第23話

 翌日、僕が登校すると佐伯はすでに自分の席に座っていた。

 いつもどおり頬杖をついて、群を嫌う狼のように誰とも言葉を交わすことなく、ただ気だるそうな視線を窓の外に向けていた。


 そうだろうな、と僕は思った。

 佐伯なら努めてなのか自然になのかは分からないが、これまでの日常を今日も続けるだろう。


 ただ、制服の袖から右肘を覆う包帯が少し見えているのが明らかにいつもと違うことだった。

 大丈夫か、と声を掛けたいと思ったが、佐伯の教室での他を寄せ付けない雰囲気は相変わらず侵しがたく、他のクラスメイトが近くにいては昨日のことを話しづらくもあってやめておいた。


 あとは……。


 佐伯の出方は予想できていたのだが、陽平が僕や佐伯に対してどういう態度を示すのか、僕には見当がつかなかった。


 平身低頭で詫びを入れるのだろうか。

 まるで待ち合わせに遅れたときのように軽い調子で謝るのだろうか。

 それとも僕たちのことを無視して絶縁状態に陥るのだろうか。


 そのとき僕はどういう行動に出るべきなのか。


 僕は頭の奥に重く締め付けるような圧迫感を覚えていた。


 僕は完全に寝不足だった。

 どうするどうする、と自問自答して結論が出ないまま今朝を迎え、落ち着かない気持ちのまま教室で陽平を待ち続けたが、彼はいつまで経っても姿を見せない。

 今日から中間テストだというのに。


「誰か、松波君から何か聞いてない?」


 朝のホームルームで坂本先生が誰とはなく問いかけるが、僕は前の席の生徒の背中辺りをぼんやり眺めながら黙ってやり過ごした。


 昨日のことが欠席の原因であることは疑いないところだが、だからと言って僕に何が言えるだろう。


 後ろにいる佐伯はどうするだろうかと思ったが、彼女もその場では一言も発することはなかった。

 きっと先ほどと変わらない姿勢で視線を外へ向けたままだろう。


「まあ、季節の変わり目だから体調崩したのかもね。みんなも気を付けるのよ。受験生は健康第一なんだから」


 そう言う先生は元気そうに見えた。

 張りがあるのは声だけではない。

 化粧を変えたのだろうか。

 どこがどうとは言えないが顔全体に華やいだ感じが見られるような気がする。


 ここのところトレードマークのカーディガンも羽織っていない。


 そのことに気づいたとき、車中の父さんと坂本先生の情景が僕の目に浮かんできた。

 どことなく生き生きとして見える彼女の様子に父さんが影響しているかもしれないと考えて、僕はその思考を追い払うように首を横に振った。


 結局その日、陽平は姿を見せることはなかった。


 すでにスポーツ推薦での進学が決まっている彼にとって学業面の成績など今さらどうでも良いのかもしれない。

 だとすれば明日のテストもおそらく彼は教室には姿を見せないだろう。


 放課後、僕は何をするということもなく教室に残って窓から外を眺めていた。


 この学校ではテスト期間中は部活は行われない。

 当然、グラウンドは荒涼たる砂漠のように誰の姿もなく、時折強い風が吹き抜けるだけだ。


 陽平も佐伯と同じぐらいに熱く自分の夢を追っている、と僕は思っている。

 だからテストはさぼってもボールを蹴りに姿を見せるかもしれないと思ったのだが、のっぺりとした砂漠の景色はいつまで経っても時間が止まっているような錯覚に陥るほど変化はなかった。


 図書室に向かうと佐伯が教科書を開いて黙々とノートに書き込みを加えていた。

 陽平に怖い思いをさせられても、そしてその陽平が無断で学校を休んでも、彼女の夢へ向かって取り組む形に変化はない。


 僕は彼女の邪魔をしないように静かにその斜め向かいに腰を下ろし、自分の勉強を始めた。


 佐伯の精神力には脱帽だった。


 全くいつもと変わらず勉強に取り組んでいる、ように見える。

 時折、分からないところの解説を求めたり解き方の確認をしてきたりするが、余計なことは一切喋らずすぐに自分だけの世界に戻っていく。

 目を見開いてノートにシャーペンを走らせる彼女のその姿勢からは、夢の実現に向けての気迫がにじみ出ているようだった。


 僕はどうにも勉強に対して気持ちが乗らないでいた。


 佐伯の集中力に触発されて自分もやらなくてはいけないと思いはするのだが、昨日の美術室でのことを思い出したり、陽平が今何をしているかを考えたりしてしまう。

 問題を解く気になれず、ノートを読み返しても頭に入ってこず、ただぼんやりと教科書を眺めているうちに時間だけが過ぎていってしまっていた。


「そろそろ上がろっか」


 佐伯は四時十五分きっかりに机の上を整理しだした。


 僕はちっともはかどらなかった勉強を切り上げ図書室を出た。


 自転車置き場で、「じゃあ」と言って別れたが、僕は自分の自転車を押して自転車置き場を出たところで佐伯を振り返った。


 佐伯も自転車に乗らずに少し険しい顔でこちらを見ていた。


「昨日はありがとう。……それだけ。お母さんによろしく。じゃね」


 それだけ言って佐伯は僕に背中を見せた。

 僕は追いかけるように気になっていたことを佐伯に投げかけた。


「腕、大丈夫?」

「大丈夫」


 佐伯はちらりとこちらを振り返ると、寂しそうでもあり苦しそうでもある頬笑みだけ残して、サッと自転車を漕いで行ってしまった。

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