりに会う母さんはまだ眠っていた。


 目を閉じている母さんの頭には何やら見慣れないコード類が何本も伸びていて、医師が触っている計器に繋がっていた。


 お世辞にも広いとは言えない部屋が今日はさらに狭く感じる。

 ベッドの大きさは変わっていないが、母さんの寝姿もどこか窮屈そうに見えた。


「こんにちは。光太郎君だね?」


 初めて見る医師は「柳田です」と機械から手を放し、人の好さそうな柔和な表情で僕に挨拶をしてきた。

 顔のつくりだけでなく、色白でややぽっちゃりとした体形からも何となく親しみやすい雰囲気が醸し出されている。

 年齢は父さんや母さんと同じぐらいだろうか。

 童顔だから実際はもっと老けているのかもしれない。


「また実験ですか」


 僕はあなたのその外見にはだまされませんよ、という気持ちで心の中で身構えた。


 母さんは事故以来何度となく検査を受けてきた。


 はじめのうちは通常の生活を取り戻すために必要な治療の一環だとありがたく思い、かつ期待を込めて、母さんが様々な医療機器に繋がれるのを見守っていた。

 しかし、医師が代わる代わるやってきては検査やらテストやらを幾度となく繰り返しても、母さんの状態は一向に好転しなかった。


 事故の時に強く頭を打っておられ、その影響が現在の状況を引き起こしているのは間違いありませんが、脳のどの部分に起因しているのかなかなか判明しないのです。


 彼らがロボットのように表情なく言い訳めいた説明を繰り返すのを聞かされては失望をさらなる失望で塗り込める作業は、次第にやり場のない苛立ちを伴うようになってくる。


 最近ではその一本調子の決り文句ですら口にしない医師もいて、検査データをこちらに開示してくれるわけでもない(見せてもらったところで理解できないのだろうが)。

 そうなると母さんがほぼ決まった時間に目覚め、二時間弱の経過で意識を失うように眠りに落ちるという極めて珍しい症例であることを受けて、この人たちは治療のためと言うよりは興味本位で、母さんをモルモットのように扱っているのではないかという疑念すら湧いてくる。


「いいえ」


 柳田は諭すような口調で僕に語りかけた。「これは治療の一環です。ご期待に添えない状態が続いていて心苦しいですが、私たちもお母さんに一日でも早く回復していただけるようにと努力しているのです」


 正面切ってそう言われると返す言葉がない。


 僕自身には何の力もなく、彼らに見放されたらどうしようもないという厳然たる事実が僕の心に生えた抵抗の牙をするりと抜いていく。


 僕と医師の間に横たわる母さんが、花弁が開くように少しずつゆっくりと目を開ける。


「ご気分はいかがですか?」


 母さんは柳田にこたえる前に僕の存在を確認して一つ頷いて見せてから「変わりないです」と呟いた。


「そうですか」


 柳田は満足そうに目を細めると素早く母さんの頭からコードを取り外し、母さんと僕に軽く頭を下げてもう一人の医師と部屋を出ていった。


「また検査?」

「そう。よく分かんないけど」


 母さんが僕以上にうんざりそうなのを見て、しまった、と唇の内側を噛む。


「でも、原因を調べないことには治るものも治らないよ。検査で痛いとか息苦しいとかない?」

「それはないけど」

「じゃあ、どんどん調べてもらって早くよくなろ。数打ちゃ当たるよ。さっきのお医者さんも頑張るって言ってたし」

「そうね。あの新しい先生は今までの中で一番感じのいい人だったわ。しかも、人懐っこい顔してるけど、ああ見えてその道の権威なんだって。あのいつも黙りこくってる担当の先生が血走った眼で自分から話しかけてるぐらいだったから、相当すごい人なんじゃないかな」

「権威って呼ばれるような人に診てもらえるなんて、母さんも大したもんだね」

「そうよ。こう見えてもただ寝てるだけじゃないのよ」


 母さんが胸を張る姿に僕は噴き出すように笑って見せた。


 しかし、母さんは強がっているだけなのだということは、僕には分かる。

 そして僕の笑顔も作りものだということを母さんだって見破っているだろう。

 僕と母さんは病室という舞台で哀しい芝居を演じているのだ。


 道の権威をもってしても駄目だったら……。


 この二年間期待を裏切られ続けてきている以上、それを考えないようにすることは、もう僕には難しくなってきていた。

 僕にできないのなら本人はなおさらだ。

 それを腹の底に互いに隠して僕と母さんは表面を取り繕っている。


 そしてこの半年で母さんが起きていられる時間は少しずつ短くなってきているということを僕は誰にも、父さんにも話せずにいる。

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