第22話

 僕らは秋の夜道をてくてく歩いた。

 二人の自転車のライトが小さく道路を照らし揺れて交差する。


「光太郎もお母さんのこと好きでしょ?あたし、親を嫌いだって言う人、嫌いだからね」


 彼女の眼の奥には炎が見えるようだった。

 母親に対する強く熱い想いが覗いている。


「好きだよ。好きなんだけど……なかなかね」


 僕も「なかなか」に思いを込めた。


 母さんの事故から時間が経って、家に母さんがいないことが日常になってきた。

 だけどそれに慣れてしまったわけじゃない。

 こんな状態を普通だとは思えない。

 思えないけど、非力な僕に母さんのためにしてあげられることは限られている。

 母さんが元気を取り戻すことが僕自身のためでもあることは分かっているのに。


「あ、ごめん。あたしのせいで今日病院に行けなかったね。今からでも行って。あたしもう大丈夫だから」

「うん。でも、今日はもういいんだ」


 僕が言うと佐伯は今にも何かが零れ出しそうな哀しそうな目で僕を見た。


「面会時間終わっちゃった?それならちょっと今から病院に電話してよ。お母さんにあたしから謝らせて」

「本当にいいんだって」


 僕は苦笑した。


 今から病院に向かっても、眠りの中にいる母さんに独り言のように話しかけることしかできない。

 今まで前もって知らせることなく見舞いを休んだ日はなく、母さんに心配を掛けたかもしれないが、今さらどうしようもない。

 やはり時間はさかのぼれない。


 僕が首を横に振ると、佐伯はまるで駄々っ子のように自転車を止めて立ち尽くした。


「光太郎がよくってもあたしがよくないよ。入院してるならなおさらお母さんとの時間を大切にしてもらいたいのに。お母さん、どこの病院に入院してるの?」


 僕が口を開かずにいると彼女は携帯電話を操作し始めた。

 ネット検索し病院の電話番号を探そうとしているようだった。「この辺りで大きな病院って言えば……」


 僕も立ち止まって佐伯を振り返った。


 僕が、母さんの見舞いに行く、と言い残して突然立ち去ったのを受けて、佐伯が楽しみにしていた観覧車に乗るのをやめたことを思い起こしていた。

 彼女にとって母親という存在に対する思い入れは僕が想像するよりも深いようだ。

 彼女は今日の出来事で僕が母さんの見舞いに行けなくなってしまったことをとても重い罪悪と感じているのだろう。


 だが病院に電話しても今の時間に母さんが受話器を取ることはない。


「もうこの時間には寝てるんだ」

「そうなんだ。病院って消灯時間早いって言うもんね」


 佐伯は僕の腕時計を覗き見て、少し皮肉っぽく軽い口調で言った。


 まだ七時を過ぎたところだ。

 生活リズムを大切にしなくてはいけない入院患者もこんな時間に寝付けるはずがない。


 佐伯は僕が冗談を言っていると思っているのだろう。


 でも僕が母さんのことで冗談を言うはずがない。

 僕は再び足を前に出した。


 しぶしぶといった感じで佐伯が横に並んでくる。


「あそこがあたしんちだよ。ゆかりってお店」


 佐伯の指の先に目を向けると、二十メートルほど行ったところに、小さな間口の入り口に白い暖簾が掛かっている定食屋のような店構えがあった。

 店舗の壁に設置してある小型の電光掲示に「台所 ゆかり」と表示されているのが読める。


 佐伯の家が騒々しいというのが何となく理解できた。

 お酒を出す店なら酔客が騒ぐこともあるのだろう。


「佐伯のお母さんがゆかりさん?」

「あら。よく分かったね」


 佐伯は完全に僕を小ばかにしている。

 今度は少し角度を上げて再び指をさした。「二階の角があたしの部屋。上がってく?」


 突然の申し出に僕は反射的に首を振った。

 平然と誘ってくるのは僕をからかっているのだろう。

 それにクラスメイトの女子の部屋に上がるなんて、想像しただけで緊張して心臓が痛い。


 僕たちはしばらく佐伯の家を目前にして自転車のハンドルを握ったまま黙ってしまった。


 ここまで来て部屋に上がらないとなると、ここでサヨナラとなる。

 どちらかが「じゃあ」と手を振ればそれで終わりだ。

 しかし、互いにそうはしないのは、佐伯はまだ自宅の扉を開けるには自分の身体や心に残っている先ほどの感触が生々しすぎるのかもしれないし、僕は佐伯に母さんの状態について中途半端な知識を与えたままにしておくのは落ち着かなかったからだ。


 ここで僕が自転車に乗って帰ってしまったら、佐伯は仕事をする母親の邪魔をしないために、一人寂しく自分の部屋で膝を抱えて時間を過ごすのだろう。


 後から歩いてきたおじさんが僕たちを追い抜いていくときにチラッとこちらを見たのが分かった。


 道端で言葉を交わすことなく俯いて突っ立っている男女の中学生はどのように映っただろうか。


 そのおじさんは立ち止まることなく、慣れた感じで「台所 ゆかり」の暖簾をくぐっていった。


 佐伯がまだ一人になりたくないのなら。


 今はそのことを佐伯の口から言わせては可哀そうだ、という気持ちが急に萌して僕は慌てて口を開いた。


「あのさ」


彼女の瞳に僕の袖をつかまえたいような寂しさが浮かんでいる。「ちょっとここら辺を一周しよっか」


「いいよ」


 光太郎がそうしたいのなら、という調子の返事だったが、それが虚勢でしかないのは間髪入れないタイミングだったことから分かる。


 今日の佐伯はやはり傷を負っている。


 僕たちは再び自転車を押した。


 佐伯の母親がどんな人かと「台所 ゆかり」の前を通り過ぎる時に店内の様子を窺おうとしたが、暖簾が邪魔をして木製のカウンターと幾つか並んでいる椅子しか見えなかった。


 二人の自転車のライトが僕たちの気持ちを示すようにゆらりゆらりと近付いたり離れたりする。

 少しずつ佐伯の家は遠ざかり、どこからともなく沈黙が訪れ、空気を重くしようとする。

 僕はのしかかる重苦しさを振り払うように口を開いた。


「僕の母さんは二年前に交通事故にあったんだ」


 僕は自分の記憶を整理するようにゆっくりと言葉を選んで話した。「母さんが自転車に乗っていて相手は信号無視のトラック。母さんは十五メートル以上ふっ飛ばされた。民家の塀に頭を強く打って丸五日間こん睡状態。六日目に医者が、このまま目を開けずに遷延性意識障害、俗に言う植物状態になる可能性が高いです、って父親と僕に告げたときに、母さんは奇跡的に目を覚ましたんだ」

「よかった」


 母さんが生きていることを知っているのに佐伯は僕の言葉にホッと息をもらす。


「その後すぐにまた眠っちゃったけど、母さんは死んでいないってことが実感できてすごく嬉しかった。次の日、また同じ時間に母さんは目を覚まして、その時は一時間ぐらい起きていられた。その次の日は起きていられる時間が十分ぐらい延びた。その次の日も十分ぐらい延びた。そうやって毎日徐々に起きていられる時間は長くなっていったんだ」


 僕の話を聞く佐伯の顔に、もう安心だね、という言葉が浮かんでいる。

 そうやって少しずつ健康を取り戻して事故の前と同じ状態に戻っていったんだね、と。


 だったら今日まで入院しているはずないじゃないか。


「だけど、二時間起きていられるようになってからは時間が延びてないんだ」


 佐伯は僕の言ったことが理解できていないようだった。


「どういうこと?」

「母さんはこの二年間毎日決まって午後四時半から五時の間に目を覚まし、大体二時間ぐらい経つと眠ってしまう。それ以外の時間に起きることはないんだ」

「そんなことって……」

「あるんだ。何が原因か分からない。いろんな医者に診てもらったけど、誰も答えられないんだ」

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