第21話
外は夜の一歩手前という時間帯で、西の果てには残照があるが灯りの少ない校内では足元さえ覚束なかった。
校舎の窓からぬっと顔を出した丸い月は若干赤みを帯びていて妙に禍々しく印象的に見える。
先ほどの陽平の凶暴な行動を目の当たりにして僕の神経が過敏になっているからだろうか。
月明かりに照らされた佐伯は右の肘の辺りを左手で抱えるようにしている。
「職員室、行く?」
僕は目撃者として言わなくてはいけないことを口にした。「行くなら一緒に行くよ」
美術室での出来事は犯罪というカテゴリーに含まれる可能性が高い。
だとすれば被害者である佐伯は陽平を公に糾弾する権利があるし、青臭く言えば教師を通じて陽平の親や警察に連絡を取ることが今回の場合の社会的に正しい手続きのように思う。
佐伯を病院に連れていって検査し怪我があれば治療を受けさせてやることも必要だ。
しかし、校舎の階段を降りながら僕が考えていたことはもっと別のことだった。
はじめから佐伯について美術室まで行けば良かった。
僕の頭はそれに固執していた。
もしそうしていれば陽平が過ちを起こすことも、佐伯が傷を負うこともなかったのに。
今さらそんなことを考えても無意味だということや、あのとき僕がついていくと言っても佐伯に即却下されていただろうということも分かっている。
しかも、もし仮に今日はそれで事件を防ぐことができていたとしても、陽平が佐伯に心を奪われている以上、遅かれ早かれこういうことが起きたのだろう。
しかし、それでも僕は何とかして今回のことをなかったことにしたかった。
可能であるのなら時空の狭間に飛び込んで時間をさかのぼり、事が起こる前の佐伯か陽平と出会って話をしたかった。
そして何度考えてもそれができないという現実にぶち当たって下唇を噛みしめた。
だが、僕のわずかに残されていた冷静な思考の回路が、被害者に付き添って行くべきところには行かなくてはいけないという当たり前の行動を何とか思い起こさせた。
それが事件に間接的にでも関わった僕の務めだった。
俯いた佐伯の顔はよく見えなかったが、立ち止まって彼女は確かに大きくゆっくりと首を横に振った。
それを確認して僕はホッと胸をなで下ろしていた。
提案しておきながら、僕は決して職員室に行きたいわけではなかった。
いいのか、ともう一度訊ねる僕は卑怯な人間だ。
全てを佐伯の判断に委ねてしまい、その意思を尊重するような顔つきで実のところは責任逃れをしている僕は偽善者だ。
どうしてだろう。
この期に及んでも僕は陽平の進学とこれからのサッカー人生を何とか守れないだろうかと考えていた。
本来的には身体と心に傷を負った佐伯のことが今は一番であるべきなのに。
「肘、痛いの?」
「平気」
空に浮かんでいる仄かに赤い血の滲んだ眼球のような満月。
罪深いお前の心の中は全てお見通しだと凝視されているようで、僕は天界の目にも見える今日の月から慌てて顔を伏せ、佐伯の隣を黙々と自転車置き場に向かった。
できることならこのまま佐伯が目を閉じ、口をつぐむことで今回のことは三人だけの秘密にしておきたい。
そして時間の流れに身を委ね現実だったのか夢だったのか分からない曖昧な程度になるまで、今日の記憶をはるか彼方におしやってしまいたかった。
身体がふらふらするから、と自転車に乗らず押して歩きだした彼女の横を同じようにして僕も並んで歩いた。
彼女の家は歩くと二十分ほどかかるらしいが、今日は彼女を一人にするわけにはいかない。
しかし、並んで歩いても沈黙だけが重苦しく続いてしまう。
腕が触れ合うほどそばにいるのに会話がないのは息が詰まった。
「佐伯は絵を描くのが本当に好きなんだな」
絵の話題なら今の佐伯でも話せるかと思った。
「好きだけど、なんで?」
佐伯の目に少し力が戻ってくる。
「絵を描くのがもっとうまくなりたくてK高目指してるんだろ?それで苦手な勉強もあんなに真剣に取り組んで、いつもすごいなと思ってるんだ」
正直な感想だった。
自分の夢のためなら嫌だと思うことでも音を上げずに黙々とこなす佐伯のひたむきな姿を目にして、僕はたびたび心を揺り動かされている。
この年齢で将来の夢をしっかり見据え、それに対して努力を惜しまない。
そういう姿勢を目の前で見せられると僕はすごいなと感心するのと同時に、自分がちっぽけな存在に思えてきて情けない気持ちになってしまう。
僕は将来、何になりたいのだろう。
今の時点でしっかり自分の未来像を描いていないと、あっちへふらふら、こっちへふらふらと小さな帆船のように周りに吹き付ける風の影響次第で針路が狂い、振り返ればどうしてこんなところへと思うようなところに辿りついてしまうのではないだろうか。
「夢のためなら何だってできるだろ?」
中学三年生でこんなことを言う奴はなかなかいない。
そんな言葉を臆面もなく聞かされたら、こっちが恥ずかしくなってしまう。
しかし、彼女のきりりと引き締まった声には冗談めかした色は微塵も浮かんでいない。
彼女のように夢を自分の視野の中心に据えている人には今の言葉は当たり前のものなのだろう。
だが、波間に漂うちっぽけな僕にとって夢という言葉は会話の正面に捉えるにはあまりに大きく眩しくて、少し話題の方向性を変えた。
「その絵のモデルっているの?」
僕が拾ってきた紙袋には佐伯が描いていた絵が入っていた。
三面鏡で口紅を引く女性が描かれている。
「あたしが小さいときのお母さん。お母さんが鏡を見ながら化粧するのを見てるのが一番好きだったんだ。どんどんきれいになってくお母さんが鏡越しにあたしににっこり笑ってくれるのを、いつも胸をときめかせながら待ってた」
「へえ。お母さんのこと好きなんだね」
「もちろん。あたしが生まれた時からずっと女手一つであたしを育ててくれてるんだから、本当にありがたいって思ってる」
こんなに素直に親への感謝の気持ちを言えるなんてすごいと思った。
そして僕は彼女に父親がいないことを初めて知った。
彼女の言葉の背景には、何があったの、とは簡単には訊けないような事情が垣間見えるようで僕は黙り込んだ。
彼女が普段見せている相手を威圧する鉄仮面のような表情の裏側には、彼女のこれまでの生い立ちが大きく横たわっているようだった。
うちもいろいろあるけど佐伯の家にもいろいろあったんだろうな。
「あたし、もうすぐ父親ができるかもしれないんだ」
佐伯の声は複雑な色を帯びているようだった。
少なくとも単純に喜んでいる様子ではない。「その人、あたしの本当の父親みたいなんだけど、なかなか……ね」
うまく言えないけど、と佐伯は呟いた。
いつも歯切れの良い佐伯が「なかなか」の後に続く言葉を見つけられないでいる。
きっとそこに収まる言葉は一つではないのだろう。
どんな国語学者だって心理学者だって十五歳の感情は簡単には表現できない。
「そっか」
簡単に「大変だね」と言ってしまいそうで、僕は慌てて口を噤む。
僕みたいな半人前の人間が何か言葉を掛けられるような性質の問題ではないような気がした。
佐伯も僕に何かを求めているわけではないだろう。
陽平とのことで傷を負って脆くなった心の壁から、たまたま弱音のようなものが浸み出してしまっただけのことだ。
その人がどうして実の父親だと分かるのか。
実の父親だとして、その人は今までどこで何をしていたのか。
その人はいつから佐伯のことを実の娘だと認識していたのか。
全く知らなかったのか、それとも知っていながら事実から逃げていたのか。
佐伯はその人を実の父親として迎えることに抵抗がないのか。
訊ねたいことはいくつも出てくるが、部外者の僕がおいそれと触れて良い問題ではない。
「この絵、結婚祝いにあげようと思って」
「きっとお母さん喜ぶね」
彼女は前を向いたまま満足そうに頷いた。
「大げさじゃなく今のあたしの家狭いから。あたしがどんな絵を描いてるか、お母さんにすぐばれちゃうの。今回はサプライズってことにしたかったから家では描けなかったんだ」
「だから美術室だったのか」
「そういうこと。でも美術室の方が集中できるってこともあるよ。うちは狭い上に騒々しいから」
何故騒々しいのだろうか。
佐伯には幼い弟か妹でもいるのだろうか。
しかし、たった今佐伯家の少し複雑な家庭環境を聞いたばかりでは、それ以上のことを訊ねることも憚られた。
美術室の方が集中できるということの一面は理解できた。
僕も今回佐伯と図書室で勉強してみたら、自分の部屋でやるよりもはかどっている。
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