第20話

「やめろよっ!離せっ!」


 美術室の中で床にイーゼルや絵筆などが転がったような硬質な音が廊下に響き渡る。

 佐伯が誰かと揉み合っているようだった。

 やっぱり錯覚なんかじゃなかった。


 レイプという言葉が脳裏に浮かんで僕は階段の上で動けなくなった。

 佐伯の身に何かあったのではないかという直感に従ってここまで駆けてきたのだが、その感覚が正しかったことが明らかになったのに、僕は立ちすくんでしまっていた。


 怖かった。

 僕は薄暗い廊下で得体の知れない恐怖に身体の自由を搦めとられていた。


 何故だろう。

 何が怖いのだろう。

 佐伯が誰かに襲われているという事件に首を突っ込むことに面倒さを感じているのか。

 その誰かの暴力的行為の標的になるという危険性が心を鷲掴みにするのか。

 それとも……。


「やめろよ!マツ!」


 そうだ。

 僕は知っていた。

 陽平が佐伯のことを好きだということを。

 佐伯が飲みさしのジュースを僕にくれようとしたときに見せた陽平の嫉妬に燃えた眼差しを。

 積極的に佐伯に話しかけるのだが軽くあしらわれて悔しそうに歯がみをしている彼の暗い表情を。


 僕は怖かったのだ。

 彼を失うことを。

 彼の友人であるという僕の立場を失うことを。


 僕なんて日陰の道端に生える名もなき雑草のようなものだ。

 顔が整っているわけでもなければ、足が速いわけでもない。

 面白いことを言ってクラスを楽しませることもできない。


 そんな僕にとって陽平は光であり水でもあった。


 みんなの邪魔にならないように汲々として毎日を過ごす僕は、不意に訪れる彼とのたわいもない会話の間にだけは、まばゆい光が全身を照らすのを存分に味わいかつ潤いを吸収しているような気がしていた。

 その短い時間だけ僕は四肢を思い切り伸ばすことができる。

 それは彼から照射されるものを身体中で受け止めることを許されている時間だからだ。


 他のみんなにとっても大なり小なり陽平とはそういう存在なのだと思う。


 僕は幸運にも彼と知り合いになれて、友人と言えるぐらいに言葉を交わしている。

 それだけで周りから見れば少し羨ましがられているはずだ。

 陽平と冗談を言い合っている間に、僕は周囲からの羨望の視線を疑いようもなく感じているのだから。

 そして僕もそういう類の眼差しを気づかない振りをしながら全身の肌に受け止め、優越に浸り鳥肌が立つような快感を覚えている。

 僕が周囲に対して優越感を抱けるのは学校生活でその瞬間だけと言っても良い。


 それなのに。


 ここで一歩足を踏み出せば、僕は彼の全てと正面に対峙し彼の行動を厳しく指弾しなければならなくなる。

 僕は校内一の人気者、学校の太陽であり慈愛の雨とも言うべき彼に憎まれ遠ざけられる敵となってしまう。


 僕の膝は激しく震えていた。

 どうかすれば後ずさりしてしまいそうだ。

 逃げ出すことができればどれだけ楽か。

 しかし、ここで逃げれば佐伯はどうなってしまうのか。

 こうしている今も佐伯の自由は少しずつ奪われ、そして最後には……。


「どういう意味なんだよ!」


 聞こえてきたのは陽平のこの世の不条理の全てに抗うような激した口調だった。

 彼の荒い息づかいが部屋にこだまして、鮮明に僕の耳に飛び込んでくる。

 彼の声は怒りを露わにしていた。

 困惑してもいるようだった。

 今までに彼から聞いたことのないどす黒い響きだった。


「何がよ!」


 声の大きさで勝ち負けが決まると考えているかのように佐伯も声を張り上げた。


 二人の動きが止まったようだ。

 わずかな距離を保ちながら正対し睨みあっている様子が目に浮かぶ。


「光太郎なんかのどこがいいんだよ!」

「どうして光太郎が出てくるのよ」

「同情なんだろ?女子とろくすっぽ喋ることもできないダサいあいつが可哀そうだと思ってんだろ。それともいつも女子に囲まれてる俺への当てつけか?」

「何言ってんの?ばっかじゃない?」


 佐伯はせせら笑っているが、必死さは隠しようがない。

 喉の奥に針を刺されているように声がひっくり返っている。


「馬鹿はお前だろ。いいから俺の言うこと聞けよ!」


 直後、佐伯が発した短く甲高い悲鳴が僕の何かを引き裂いた。

 左の肩口から右脇腹にかけて鋭利な刃物で両断されたような感覚があってから急に全身に力が漲った。


 再び激しく動き出した美術室に僕は気がつけば足を踏み入れていた。


「やめろ、陽平!」

「光太郎、助けてっ!」


 床の上に横たわり陽平に馬乗りになられて押さえつけられていた佐伯が僕に向かって手を伸ばす。


 僕を振り返った陽平の顔。


 西日がいつの間にか没した薄闇の中でも彼の表情がみるみる色を失っていくのが分かる。

 今の彼は周囲に照射すべき内面からの光を失っていた。

 陽平から僕は何も感じられなかった。

 何も受け取れなかった。


 呆然としている陽平を振りほどき、佐伯がスカートの裾が捲れ上がっているのも直さずに僕の方に駆けてくる。

 彼女は僕の腕にしがみつくと陽平の視線から身を隠すように背中に回り込んだ。

 僕のカッターシャツをつかむ彼女の手が震えているのが分かる。


 佐伯が恐怖に戦いている。

 あの佐伯が僕にすがっている。

 僕は不意にこみ上げてきた思いの丈を目一杯吐き散らした。


「陽平。お前、何やってるんだよ。これがお前の人生にどういう意味を持つんだよ!」


 佐伯に突き飛ばされたまま力なく床に座り込んでいる陽平が僕の言葉でどんな風に表情を動かしたかは見えなかった。


 聞こえるのは息遣いだけだった。

 僕は両肩を大きく上下させて浅い呼吸を繰り返していた。

 その僕のすぐ後ろで佐伯は懸命に自分を落ち着けるようにゆっくりと深く息を吐き出す。

 陽平はしゃくり上げるように鼻を啜っている。


 まだ震えがおさまらず僕のシャツを破れてしまいそうなくらいに強く握っている佐伯の指を僕は少しずつはがし、その肩に軽く手を置いて廊下に促した。


 ドアを出るときに不意に佐伯が振り返り、美術室の床に転がっている大きな紙袋をおずおずと指差した。


 それは僕らと陽平の丁度間にある。

 捨て猫のように弱々しい目で佐伯が僕を見上げる。

 僕は佐伯の肩を軽く叩いてその袋を取りに陽平の前まで歩いていった。


 紙袋を拾い上げても陽平はぴくりとも動かなかった。

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